あの日は雪が降っていた。
最後に見たのは、傘の中の笑顔。
友達と連れ立って歩く彼女は、みんなを追い越して行く私に気付いて笑いながら手を振った。
夜、電話するね。
すれ違いざまにそう言ったのは、何を話したかったからだろう。
――大学を卒業する間際。
互いの胸の中、少し遠い位置にいる彼のことを、ゆっくり話してみたかったのかも知れない。
そしてそれは、一瞬で引き裂かれた。
彼女の笑顔も、未来も、すべてが消えた夜から7年が経つ。
あの雪の日より冷たい空気の、目が痛いほどに晴れた青空の下で。
私は小さな花束を手に、もう何度通ったか分からない道を辿る。
それでも、ここに来るのはひさしぶりだった。
日々の生活の中で、あの頃の私のままではいられない時間が増えて。
ごめん、言い訳だね。
今日は、たくさん話をしよう。言いたかったこと、言えなかったこと、今なら泣かずに話せるかな。
白い息を吐いて視線を上げた先に、茶色のコートが見えた。
ゆっくりとこちらを向く。その顔に驚きの色が広がっていく。
たぶん、私も同じ顔をしてるだろう。
「……理美……か?」
「――うん」
春香。
これはあなたのしわざ?
どうしてここで、彼に――洋一に会ってしまうのかしら。
「でも」
私はまず、すでに生けられている花の脇に自分の持ってきた花を生け、手桶から汲んだ水を墓石にかけた。
この花が彼の生けた物なのか、7年目の今日、家族か友達の誰かが生けたのか、訊かなかった。
火の点いたお線香を並べ、黙って手を合わせる。
洋一はその一連の儀式には加わらず、少し後ろに立っていた。
閉じていた目を開け、でも、と呟く。
「え?」
「今までここで会わなかったほうが不思議よね」
「――そうでもないだろ。俺は、2度目だから」
「そうなの?」
意外だった。きっともっと、何度も訪れているだろうと思っていたから。
「……なかなか、来られなかった」
あれから7年。
春香のお葬式にも、1周忌にも、洋一は来なかった。
その後の供養は春香の家族にまかせ、私達はゆっくりと春香の抜けた穴を埋めていった。
仕事や、恋や、生活のすべてで。
時折あの頃の仲間で集まっては、結局泣き明かしたり。
1人でここへ来て、黙って冷たい石を見上げていたり。
そんなふうにしながら、春香のいない毎日が当たり前に過ぎていく。
この人はきっと、そうして受け入れて忘れていくことができなかったんだ。
『――俺の、せいだ――。俺が、久住を殺したようなもんだ!』
血を吐くような叫び声を、忘れることはできない。
あんなに感情を表に出した洋一は、初めて見た。
もう、とっくに終ってたよね。
その手を離したのは私。あなたの素顔に追いつくことができなくて、優しい手を選んだ。
薄暗い病院のロビーで、床に崩れるあなたを見た時、私は何を思ったろう。
ああ、そうか。そうだったんだ。
不思議と納得して、ひどく哀しくて。
墓地を囲むようにある雑木林から、鳥の声が聞こえる。
抜けるような青空に、薄い雲が流れて行く。
「……いつからいたの?」
「30分くらい前……かな」
「いろいろ、話した?」
「うん、まあ」
照れたように笑う。その笑顔が、好きだった。
「あー……俺、邪魔だよな。ゆっくり話したいだろ?」
「大丈夫。いつも話してるから」
そう言って笑う私に、洋一も静かに笑い返す。
大人になってしまったね、みんな。
こんなに遠くまで来たのに、あの無邪気な笑顔は、真っ直ぐな瞳は、変わらずにここにある。
「何年ぶりかな」
「何が?」
「いや、おまえに会うのがさ」
「そうね……5年くらい」
同窓会で、一度だけ会った。
ぎこちない会話。曖昧な言葉。
こうして肩の力を抜いて話せるくらいには、強くなれたと思っていいのかな。
「そんなに経つか……」
「オバサンになったでしょ」
「何言ってんだよ。同じ年で」
穏やかに笑う。私の知らない場所で、自分の時間を生きて得た、笑顔。
「洋一、彼女できた?」
「――何だよいきなり」
「訊いてみたくなったから」
「……まあ……そんなようなのは……一応……」
もごもごと言う彼に、思わず吹き出す。
「まったくもう、はっきりしないわねぇ、いつまでも」
「……悪かったな」
「結婚するの?」
「――と、思う」
「あのねぇ」
私は人差し指を立てて、洋一の鼻先に突きつけた。
「そういうのは、彼女とか婚約者とか言うのよ。一応そんなようなの、じゃないでしょ」
「……」
洋一が一瞬顔を顰めて、その後で笑い出した。
「かなわねぇなあ、理美には」
あの頃の笑顔。
だから私は、ずっと自分が振られたような気分でいたのよ。
こんなに、こんなに好きだったのに。
「……おまえは?」
「何のことかしら?」
「とぼけるなって。彼氏くらいいるんだろ?」
「彼氏ねぇ……いたらヤバイわね」
「は?」
「ダンナならいるから。あと」
Vサインのように指を2本立てた私の右手を見て、洋一が首を傾げる。
「チビスケが2人ね」
「ええっ!」
「あはは。驚いた驚いた」
「……何だ。冗談かよ」
「んーん、ほんと。仕事で知り合った人とね、まあ、できちゃった婚だけど。
年子で2人目まで産まれちゃって、もう大変」
「――マジ?」
「マジだってば。今日は実家に預けて来たの。ダンナは出張だから、ちょっとここに来たくなって」
「……理美が、ママかよ」
「結構みんな知ってるよ? 洋一が付き合い悪いからでしょ」
「……ごもっとも」
風が出てきた。
近くにある木が、ざわざわと音を立てて揺れる。
あまり葉の落ちない種類なのか、茶色くなった葉っぱが風にあおられていた。
「……7年、経つんだもんな」
「そうだね……」
言ってやろうかと思った。
春香が好きだったんでしょ? 私のことは、そんなに好きでもないのに付き合ってたんでしょ?
だから、いつもどこか冷たかったんだよね。
5年前の私なら。
守ってくれる人や守りたいものがなかった私なら。
その襟をつかんで、問い詰めることができたかも知れない。
本当のことを言って。悪かったのはあなただと、そう思わせて。
好きだったのに。本当に好きだったのに。
そう言って、あなたの前で泣くことだって、できたかも知れないね。
洋一がゆっくりと立ち上がった。
黙って春香の眠る墓石を見つめる。
なんて、優しくて、哀しい瞳――。
何を話したんだろう。春香は、何て答えたんだろうか。
「――じゃ、俺、行くわ。……おまえは、まだいるのか?」
「ん……どうしようかな」
しゃがんだままで、生けた花の位置を直す。
またひとつ、風が吹き抜けていった。
「冷えてきたし、風邪ひくぞ」
「そうだね。……また、来るね」
あとの台詞は、いつもそこにある笑顔に向けて。
洋一は何も言わなかった。
もう一度あの優しい瞳を向けて、踵を返す。
空になった手桶を下げて、私も後に続いた。
「……どうして……」
「ん?」
「春香のところに、どうしてずっと来なかったの?」
並んで歩く横顔を見上げる。
『昨日は何してたの?』 『昨夜、電話してって言ったのに』 『これからどうするの?』
何度も見上げた、遠くを見る瞳。
答えなんて分かってる。
あんなにつらかった現実に向き合えるまで、私より他の仲間より、時間がかかっただけ。
それだけ、春香が好きだったんだよね、と、確かめたい私がいる。
前を向いたままだった瞳が、柔らかな視線を投げかけてきた。
「ずっと……来る必要なんてないと思ってたからさ」
「……必要ない?」
「あいつが……久住がいるのはここじゃないような気がして。どこにいても、話はできたから」
それが、すべて。
あなたが春香を想っていたということ。
私にも、あなたにも、かけがえのない人だったこと。
ねえ、今日は泣いてもいいかな。
家に帰って、母親の顔に戻ったあとで、眠りにつく前に。
少しだけ、あの頃の私のために、泣いても許してくれる?
「……うん」
頷いた私は、青く澄んだ空を見上げた。
洋一も同じように、足を止めて顔を上げる。
いつか、そこへ行くから。
たくさん話して、笑って、泣いて、一緒に過ごそう。
顔を戻した洋一と視線が合う。
――こんなふうに笑いかけてくれたことも、忘れてしまってた。
それぞれの場所へ、歩き出す。
決して消えることのない、同じ笑顔を胸に抱いて。
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