4.
一瞬、目を疑った。
玄関に脱ぎ捨てられた靴。見慣れたはずのスニーカー。さっきまでお店にいた良くんのものじゃないのは確か。
声も出せずに立ち尽くすあたしの前で、リビングのドアが開いた。
「やっぱり夏菜か。何してんだよ」
この人は。二ヶ月近くも会わずにいたこの人は、どうしてこんなに普通の顔でここにいるの。
「遅かったな。もうすぐ春休みだからって、浮かれてんなよ」
笑ってあたしの頭を小突く。ひさしぶりに、この穏やかな横顔をひっぱたきたい気持ちになった。
「叔母さん、夏菜帰ってきたよ」
「あらそう? じゃ、ご飯にしましょうか。お父さーん」
動けないあたしの周りで、日常が音を立てて動き出す。
「ほら、メシだってよ。ったく、ひさしぶりに帰って来たらお袋も良もいないしさ。おまえまで出かけてるし、俺は寂しいぞ」
「な、何言って……」
声が喉に絡む。今頃になって、自分の鼓動が耳につく。
「……ケンちゃん」
「何だ? 早く入れよ」
「……おかえり」
やっとのことでそう言ったあたしの瞳を、ケンちゃんが見つめ返す。
あの時の瞳。
ケンちゃんの部屋で、最後に絡んだ視線。
「……ただいま」
食事が済んで少しすると、ケンちゃんは部屋に帰ると言い出した。
「あら、明日お休みじゃないの? もうすぐ姉さんも帰って来ると思うわよ」
「いや、午後から出なきゃならなくてさ。また近いうちに来るから」
「大変ねぇ」
「あたし、送ってく」
「バカ、いいよ」
「ううん、そこまで一緒に行く」
はいはい、と笑って言う母の声を背に、あたしは玄関を飛び出した。
苦笑したケンちゃんが、じゃあまた、と言って玄関を閉める。
少しの間黙ったままで、ゆっくりと歩き出した。
「ね、遠回りしていい?」
「ダメだって。遅くなるだろ」
「少しだけ」
あたしは途中にある公園にすたすたと入って行った。
「夏ー菜」
たしなめるように笑うケンちゃんの声に聞こえない振りをして歩く。
「どうした」
「……そっちの暮らし、どう?」
「うん。だいぶ落ち着いたよ」
「今度、行ってもいい?」
「……て言っても、昼間あんまりいないからなぁ。もう少ししたらな」
昼間じゃなくてもいいのに。
そんなことを言ったらきっと、笑ってはぐらかされてしまう。
「一人で寂しくない?」
「ほとんど帰って寝るだけだし。たまには会社のヤツらも来るし」
「……そうなの?」
「今度の部署にはまだあんまり親しい人もいないけど、同期のヤツらは時々会うよ」
同期。同僚。――あの人も。
「……藤村さん、とか」
「ああ。彼女料理うまいんだよ。この前みんなで鍋パーティやってさ。びっくりした」
「部屋に、来たんだ」
「うん。野郎ばっかで集まってもつまらないって話になって、来てもらったんだけどさ」
ケンちゃんの部屋。まだ行ったことのない、あたしの知らない部屋。
あたしの知らない時間が、ケンちゃんの周りを過ぎて行く。
「……そう、良かったね」
「――何かおまえ、この前から変だな」
「そう?」
「そうだよ。言いたいことがあるなら、言ってくれないと」
言いたいこと。言えないこと。
「あたし、は」
ケンちゃんが好き。他の誰よりも好き。だから、知らない女の人と、知らないところで笑い合っていたりしないで。
「――まあ、夏菜もお年頃ってやつか」
「え?」
「色々と悩む年頃だろ。全部俺に話せるわけもないよな。――好きなヤツでもいるんだろうし」
優しい笑顔。大人の顔。
あたしの好きな、穏やかな瞳。
今は、そんなもの、いらない。
「どうせ」
息が苦しい。震えそうになる手を握り締めて、あたしは唇を噛んだ。
「あたしは、子供だもんね」
「――は?」
「ケンちゃんから見たら、あたしのすることなんて、くだらないもんね」
「……誰がそんなこと言ったよ」
「そうでしょ? ケンちゃんには自分の大事なものがたくさんあって、あたしが悩んでることなんて、どうでもいいんだもん」
「おまえなぁ。これでも一応心配してるつもりだけど。だから、話したいなら言えって」
「いい。別に、無理して聞いてもらわなくていい」
「何ヒステリー起こしてるんだよ。俺、何かしたか?」
「……何も」
そうよ。何もしない。何も言わない。なのに、どうして。
どうして、あたしを半端な距離に置いたままでいるの。はっきりと遠ざけてはくれないの。
全部、壊してしまいたい。
胸の中にあるものを吐き出して、叩き壊してしまいたい。
「……分かんねぇよ」
苦しげな声に、顔を上げる。
「おまえが、分からない。こんな……近くにいて、ずっと前から一緒にいて、いるのが当たり前で」
ケンちゃんの周りから、音を立てて何かが崩れていくような気がした。
あたしはそれが、少し怖くて――目が離せなかった。
「なのに、どうしてそんな顔するんだよ。そんな目で俺を見るんだよ。それじゃまるで――」
視線が合う。
いつもの柔らかな光が消えた、ケンちゃんの瞳。
風の音も、車の音も、どこかに吸い込まれるように消えて行く。
沈丁花の花の香りが、濃さを増す。
「――これ以上、惑わせるな」
ほとんど聞き取れないような声で呟く。
惑わせる? あたしが――何を。
「もう、帰れ。叔母さん達が心配するから。――俺も、帰るよ」
違う。いつものケンちゃんじゃない。
あたしを見ない。笑いもしない。俯いたまま踵を返して、振り返らずに歩き出す。
初めて見た気がする。
あなたの素顔。大人という鎧を脱いだ、本当の顔。
やっと分かった。あたしが欲しいのは、その奥にある瞳の色。
もう隠さない。隠させたりしない。
――革命を起こすのは、あたし。
両親の部屋は一階にある。
廊下の隅に立って伺うと、暗く沈んだドアから微かな寝息が聞こえた。
――ごめん、見逃して。
胸の中で二人に手を合わせ、音を立てないように靴を履く。
鍵を外す音が、がちゃり、と響いて、あたしは息を詰めた。
ぎ、ぎ、ぎ、と軋むようなドアの音が、ことさら大きく聞こえる。
いっそのこと、一気に開けてしまったほうがいいのかも知れないけど、なんだかそれはできなかった。
どうにか空いた隙間に体を滑り込ませ、外に出る。
ひんやりとした空気に息をついて、ゆっくりとドアを閉める。
がちゃ、と鍵をかけたあとも、しばらくそこから動けなかった。
今にも玄関の灯りがついて、母の声が聞こえるような気がして。
静まり返った家からは、何の音もしなかった。
あたしはそろりそろりと玄関を離れ、駅に向かって駆け出す。
もうすぐ、最終電車の出る時間だった。
ここから一時間と少し。
ケンちゃんの部屋の場所は、良くんに聞いた。バイト中に申し訳なかったけど、携帯に電話して。
低く口笛を吹いて、やるじゃん、なんて笑ってた。
ほとんど口をきくことなんてなかった良くん。いつも怒ったみたいな顔をしていたけど、最近少し変わってきたね。
――大人になるって、そういうことなのかな。
そう思うことが、あたしが子供だってことなのかも知れないけど。
早く、早く、と、窓の外に祈る。
どんな顔をするだろう。
怒るよね、きっと。
それでも、あなたの素顔をつかまえるために、あたしは空いた電車の中で地団駄を踏む。
目的の駅のホームに着いて、ドアが開くのももどかしく飛び出す。
改札を駆け抜けて、教えてもらった通りに出口を出て。
さあ、これからよ。
三階の一番端。白いドアの脇に『野上』と書かれた紙が貼ってあった。
部屋の灯りはついている。
インタホンはなくてチャイムだけ。
思い切って押す。甲高い音が響く。
「……はい?」
「あたし」
「――夏菜?」
勢い良くドアが開いた。
お風呂上りらしく、湿った前髪。Tシャツにスウェット姿のケンちゃん。
「……お、まえ、何……」
息を吸い込む。あたしは両手で耳をふさいだ。
「何時だと思ってるんだ、バカ!」
「午前一時半。良かった、起きてて」
「どうやって来たんだ。一人なのか?」
「一人に決まってるでしょ。終電で来たの。もう帰れないよ?」
「あのなぁ……なんて無茶するんだよ」
「無茶じゃないよ。電車くらい乗れるもん」
「そういう問題じゃ」
さすがに近所を気にしたのか、ケンちゃんが声を潜める。
「……とにかく、上がれ。あとで送ってくから」
ワンルームかと思ったけど、ちゃんと台所がある。1DKってやつかな。新しくて綺麗な部屋。
あたしはグレイのカーペットが敷かれた部屋のベッドの脇に座った。
「――何もないぞ」
そう言いながら、湯気の立つ紅茶のカップを二つ持ってきてくれる。
「あ、ありがと」
しばらく黙って、ゆっくりと紅茶を飲む。遠くで車の音が聞こえる。
並んで床に腰を下ろし、ベッドに寄りかかったケンちゃんが左手を差し出した。
「……何?」
「携帯」
「え?」
「出しとけ。家からかかって来たらすぐ出ろ。俺が代わる」
「……もう寝てたから大丈夫だけど」
「だから、とりあえずこっちからはかけないから。出しとけ」
正面の壁を見つめたままのケンちゃんの手に、携帯を乗せる。
ひとつため息をつくと、着信音が鳴るようになってることを確かめて、床の上に置いた。
「……ケンちゃん」
「何だ」
「怒ってる……?」
「怒ってないと思うのか」
「だよね」
再び沈黙。
こんなケンちゃんは初めて見る。
ちょっと気まずくなっても、あたしが怒らせるようなことをしても、穏やかな瞳は変わらなかったのに。
その横顔からいつもの余裕が消えたことが不安で――嬉しかった。
そう。ケンちゃんにこんな顔をさせているのは、あたしなんだ。
壁を壊すための楔をひとつ打ち込んだような気がして、あたしはその横顔を見つめる。
「……夏菜」
「ん?」
「どうして来たんだ」
「……どうしてだと思う?」
自分でも少し驚くくらい、静かな声であたしは問いかけた。
ケンちゃんが顔を上げて、あたしのほうを向く。
黙って見つめる瞳は、あの時と同じ色。
「……俺は……」
ひとつ息を吸い込んで、吐き出して、あたしからそらした視線を何もない壁に向ける。
「これでも、一応社会人だし、おまえはまだ学生で、未成年で……俺の、従妹で」
「……だから?」
「うちはさ、親父が死んで、お袋が働いて俺達を育ててくれて――叔父さんと叔母さんは、
俺と良には半分育ての親みたいなもんで………」
息を継ぐ。唇を噛む。
どうしてだろう。今はあなたが、あたしより年下のような気がする。
あたしは何も言わずに、次の言葉を待った。
「……おまえは、妹も同じで……何より、世話になってる叔父さん達の大事な一人娘だから」
「そうかなぁ」
「え?」
「一人娘なのは確かだけど、あたしよりケンちゃんや良くんのほうが可愛いみたいよ、うちは」
「んなわけねぇだろ!」
細めていた目を見開いて、あたしの顔を覗き込む。
「――おまえ、そんなふうに思ってたのか」
「うん。男の子が欲しかったのに、産まれたのはあたしだし。何よりケンちゃんは『理想の息子』だし、
あたしの将来はどうでもいいけど、ケンちゃんのことは頼りにしてると思うよ」
「……何バカなこと言ってんだ」
心底あきれたという顔で、床に置かれた携帯に目を移す。
まるでそこから、うちの両親に繋がっているかのように。
「そりゃ、俺だって叔父さん達の役に立つならそうしたいよ。頼られれば嬉しいよ。
でもな、そういう問題じゃないんだよ。みんなおまえが可愛くて――大事なんだから」
「……みんな?」
「そうだよ。叔父さん達にとって一番大事なのはおまえに決まってるだろ。うちのお袋も、良も、――俺も」
「……それは、お父さん達と同じように大事に想ってくれてるってこと?」
打たれた楔に、あたしは槌を振り下ろす。
その言葉が痛みを伴うかのように、ケンちゃんが息を呑んだ。
「……ずっと、そう思ってた」
夜の闇に紛れてしまいそうな声で、うめくように呟く。
「俺は、おまえにしたら兄貴みたいなもんだから……何かあれば守ってやりたいし、近くにいてやりたいし……でも」
どこかで、微かにクラクションの音がする。
他に誰もいない、二人きりの部屋。闇に、静けさに、閉じ込められていく。
「……ダメだ」
ケンちゃんが天井を見上げて、大きく息をついた。
「何でこんな話になるんだ。――おまえ、ちょっと待ってろ。車取って来るから」
「車、こっちにあるの?」
「ああ。この前持って来た。この先に駐車場借りたから……」
そう言って立ち上がりかけたケンちゃんの左手をつかんだ。
「……夏菜?」
握った手に力を込める。膝立ちになったケンちゃんの瞳を見上げる。
「あたし」
「待った」
ケンちゃんの右手が肩に置かれて、なだめるように、ぽん、と叩かれた。
「今度、話そう。昼間。でないと……」
「でないと、何?」
「襲うぞ」
笑ってそう言って、あたしの手を外そうとする。
「……いいよ」
「――っ! バカ」
「ねえ。本当のこと言って。あたし、ケンちゃんの何? ただの従妹? ――やっぱり、子供?」
「……だったら、もっとうまく言えるってのに……」
諦めたようにもう一度腰を下ろして、そっとあたしの手を外した。
「いつの間におまえ……そんなに、女になっちまったんだろうな」
遠くを見る瞳に、あたしの心臓は、その限界まで鼓動を早める。
「……俺からなんて、言えないんだよ。簡単に――いい加減な気持ちじゃないって分かってても、
俺の大事な人達が、何より大事に想ってるおまえに――今、そんな事言うわけにいかねぇんだよ」
「じゃ、あたしが言う」
驚いた顔で振り向くケンちゃんの瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「あたしはまだ、子供だけど。ケンちゃんが抱えてるものを一緒に背負えるほど強くないけど、
――この気持ちは、本物だから。もう、甘えてるだけじゃなく、ケンちゃんの隣にいたいって思うから。
あなたが好き。大好き。一緒にいたい」
必死に抑えたけれど、あたしの声は叫ぶように掠れていた。
動かない彼のTシャツのすそを、握りしめる。
「――言っちゃった」
急に笑いがこみ上げてきた。
「……ここで笑うか?」
「だって……やっと言えたんだもん。ずっと言いたかった」
「……俺だって」
つられたように、ため息と一緒に笑い出す。
「何度言おうと思ったか。……あーあ、もう、言われちまったよ」
二人して、声を抑えて笑う。
と、突然ケンちゃんの左手が動いて、あたしの頭を抱え込んだ。
「……ごめん」
「――何?」
「不安にさせてばっかで……。もう、守ってやるだけじゃない。俺の弱いところも、情けないところも、
おまえには見せちまうかも知れない。――それでも、いいか?」
「……うん」
分かってる。
本当は、精一杯強がってしまうところも。
優しい瞳の奥に閉じ込めた光も。
全部、あたしの好きなあなただから、怖くない。
ゆっくりと背中に回された腕に、力がこもる。彼の肩に押し当てた額から、温かさが広がっていく。
壁が崩れる音を聞いた。
すべての想いが、一気にあふれ出す。
これは、あたしの起こした革命。
崩れた壁を乗り越えて、歩き始めるのは、今――。
〜fin〜
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