2.
カンカンカン、と乾いた音を立てて、アパートの階段を上がった。
ケンちゃんの部屋は、三階の一番端。去年の春に、あたしの家の隣にある実家から、仕事の都合で引越して来た。
何度も、表札買いなよ、と言ったけれど、ただのメモ用紙にサインペンで書かれただけの『野上』の文字。
セロテープで留めてあるだけなのに、一年以上も剥がれずにがんばっている。
あたしは背伸びしてその『表札』を軽く撫で、玄関の鍵を開けた。
「あっつー」
誰もいない部屋は、蒸し風呂のように暑い。
冷蔵庫は空だし、ゴミはみんな処分したし、生き物は飼ってないからいいけど。やっぱり空気が悪い。
あたしは南向きの窓に駆け寄って、一気に開け放った。
ケンちゃんがいない一ヶ月。週に一度はこうして空気を入れ替えに来ている。
「さあて」
誰にともなく呟いて、ベッドからカバーを外し、洗濯機に入れる。
布団やマットも干して、ついでに脱衣所や台所のマットも窓から出してはたく。
掃除機をかけて、近所のコンビニにお昼を買いに行って、テレビを点けて一人で食べる。
……主婦って、こんな感じ?
肝心の『ダンナ様』はいないし、やってる仕事も全然少ないけど、帰りを待ってる気分には違いないかな。
お腹が一杯になって、ごろりと横になってみる。
開いた窓から、蝉の声が喧しく聞こえてくる。
どこかで子供の遊ぶ声。そう言えば、今年はまだ海にもプールにも行っていない。
部活と、課題と、友達との付き合いで毎日が過ぎて行く。
海やプールには、みんな彼氏と行くもんな。あたしも誘われたけど、ケンちゃんが行けないんだから仕方ない。
もっとも、あたしの友達と出かけるのにケンちゃんが付き合ってくれるか疑問だけど。
面白くないテレビを消して、蝉の声に耳を傾ける。
あれは、いつの夏休みだっけ。
ケンちゃんと良くんと、海に行ったことがあった。
確かあたしと良くんが小学生の時だったから、ケンちゃんに連れて行ってもらったんだと思う。
うちの親も、伯母さんもいなかった覚えがあるし。
大学に入ったばかりのケンちゃんは、彼女を連れて来た。あたしと良くんが海に入って遊ぶのを、二人で並んで見ていた。
帰りの電車で、あたしは疲れて眠ってしまい――半分夢の中で、ケンちゃんにもたれているんだと思った。
目を覚ましたあたしに、優しく微笑みかけてくれたのは、彼女さんだった。
――ケンちゃんの中のあたしは、あの頃の子供のままなのかな。
あの時の彼女とは、どうして別れてしまったんだろう。
――明日から合宿だ。早く帰って準備しなくちゃ。
あれから、何人くらいの女性と付き合ったんだろう。
――そうだ、ゴミを置いて行くのはまずいから、帰りにコンビニのゴミ箱に捨てさせてもらわなきゃ。
ケンちゃんは――今、何してるんだろう……。
用具の点検を済ませて立ち上がると、山の向こうに沈んでいく夕陽が見えた。
合宿三日目。明日には帰るという今日は、練習を早めに切り上げた。
部員はみんな競うようにお風呂に向かい、心はもう今夜の宴会に向いている。
あたしは後片付けのチェックをして、これからゆっくりとお風呂に入るつもり。
女子はあたし一人なんだから、何も急ぐ必要はない。
最初は、同じ学年にもう一人マネージャーの子がいたんだけど、夏前に辞めてしまった。
理由は、彼氏ができたからだそうだ。
何とも情けない気もするけど、まあ、仕方ないかな。こんな男ばかりの中にいたら、心配されるよね。
……ケンちゃんはしないけど。
夕陽の色が濃さを増し、ハチミツのように重さの感じられる空気が広がる。
――去年の秋の、静かな夕焼け空を思い出す。
あたしを包んでくれた、ケンちゃんの腕の温度。少しづつ闇に沈んでゆく景色。澄んだ空気。
触れた唇の冷たさ。速くなる鼓動。だんだんと、上がっていく互いの熱。
この空を飛べたら、あなたのいる街に着くのかな。
「……ら」
まだやっと半分。明日家に帰ったら、電話してしまおうかな。……そうもいかないか。
「……むら」
向こうでもお休みの日くらいあるよね。何をしてるんだろう。遊びに行ったりするのかな。
「吉村、って!」
「えっ!」
振り返ると、池田先輩が眉をひそめてこっちを見ている。
「あ、はい、何でしょう」
「何ぼーっとしてんだよ」
「いえ、何でもないです」
この間から言われてばっかりだわ。気を付けなくちゃ。
あたしはぎこちなく笑顔を作って、記録用紙の束を抱え直した。
「まだ片付け残ってるのか?」
「いえ、もう終りました。ちょっとぼんやりしてて」
そう言うと、先輩も顔を上げて夕陽に手をかざす。
「ああ、すごいよな、やっぱ」
「そうですね。山に来たって感じですね」
「って、もう明日には帰るんだけどな」
「あはは。今日やっとゆっくり見れた気がします」
「だよな」
しばらく、二人で黙って夕陽を見つめる。
あの日と同じように、端から変わっていくグラデーションの魔法に、取り込まれてしまう。
でもやっぱり夏だなあ。全体に色が濃いような気がする。
……今、隣にいるのがケンちゃんだったらな。
そんなことを考えて隣に目をやると、池田先輩と目が合った。
「……先輩?」
「吉村……俺……」
「おーい、池田ー!」
宿舎のほうから、顧問の先生が呼ぶ声がする。
「――はい!」
先輩はあたしを一瞬見て、大声で返事をした。
「メシの前に反省会やるぞー。さっさとフロ入れ!」
「分かりました!」
ため息をついて、苦笑して、あたしの頭に軽く手を載せる。
「んじゃ、な。お疲れさん」
「あ、はい」
……何でこの人、ケンちゃんと似たしぐさをするんだろう。
宴会の続く広間から、にぎやかな笑い声がする。
あたしの部屋は一階の一番奥。先生の隣を一人で使っていた。
他の部員は全員二階にいて、一部屋に6人押し込められている。
少し広すぎる部屋の窓にもたれて、ぼんやりと携帯の画面を眺めていた。
友達からのメールが二件。ケンちゃんからは、何もなし。
国際電話って、携帯に繋がるのかしら。一度くらいかけてみようとか、思わないのかな。
そうだ、ネットくらいあるんだろうから、メールは送れるじゃないの。
冷たいんだよなあ、もう。
あと二週間。あたしは、少しは成長したんだろうか。ケンちゃんは、あたしに会いたいと思ってくれてるんだろうか。
会いたいなあ。
泣いてもフクレても届かないのは分かってるけど、たまに泣きたくなってくる。
もう完全にあたしの負け。こっちから追いかけてばかりだもの。
襖の向こうから、ドアを叩く音がした。続いて、あたしの名前を呼ぶ声。
「……はい?」
「ごめん、まだ、起きてるか?」
池田先輩だ。どうしたんだろう。
「はい。何ですか?」
あたしは立って行って、細めにドアを開けた。
「……ちょっと、いいかな」
思わず部屋の中を振り返り、慌てて廊下に出る。後ろ手にドアを閉めて、先輩を見上げた。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと……」
Tシャツに短パン姿の先輩は、お酒のせいか少し顔が赤い。
あたしはほとんど飲んでないけど、ジャージの上下を着ていて良かったと思ったりした。
広間から、また、ひときわ大きな歓声が聞こえた。相変わらず盛り上がっているらしい。
先輩は黙ってあたしを手招きすると、先に立って歩き出した。
貸切になっている旅館のロビーに出る。
フロントも閉まって人気のない空間に、自販機の灯りだけがぼんやりと白く浮かんで見えた。
しばらく黙ったままで先輩の近くに立っていると、ジー、と微かなモーターの音が耳についた。
「……吉村」
「はい」
何だろう。何か昼間ミスでもしたのかな。これと言って変わったことはなかったと思うんだけど。
「聞いてほしいことがあるんだけど」
「……はい」
ロビーの隅に立った先輩は、一度大きく息を吸い込んで、あたしの目を見た。
「俺と、付き合ってくれないかな」
「……は?」
「うん、つまり、そういうわけなんだけど」
そういうわけって、どういうわけだろう。……でも、まさか、そんな。
「先輩……酔ってます?」
「まあ、まるきりシラフでもないかな。だから今のうちに言おうと思ったわけで……ああ、でも、マジだから」
「……そう、言われても……」
あたしが困って目をそらすのを見て、先輩が天井を見上げた。
「そうか、やっぱ、ダメか」
「ごめんなさい。あたし……」
「好きなヤツ、いるんだ」
「……はい」
苦笑いする先輩は、ケンちゃんより少し背が高い。真面目で、優しくて、話し易くて、いい人だ。
――どこか、ケンちゃんに似ていると、思っていた。
「そうか」
「すみません。あの……でも……ありがとうございます」
「彼氏、うちの学校?」
「え? いえ、違います」
実は従兄で、10歳上なんです、て言ったら驚くかな。
「そうか。うん」
そう繰り返して、頭を掻くと、優しく笑ってくれた。
「悪い、変な話して」
「いえ、全然、そんな……」
「俺も、今度の大会で引退だからさ。おまえとも、あんまり会えなくなるし」
ああ、そうか。あたしは練習中の先輩の、何かに挑むような視線を思い出していた。
「んじゃ、またよろしく頼むわ」
「……はい」
照れくさそうに笑った先輩が、もう一度あたしの頭に、ぽん、と手を載せた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
軽く手を振って、宴会場のほうへ戻っていく。あたしは詰めていた息を吐き出した。
今度の大会。悔いのないように、がんばって下さい。
あたしは、他のみんなと同じように応援することしかできないけれど――。
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