1.
真上から照りつける太陽に、あたしは右手をかざした。
すこん、と抜けるような青い空。厚みのある大きな雲。
大学一年の夏休みは、グラウンドで砂埃にまみれているうちに過ぎていく。
「よーし! ダッシュ10本!」
「おーっす!」
ああもう、完全に体育会系。当たり前だけど。
陸上部の部員達は、秋の大会に向けて、夏休み中もこうして練習に出て来ている。
みんな真っ黒に日焼けして、汗の粒が額や首すじで塩になってそうだ。
――なるべく日陰にいよう。
あたしはバインダーを抱え直して、さりげなく後ずさった。もう一度空を見上げる。
くっきりと青い空は、彼のいるところまで続いてるんだろうか。
彼――野上賢一は、あたしの従兄。10歳上の社会人で、今は会社で『主任』をやっている。
先週、新しく始める事業の視察だとかで、一ヶ月間の出張に行ってしまった。
シンガポールへ。
一応緊急時の連絡先は聞いているけれど、そうそう電話もできない。携帯も通じないし、メールも届かない。
まだ一週間もたたないというのに、彼のいない日々はあたしをすっかり無気力にしていた。
去年の春から付き合い始めて、その年の秋にやっとお互いの家族に打ち明けて、これからって時に。
いや、何がこれからってわけでもないんだけど。
夏休みだよ。バケーションだよ。
いくら大学の休みが長くたって、一ヶ月も放っておくことないじゃないの。
やっぱりあの時、はっきり決めておけば良かったかなあ、と思ったりもする。
「あら、お帰りー」
去年の秋。夜11時過ぎに彼と一緒に帰宅したあたしに、母は明るくドアを開けた。
ケンちゃん――あたしは彼をこう呼ぶ――は少し緊張した顔で、遅くなってごめん、と笑った。
「……叔父さん、まだ起きてるかな」
「お父さん? 今お風呂だけど」
「あ、そう――少し待たしてもらっていい?」
「どうぞ?」
不思議そうな顔の母に続いて、ケンちゃんが家に上がる。あたしは――しばらく動けなかった。
「夏菜、何してんだよ」
「う、え、だって……」
「だって、何」
「……やっぱり今日じゃなくても……」
小声でもめていると、リビングから母が顔を出す。
「お父さんお風呂出たわよ。早く入んなさい」
何となく押し合うようにしてリビングに入り、ソファに並んで腰を下ろす。
「で、何?」
「あ、いや、叔父さんが来てから……」
「やあねぇ、改まって」
笑って言う母の顔を、何故か直視できない。ケンちゃんも目をそらし気味に、壁の時計を睨んでいる。
「おー、上がったぞー」
寒くなる頃で良かった。父はしっかりパジャマを着てリビングに入ってくる。
夏だと、ステテコ1枚だったりするんだから……。
「何か、話があるみたいよ」
「話?」
タオルで首すじを拭いながら母の隣に座った父は、眉を寄せてあたし達の顔を見比べた。
「何だ」
「……いや……うまく言えないんだけど……実は」
「なあに、結婚でもするの?」
あっけらかんとした母の声に、思わず顔を見合わせる。
「え、えぇ?」
「や、ちょ、まだそこまでは……」
うろたえるあたしとケンちゃんを見て、今度は父と母が顔を見合わせた。
「……違うの?」
「えー、違うというか、何というか……」
完全に出鼻を挫かれた感じで、ケンちゃんがしどろもどろになっている。
「てっきり、まーくんに結婚したい人でもできたのかと思ったけど。何で夏菜まで慌ててるのよ?」
……そうか、そう来るか……。
「いや、違うよ。そうじゃなくて……」
ここでまた、あたしとケンちゃんの視線が絡む。
「え? ……何? ……あんた達、まさか」
「うん。実は、俺と夏菜――付き合ってるんだ」
ふいに、目頭が熱くなった。
どういうわけだろう。真剣なケンちゃの声に、顔を覆って泣き出してしまいたくなる。
けれどあたし以外の三人は、凍りついたように動かなかった。
「……あの」
遠慮がちに呟いたあたしに、母が顔を上げて胸を押さえた。
「ああ、びっくりした」
「……だよな。ごめん、黙ってて」
「いつからだ」
父の低い声が、静かなリビングに響く。
「春頃かな。俺が向こうに越してすぐ。……なかなか言い出せなかったんだけど、黙ってるのは俺の性に合わないから」
張り詰めた空気が、ケンちゃんと父の間に流れる。
あたしは息を止めて、次の言葉を待った。
「そうか」
父がため息をつくのと同時に、あたしも息を吐き出した。
母が立ち上がって、お茶を淹れに行った。遅れてあたしも手伝いに立つ。
「まあ、あれだな」
しばらく天井を眺めていた父が、ケンちゃんに目を戻して苦笑した。
「ヘタによく分からん男と付き合うよりは、賢一のほうが安心だわな」
「それは言えてるわね。で、どうすんの?」
「どうするって……何が」
「いつ結婚するの? 夏菜が卒業したら?」
「お、お母さん!」
あたしはお茶をひっくり返しそうになった。ケンちゃんも目を丸くして固まっている。
「あら、そのつもりなんじゃないの? だって、まーくんはもういい年じゃないの」
「いや、俺はともかく、夏菜はまだ……」
「別にいいじゃないか。高校は出るんだし」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。そんなんじゃないって」
「そんなんじゃないって、どういうこと?」
あたしはお茶のお盆をそのままに、ケンちゃんに駆け寄った。
「い、いや、だから……」
「そういう対象じゃないってこと? 遊びだったって言うの?」
「おい、何つう言い方……」
「ひどい、ケンちゃん、あたしを弄んだんだ!」
「バカ! まだ何もしてないだろが!」
一瞬、部屋が静まり返った。
「……あら、まあ、そうなの?」
「……カンベンしてくれよ、もう」
「今時の若いもんにしちゃ、オクテなんだな賢一は」
「あのなあ!」
そう、あの時に、結婚するつもりだとか言ってくれても良かったのに。
まだこれからだからとかなんとかごまかして、うやむやにされてしまったんだ。
あれから伯母さん――ケンちゃんのお母さんにも、ケンちゃんから直接話してくれたらしい。
伯母さんはやっぱりびっくりして――良とじゃなくて? と訊いたそうだ。
良くんはケンちゃんの弟で、あたしとは二歳違い。今は、イギリスに留学していて、この秋に帰って来る。
年の近い良くんのほうだと思われても、無理はないかな。
とりあえず一応は両方の親に『公認』という形になって、あたしは無事に大学に入学して。
今は英文科と、この陸上部に籍を置いてなんとかやっている。
そしてあれきり、結婚のケの字も出てはいないのだ。
ケンちゃんが『オクテ』かどうかはともかく、真面目な人なんだとは思う。
だから、実際に結婚するまであたしには手を出さないつもりなんじゃないかとか、考えたりもした。
――そんなことはなかったんだけどね。
「吉村ァ!」
「はいっ!」
ぼんやりと考え込んでいたあたしは、先輩の声に飛び上がった。
「何やってんだ、百のタイム取るぞ!」
「あ、はい!」
慌ててバインダーとストップウォッチを手に、先輩のそばに駆けて行く。
高校で陸上部にいたあたしは、ここではマネージャーとして部に入った。
陸上は好きだけど、これといっていい成績を残せたわけでもなく――体育会でバリバリやるほどの気合もなかったから。
それでも、どこかで陸上とつながっていたくて、みんなの世話をやいている。
「何だ、赤い顔して。日射病か?」
「い、いえ、大丈夫です」
バインダーで顔を扇ぐようにして、笑って先輩を見上げた。
池田先輩は、経済学部の三年生で陸上部の部長。首からぶら下げたホイッスルを手に、軽く眉を上げてあたしを見下ろす。
「来週から合宿だからな。体調崩すなよ」
「はい」
ことさら引き締まった顔を作って頷いたあたしに、先輩が優しく笑う。
部員にはめちゃめちゃ厳しいけれど、女子マネは貴重なのか、あたしには優しくしてくれる。と思う。
「始めていいっスかー」
スタート位置に立った二年生部員の気の抜けた声に、先輩が、おう、と答えて片手を上げる。
「用意!」
ホイッスルの音を合図に、あたしもストップウォッチをスタートさせた。
普段のふざけた表情からは想像もつかない、みんなの真剣な顔。
コンマ一秒でも自分の記録を縮めるために、毎日走り込んでいる。
そう、自分との戦いなんだ、陸上は。
離れた所で練習している高飛びのほうに目を向ける。あたしも高校の時はハイジャンプをやっていた。
けれど、実際は体育の授業で少し目立ったくらいで、大会で記録を残すほどのものにはならなかった。
結局、あたしは自分に負けたままだ。
――でも、飛ぶのは好きだったな。
最後のタイムを取り終えて、記録を書き写す。部員の好不調が目に見えて分かってしまうのが、なんだか味気ない。
ただ、走るのが、飛ぶのが楽しいと思う気持ちを、みんな忘れてないのかな。
ふと視線を感じて顔を上げると、池田先輩が横に立っていた。
自分の足元に目を落として、彼が日陰を作ってくれていたことに気付く。――考え過ぎかも知れないけど。
「……どうかしたか?」
「え? 何ですか?」
「最近、元気ないみたいだけど」
「いえ、そんなことないですよ」
笑って片手を広げて見せると、先輩が口の端を上げて他の部員のほうに歩いていった。
――少し、ケンちゃんに似てる笑い方。
ダメだなあ。まだ当分帰って来ないっていうのに、あたしの中にはケンちゃんの抜けた穴がぽっかり開いてるみたいだ。
こんなんじゃいけない。
せっかくの夏休み。あたしはあたしで、楽しく充実した時間にするんだ。
ケンちゃんが帰ってきたら、びっくりするくらい成長してやるんだ。
……やっぱり、ケンちゃんに戻ってしまうんだけど。
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