3.

    ほとんど眠れないまま迎えた朝。
    八時になる少し前から表は騒がしくなっていた。
    ケンちゃん一人の荷物だからあまり時間はかからず、九時になろうとする頃、
    手伝いに行っていた母があたしの部屋のドアを開けた。
    「夏菜、いつまで寝てるの。まーくん、もう出ちゃうわよ」
    「……そう」
    「まったく、手伝いにも来ないで……挨拶ぐらいしたらどうなの」
    「いい。眠いから」
    「しょうがない子ねぇ。もう毎日会えるわけじゃないのよ?」
    今だって、毎日会えるわけじゃない。どうせ、あたしはケンちゃんの時間の一部に組み込まれてなんかいないんだ。
    窓の外で、控えめなクラクションの音がして、父の呼ぶ声が聞こえる。
    「ああもう。じゃ、今度まーくんが帰ってきたら、ちゃんと顔見せなさいね」
    慌しくそう言って、階段を駆け下りて行く。
    さよなら、ケンちゃん。
    きっと、もう、本当にさよなら。
    次に会う時には、彼女と一緒かも知れない。あたしの知らない場所で暮らして、知らない人達と一緒に過ごして。
    こうして、どんどん遠くなっていく。
    あなたが優しければ優しいほど、あたしを遠ざけていく。その優しさが好きなのに。その笑顔が好きなのに。
    好き、という一言すら、あたしはあなたに伝えられない。困らせてしまうのが分かるから。
    笑って一緒に過ごす時間が欲しければ、あたしは何も言うわけにいかない。
    だから、さよなら。
    あたしの好きなあなたに。
    頭まですっぽりと布団をかぶったあたしの耳に、遠ざかるエンジンの音が聞こえた。

    試験の結果は最悪だった。
    ここにケンちゃんがいたら、ふざけんな、と頭をはたかれていただろう。
    ――そんな空想すら、あたしは自分に許されないことのような気がしてため息をついた。
    ケンちゃんや良くんや、うちの両親への意地みたいな感じで大学進学を決めたけど、ほんとにそれでいいのかな。
    あたしは、何をしたいんだろう。運良くどこかに入れたとして、そこで何ができるんだろう。
    そのまま就職して、いつか、誰かと結婚して――。
    なんだかもう、何もかも馬鹿馬鹿しくなってきた。
    今まではそんなことも、みんなケンちゃんに話していた。黙ってあたしの話を聞いて、静かに答えてくれる穏やかな瞳。
    彼は、あたしのバイブルだった。
    当たり前だけどいつも先を歩いて、笑って手を差し伸べてくれる。
    ――焦るなよ。
    眠れずに見上げた暗い天井に、ケンちゃんの声が響く。
    おまえはまだこれからなんだからさ。間違ったら、選び直せばいい。今できることを精一杯やれば、それでいいんだよ。
    夏菜は、そのままでいいんだ。
    ――それが、本当に言われた言葉なのか。あたしが勝手に描いた夢なのか。
    浅い眠りの中で、子守唄のようにあたしを包んでいく。
    いつしかそれは、あたし自身の声になって、同じ言葉をリフレインしていく。
    ――会いたいよ。

    一ヶ月が過ぎ、あたしの周りはケンちゃんのいない日々が普通になっていった。
    伯母さんや良くん以上に寂しそうにしていたうちの両親も、あまりケンちゃんのことは話題にしなくなった。
    あたしだけが、彼の残像を追っている。
    バカみたい。
    たいして遠くに行ってしまったわけでもない。ほんの一時間ほどの距離で、元気に暮らしているのに。
    またそのうち、会えるのに。
    夕食の席に、彼はいない。
    玄関に投げ出された大きな靴を蹴飛ばすこともない。
    いつも感じ取れていた彼の気配が消えたことが、こんなに大きくなるなんて。
    分かって、いたのに。
    そんなことは、とっくに知っていたのに。
    あたしはいつになったら、彼から卒業できるんだろう。
    ――携帯から、聞き慣れない着信音がした。
    ディスプレイを見たあたしは、そのまま携帯を取り落としそうになる。
    ……ケンちゃん?
    そうだ。やっとのことで携帯を手に入れて、ケンちゃんの番号を聞いて登録して。
    彼の番号だけは、他の人と違う着信音にしておいたんだ。
    かかってくることなんて、ないと思いながら。
    あたしは心の準備をする間もなく、急いで通話ボタンを押した。
    「……もしもし?」
    『夏菜?』
    電話で彼の声を聞いたことなんて、どのくらい前だったろう。
    なんだか、別の人の声みたいに聞こえて、あたしは携帯を持つ手に知らず力を込める。
    「――うん」
    『ひさしぶり。元気か?』
    「うん」
    『あ、今、平気か? 話してても』
    「うん」
    『おまえ、うん、ばっかりだな』
    ケンちゃんが笑う。
    電話越しの声に、あたしの肩から力が抜けていく。
    「ケンちゃん――元気?」
    他に何を言ったらいいんだろう。
    『ああ。おかげ様で。なんとかこっちも片付いて落ち着いてきたからさ。ご報告』
    「そう。風邪ひいてない?」
    『そんな暇もねぇなぁ』
    笑って言う声にかぶって、キン、という音がした。
    銀色のジッポが目に浮かぶ。
    微かに息を吸う気配と、煙草に火が移るジジ、という音。
    煙を吐き出す音に、思わず目を閉じた。
    『夏菜』
    「――え?」
    『最近、どうだ?』
    「……何が」
    『いや、おまえ何か悩んでたみたいだからさ。もう大丈夫かなと思って』
    「ん……大丈夫。元気」
    『そっか。まあ、何かあったら言えよ』
    少し、驚いた。
    こうして電話で話すことで、元気な振りもできる。
    余計な心配をさせずに、優しくすることもできる。
    この細いラインを切ってしまえば、次にどちらかがボタンを押すまで繋がらないから。
    優しさを探り合う。言葉を選ぶ。
    『いやあ、電話しろっつったのは俺のほうだけどさ。結局バタバタしてたから、
     かけてもらってもゆっくり話せたかどうか怪しいな』
    「うん。そう思ってかけなかった」
    嘘も吐けるね。
    本当はかけたかった。何度もボタンを押しそうになった。
    着信があるたびに、あなたの名前を探した。
    ねえ、そんなふうに言ったら、どうするのかな。
    『まだ前の事務所に戻る仕事もあるから、その時にでも寄るよ』
    「うん」
    普段よりよくしゃべるケンちゃん。無口なあたし。
    何かが、変わり始めているのかも知れない。
    今までとは形を変えて、いつかそれぞれのいる場所を見つけるのかも知れない。
    その時、あなたの隣には、どんな人がいるんだろうね。

    その後も、ケンちゃんからは時々電話がかかってきた。仕事の話や、新しい部屋の周りの話。
    たまにはあたしからもかける。
    学校の事、良くんや伯母さんの事、それ以上の話はしないように気を付けて。
    こうして、あたしは自分の気持ちに決着を着けるべきなんだろう。
    あなたを困らせないために。
    夕方の五時から開いているという店の前に、あたしは立っていた。五時を十分ほど過ぎている。
    曇りガラスのドアの奥は薄暗くて見えないけれど、ノブに掛かったプレートの文字は『OPEN』。
    あたしはゆっくりとドアを押した。
    「――いらっしゃいま……」
    カウンターの中で顔を上げた良くんの営業スマイルが凍りつく。
    「……何だよ、びっくりした」
    「ええと、ごめん、忙しい?」
    「……別に。一人か?」
    「うん」
    「まあ、座れば」
    他には誰もいない。
    良くんは週に四日くらい、ここでアルバイトをしている。
    開店準備の三時頃から、夜の十二時過ぎまで。
    学校よりバイトに熱心で困るんだと、伯母さんもケンちゃんも心配していた。
    「何か飲むか? ……つってもおまえにはウーロンかオレンジジュースだけど」
    「……ウーロン茶下さい」
    カウンターだけのお店は、ショットバーとかいうものらしい。本当はお酒を飲みに来る所なんだけど。
    「良くん、一人なの?」
    「ああ。もう少ししたら、バイトが一人と店長が来るよ。まだ客が入る時間じゃないしな」
    そう言いながらあたしの前にウーロン茶のグラスを置き、カウンターに並んだグラスを磨き始める。
    静かにジャズか何かのBGMが流れている薄暗い店内は、ひどく落ち着かなかった。
    「んで、何」
    「え?」
    「俺に用があるんじゃねぇの?」
    「あ……うん……用ってほどのものじゃ……」
    「兄貴のことだろ。寂しいから会わせてくれとか」
    「そんなんじゃないわよ」
    あたしはウーロン茶を一口飲んだ。食道から胃の形がはっきり分かるくらい、冷たい。
    「もう、いいんだ」
    「あ?」
    「ケンちゃんのこと。やっぱり、あたしじゃ無理」
    「……何かあったのか」
    「何も。何もないから、ダメなんだなって、実感した」
    「忙しいんだろ。こっちから電話かけちまえば」
    「電話、来るよ」
    「兄貴から?」
    「うん。たいしたこと話さないけど、たまに。あたしも、少しはかける」
    「へえ」
    グラスについた水滴を指でなぞる。灰皿の上に置かれた店のマッチを、何気なく手に取ってみた。
    「こら、オネショするぞ」
    ケンちゃんの口調を真似て言った良くんが、意地悪く笑う。
    「良くんは、煙草吸わないんだよね」
    「ぎりぎり未成年ですから。別に吸いたくないし」
    「……吸ってみようかなぁ」
    「兄貴が吸うから、とか言うんだろ。アホか、おまえ」
    ことん、と、カウンターにガラスの器が置かれた。その中には色とりどりの紙に包まれたチョコレート。
    「おまえはそれで充分」
    「あ、ひどい」
    「何言ってんだよ。そんだけ惚れてて、何も行動しないで諦めるわけか。早過ぎんじゃねぇの」
    「……だって。分からないんだもん」
    「何が」
    「ケンちゃんが、あたしの事どう思ってるのか。最近何か違うんだもん。
     引っ越すあたりから、今までと違ってきた感じで……」
    「俺にはおまえのほうが分からないね」
    「あたし?」
    「そう。おまえはどうしたいのさ。兄貴と、どうなりたいんだよ」
    ……どう、って……。
    近くにいたい。一緒にいたい。他の女の人より、あたしを見ていて欲しい。
    「おまえさぁ」
    磨き終わったグラスを白いナプキンの上に並べながら、ため息をつく。
    「兄貴がどうして行動しないか、考えた事ある?」
    「……どういう意味?」
    「年が離れてるとか、従兄妹同士だとか、そういうの、気にしないタイプじゃねぇだろ」
    ものすごく、気にするタイプだと思う。
    「兄貴のほうがその壁をぶち壊すってのが、どんだけ大変だか、おまえ考えた事あんのか?」
    何も言えずにいるあたしに、良くんは仕方なさそうに笑った。ひさしぶりに見る、優しい笑顔だった。
    「ま、あとは自分で考えろ。で、したいようにしろ」
    「……冷たい」
    「俺は仕事中。それでもこれだけ言ってやったんだ。感謝しろ」
    「なんでそんなにバイトするの?」
    「……ま、いろいろと」
    「秘密主義」
    「からんでねぇか? ……いいけどさ。――留学、するつもりだから」
    「え! いつ」
    「まだ先だよ。できればイギリスのほうかな」
    「……何しに」
    「それなんだよな。お袋も兄貴も納得しないのはさ」
    「納得しないような理由なの?」
    「……向こうでなきゃできない勉強があるとか、芸術方面に進むとか、そういうのがあればいいんだろうけど。
     とにかく、ここじゃない国で暮らしてみたい、じゃな」
    ここじゃない国で。今いる所じゃない場所で。
    「何ができるかなんて分かんねぇけど……とりあえず違う国の言葉で話して、違う国の空気に触れたいってのが目的か」
    「……うん。分かる気がする」
    居心地のいい、何もかもが揃えられた国。
    舗装された安全な道の先にあるのは、限られた未来。
    ここじゃないどこかにある国には、何があるのか。
    違う言葉で話す人達は、どんな暮らしをしているのか。
    そこにいる自分は、何を見るのか。
    良くんは、そこから始めたいんだ。
    このままで。
    何もしないままでいる先は――あたしのケンちゃんへの想いとの、さよなら。
    「……良くん」
    「ん?」
    「ありがと」
    「は? 何が」
    「うん。いいの」
    眉を顰めた良くんが、あたしの顔を見て苦笑する。――どこか、ケンちゃんに似た笑顔で。
    「んじゃ、遅くならないうちに帰れよ」
    「うん」
    「チョコは奢り。ウーロン代よこせ」
    右手を出す良くんに、しぶしぶ財布を出した。
    「――おいくらですか」
    「700円」
    「はあ? 何ここ、ぼったくりバー?」
    「変な言葉覚えてくんな。普通だよそのくらい」
    ……ウーロン茶なんて、150円くらいじゃないの。
    「うそうそ。冗談だって。いいよ、今日は。奢ってやる」
    「……ごちそうさまでした」
    良くんの気が変わらないうちに帰ろう。
    そう思って立ち上がったあたしに良くんは、手付かずの器からチョコレートをひとつかみ取って差し出した。
    「今度兄貴と来て、高いカクテルでも奢らせろよ」
    「……ありがと」
    もう一度そう言って、チョコレートをもらって、あたしは店を出た。




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