ふと、空を見上げてみた。
引越し屋の車が来るまであと1時間。秋の終わりの空はもう、冬の色を纏ってそこに横たわっている。
雨が降らなければいいけど。
荷造りはとっくに終っていた。実家までは、2時間もあれば着くだろう。
――就職して3年目までは、その実家に住んでいた。
けれど25歳を過ぎても独りでいる身には、なかなか肩身の狭いものがあって。
家を出て家賃を払うくらいなら、その分貯金して結婚資金にするように言われていたけれど、
さし当たってその予定もないし。
私が独りで暮らすようになって間もなく、妹が結婚して家を出た。
それから3年経って、まさかこんな形で実家に帰ることになるなんて、思いもしなかった。
彼は、今何をしてるだろう。
日曜日の遅い朝。家族で遊びに出かけただろうか。
最近車をワゴンに換えたと聞いた。子供が3人もいるし、その方がいいんだろうな。
曇った空を見上げていたら、煙草が吸いたくなった。
学生の時から吸っていた煙草を止めて、だいぶ経つ。
こんな時は、ため息をつく代わりに吸いたくなるものなんだろうか。
ワンルームの部屋の中を見回してみる。ガランとした壁。積み上げたダンボール箱。
当然、煙草も灰皿もライターも、お茶を淹れる道具すら目につくところにはない。
引越し屋に、もっと早い時間に来てもらえば良かったかな。
窓のそばに腰を下ろして、ゆっくりと首を回す。
――最後に何か、気の利いたことでも言ってやれば良かった。
直属の上司である彼と付き合っても、いつかはこうなることを覚悟していた。
もちろん悪いのは私だ。
どちらかが言い出したわけでもないけれど、結局、こうして会社を辞めて出ていくべきなのは、私なんだ。
それでも、いいと思った。
彼が与えてくれた温もりや、教えてくれた道筋は、消えることはない。
それと引き換えに、負け犬のように逃げ出しても、いいと思った。
だからほんの些細なきっかけでそれがまわりに知れ渡って、どこにも行き場が無くなった時、私は笑った。
来月で退職します。
そう言った時の私の笑顔に向けられた彼の瞳の色だけが、最後の置手紙。
もっと傷付けて、罵って、嫌い合って終わりにすれば。
そんな子供じみた感情も、もう、どうでもいいというのに。
玄関のチャイムが鳴った。
思わず時計を見るけれど、まだ引越し屋の来る時間じゃない。
何だろう。早く着いてしまったとかいうなら、好都合なんだけど。
「はい?」
「あ、俺」
「――あら」
そこにいたのは、元同僚の野上君だった。
野上君、というのは人前での呼び方で、数年前の1件があってから、
互いに2人きりの時には下の名前で呼び合っている。
「どうしたの?」
「いや、なんか手伝うことあるかと……なさそうだな」
私の肩越しに部屋の中を覗いて、決まりの悪そうな顔をする。
滅多に見ない普段着姿の彼は、コンビニのものらしいビニール袋を持ち上げて見せた。
「時間あったら、ちょっとやらないか。引越し祝い」
冷えた缶ビールを受け取って私は苦笑する。
「何を祝うつもりなんだか」
「それを言うなって」
「まあいいわ。何も出せないけど、どうぞ」
本当に何も出せない。コップを出すのも面倒な状況だったから、そのまま缶ごと乾杯をする。
「車、何時?」
「あと――40分くらいかな」
「そうか」
「賢一、いいの? こんなとこに来て」
「何が」
「彼女ちゃんが心配するんじゃないの?」
賢一には、10歳下の可愛い彼女がいる。
隣に住んでいた従兄妹同士で、妹のように思っていたはずなんだけど――いつの間にか。
「余計なお世話。それはそれ。これはこれ」
「男ってそうよね。なんでそんな割り切れるんだか」
「別に俺、後ろめたいことはしてないぞ」
「まあ、そうなんだけど」
タイミングが悪い。
少しくらいは自分を可哀想だと思い始めていたところに、顔を出すんだから。
「――仕事、どうなった?」
単刀直入に訊くなあ。
こいつはいつも、真っ直ぐなんだ。そこが見ていてイライラする部分でもあり
――惹かれる部分でもありってとこかな。
「ちょっとゆっくりさせてよ。向こうで落ち着いてから探すわ」
「うん、そうか。そうだな」
心配してくれてるのはありがたい。でもね、半端な同情は却って残酷なんだよ。
そう思ったことが伝わったのか、少しの間気まずい沈黙が訪れる。
「――何か、言いたいことでもあるの?」
「いや、別に……ちょっと顔見ておこうと思っただけだよ」
「何言ってんの。このまま死ぬわけじゃないのよ。本当はそれが一番いいのかも知れないけど」
「小枝子!」
こんなことを言うつもりじゃなかった。
今さらこの人に哀れんでなんてほしくない。
――ほんの少し昔に、もしかしたら恋人になるのかなと、思うようなことがあっただけ。
それだけの、友達。
そう、友達というのが、一番合ってる。
「ごめん。でもあんたさあ、こんな時に来るのが悪いよ」
「……何で」
「それなりにこの部屋ではいろいろあったわけで、大手振って出ていけるわけでもなくて、
独りでしんみりしてる時にさ」
「ああそう。――そりゃ悪かった」
何が悪いのかなんて、納得していないような顔。
分からないけれど、来るべきじゃなかったとは思ってくれたみたい。
賢一は叱られた犬みたいな瞳をして、ため息をついた。
「んじゃ、俺……」
腰を上げる賢一の袖を引く。
「まあまあ、悪かったわよ。言い過ぎた。もう少しいたら」
「おまえ、言ってることメチャクチャ」
「そうかもね。ねえ、煙草持ってる?」
「はあ?」
彼は面食らった顔をして、ポケットから煙草とライターと――携帯灰皿を取り出した。
「こういうの持ってるとこが、あんたらしいわ」
「何が言いたい」
「いえ別に。1本もらっていい?」
黙って煙草の箱を開け、1本振り出してくれるのを受け取る。
ライターの火を点けてくれようとしたけれど、私は自分で火を点けた。
ゆっくりと吸い込む煙が、ひどく辛い。
咳き込みそうになるのを堪えて、大きく吐き出す。
少し、胸の奥が楽になった気がした。
2度目の煙が目に染みる。
泣いてもいいってことかな。泣いて、慰められて、――そして?
「バカみたい」
「……大丈夫か?」
「うん。全然」
何が大丈夫なんだろう。何が大丈夫じゃないんだろう。
こうなることは分かってた。
いつかはこうなるつもりでいた。
だから。
「……これから」
「うん?」
いいことあるのかな、なんて、言ってみたくなった。
でも言わない。どんな言葉で慰められるか、分かるから。
「ま、なんとかやってくわよ」
「……うん」
時計を見る。あと10分もすれば、車が来るだろう。
空になったビールの缶を袋に入れて、賢一が立ち上がった。
「途中で捨てとくよ」
「それはどうも。――ごめんね」
「何?」
「あんまり明るくなくて」
「当たり前。そんなこと期待してないから。――つうか、泣かせるつもりで来たんだけど」
軽く眉を上げた賢一の肩を小突いて、笑った。
「泣きたくなったら勝手に泣くわ」
「胸は貸せないけどな」
「いらないわよそんなもん」
互いに苦笑して、賢一は靴を履く。
「じゃあ」
「――あら、それだけ?」
「……今度は何だ」
「お別れのキスとか、ないの?」
なーんてね、と笑おうとした私の腕が、強い力で引っ張られた。
賢一の胸に倒れこむと思った瞬間、肩を支えられて唇が触れ合う。
ほんの一瞬。
さすがに目を丸くした私を睨んでいた賢一が、吹き出した。
「おまえ、何、その顔」
「……いや、びっくりしたわ」
「俺だって、やる時はやる」
「何それ」
どうしても最後には、2人で笑い合う。そして、きっとまた笑って会うことができる。
「……言うなよ」
「誰に?」
「誰っておまえ、そりゃ」
情けない顔をした賢一をドアから押し出す。
「はいはい。分かってますよ。どうもごちそう様でした」
「うわ、すげー台詞」
「ビールよ、ビール。じゃあね」
「ああ、またな」
閉まったドアの向こうで、賢一の靴音が響いて遠ざかる。
私は頬に残ったままの笑みをとどめようとして――少しだけ、泣いた。
呼吸を整えて、今日これからやるべきことを整理する。
そう、これからだ。
何もかも、始まったばかり。
すべての終わりは始まりに繋がっていることなど、とっくに知っている。
「藤村さーん」
引越し屋が来たらしい。私は、はーい、と大声で返事をして、もう一度部屋を振り返る。
まだ、微かに、煙草の匂いが残っていた。
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