2.
大きく息を吸う。ゆっくりと吐き出す。
たった三歩で着いてしまう隣の家の玄関が、やけに大きく見えた。
今日伯母さんは夜勤だ。良くんはバイト。日曜日の夕方。家にはケンちゃん一人のはず。
あたしは意を決してインタホンのボタンを押した。
ジーンズにトレーナー姿のケンちゃんは、ちょっと驚いた顔をした。
「何だ、夏菜がうちに来るなんて珍しいな」
「仕事してるって良くんが言ってたから……差し入れ」
夕飯の材料の包みを持ち上げる。
「え、夏菜が作るのか?」
「何よ、失礼ね!」
「いや、ありがたいけどさ。まあ、上がれよ」
怒ってたんじゃないの? なんでそんなに優しいの?
ケンちゃんの顔を見ないようにして、真っ直ぐ台所に向かう。
「仕事してるんでしょ? できたら呼ぶから」
「ああ。――無理すんなよ。指切ったり、やけどしたり……」
「いーからまかせろっての!」
振り返ったあたしに、優しく笑う。
どこまでも、大人なんだ。
このまえにみたいに怒ってても、最後にはフォローしてくれる。
遠いよ。
すごく、遠いよ。
やけっぱちみたいに玉ねぎを刻みながら、ついでのように涙を流した。
ケンちゃんの部屋のドアをノックすると、はい、という律儀な返事が聞こえた。
ドアを開けると、机の上のパソコンに向かったケンちゃんが顔を上げる。
ツヤ消しの銀のフレームのメガネ。
大学に入った頃から、ケンちゃんは時々メガネをかけている。
車を運転する時とか、勉強中とか、見たことないけど授業中とか。
――そう、きっと会社でもかけてるんだろうな。
あたしの、知らない場所で。
「食えそうなもん、できた?」
笑ってメガネを外す。
あたしは顔をしかめて、胸をそらした。
「食べてみれば分かるわよ」
「おお、そうきたか。おまえも食ってくんだろ?」
「う、うん」
母には、ケンちゃんのとこで一緒にご飯食べてくると言ってきた。
ひとつ吐いた嘘は、ケンちゃんが家でしてる仕事が忙しくて、良くんもバイトだから、良くんに頼まれたということだけ。
「――この部屋、妙に片付いてない?」
「そうか? 俺が綺麗好きだからだろ」
「それはない」
ケンちゃんの部屋に入ることなんてめったにないけど、ひどいもんだった。
本棚の前には本が山積みになっているし、脱ぎ散らかした服は散らばってるし、ベッドはぐしゃぐしゃだし。
それが、ベッドと机のまわり以外は綺麗に片付いて、部屋の隅にはダンボールが積まれている。
「……模様替えでもするの?」
「まあそんなとこ。腹減った。このさい夏菜の料理でもいいから、食わして」
蹴りを放ったけれど防御された。二階のケンちゃんの部屋からダイニングまで、蹴りと防御を繰り返して下りて行く。
「なるほど、カレーか」
「何が『なるほど』なのよ」
「いやいや」
笑ってスプーンを手に取る。
きっとこの人は、女の子の手料理なんて慣れてるんだろうな。
彼女らしい人と一緒にいるのを見たこともある。
はっきりと、俺の彼女、と紹介されたことも、ケンちゃんが大学生の頃にあった。
何時に帰ってくるのかとか、たまに外泊したりもするのかとか、そんなことは分からないけど。
「――うん。うまいよ」
「え、ほんと?」
「ああ。ちゃんとカレールーの味がする」
今度の蹴りは、しっかりヒットした。
「いってー。おまえね、そんなに足癖悪いと彼氏にフラれるぞ」
「そんな人、いないもん」
「へえ」
にやりと笑う。
……いるって言えば良かったかな。なんか悔しい。でもいないものはいないんだから。
「悪かったわね、どーせモテませんよ、ケンちゃんと違って」
「俺がいつモテた?」
「モテるんじゃないの? この間の人だって……」
「この間? ……ああ、藤村さんか。そんなんじゃないよ、会社の仲間」
なんでそんなに冷静なのよ。
「で、夏菜はモテないのか?」
「……ほっといてよ」
「もうすぐクリスマスだっていうのに。寂しい青春だねぇ」
「何よ、オヤジみたいなこと言って。いいわよね、ケンちゃんは。彼女とラブラブなクリスマスでしょ」
「なんでそう思うよ? 俺も一人だぞ、今年は」
今年は。
去年までは一人じゃないのか、来年は一人じゃないのか。
「……彼女、いないの?」
声が掠れた。
「モテないもんで」
「……じゃあ、クリスマス、は?」
「クリスマスねぇ……何もないな。家でケーキぐらいは食うか。お袋の帰りが早ければ」
「ほんとに何もないの?」
「うん。ていうか、それどころじゃない。今ゴタゴタしてて」
「ゴタゴタ?」
「仕事が、な。春に異動があるんだけど……俺も部署が変わるから」
「あ、そう、なんだ」
仕事の話。聞きたいけど、聞きたくない。
あたしには分からない。どう返事をしていいのか、何を言えばいいのか。
そんなあたしに気付いたのか、ケンちゃんが優しく笑う。
「おかげ様で栄転っつうか……一応1ランク上げてもらえる予定なんだけどさ」
「え、すごいじゃない」
「いや、年功序列。分かんなきゃ辞書引け」
……辞書引こう。なんとなく分かるけど。
「ちょっと待って、栄転?」
「うん」
「会社、移るの?」
「正確には、事務所をな」
そう言ってケンちゃんが挙げた場所は、ここから電車で二時間はかかるところだった。
「えー、そこまで通うの? 大変じゃない」
「大変。だから引っ越す」
「え」
思わずスプーンを落とした。
ケンちゃんが黙って拾い上げて流しに運び、新しいのを出してきてくれる。
「……そんなに驚くか? 夏菜や叔母さん達には、本決まりになるまで黙ってようと思ってたんだけどさ。
やっとこの前辞令が出たから、そのうちにそっちにも話しに行くよ」
「――ケンちゃん、一人で?」
「当たり前だろ。お袋や良を連れて行ってどうすんだよ。……それとも、おまえがついて来るか?」
「――!」
凍りついたあたしに、ケンちゃんが笑って水のコップを差し出す。
「悪かった。高校生にかわせる冗談じゃないか。まあ、ここと会社の中間くらいに引っ越すかな。
アタリはつけてるから、年明けたら契約して移るつもり」
おまえ、このまんまでいいわけ?
良くんは、だからあたしにあんなこと言ったんだ。
「ケンちゃん」
「ん?」
「……あたし……」
目を見上げる。
すべての想いをこめて、少しでも伝わるように。
口に出せない。言葉にならない。だから。
「……寂しいか?」
「えっ……」
「たまには帰ってくるよ。勉強みてやるほどの時間はないかも知れないけど、何かあったら相談くらいは乗ってやるし。
おまえに彼氏ができたら、俺が見極めてやるから連れてこい」
……泣くぞ、バカ。
あっけなく、冬休みは過ぎて行く。
クリスマスもお正月も、ケンちゃんには会えなかった。
春には異動になるから、今は猛烈に忙しいんだってさ、と、良くんの醒めた声が蘇る。
半ばヤケになって友達と遊んだりしてるうちに、お正月気分も抜けてしまった。
あたしがそうして出かけている間に、ケンちゃんはうちに年始と引越しの挨拶に来たらしい。
すれ違ってばかり。
寂しいだとか、あたしもついて行く、だとか、もっとストレートに言ってしまうとか。
何も行動しないままだと、本当にこのままなんだ。
でも。
何をどう行動すればいいんだろう。
あたしをちゃんと見て。従妹でも幼馴染でもなく、一人の女の子として。その結果は――どうなってしまうんだろう。
怖かった。今のままのような、優しい関係でいられなくなることが。
きっとケンちゃんは変わらない。上手にかわされて、何事もなかったように優しくしてくれる。
そしていつか、誰か他の女の人と――。
明日、ケンちゃんは引っ越してしまう。一人で、行ってしまう。
あたしは立ち上がり、夕飯の支度をしている母に『すぐ帰る』と言って家を出た。
留守かも知れないと覚悟していたけれど、ケンちゃんは家にいた。
伯母さんに挨拶して、良くんはバイトに行ったと聞いて、ケンちゃんの部屋に行く。
「――荷物、片付いた?」
「おー、なんとかな。あと細かい物は、また取りに来ればいいし。――手伝いに来てくれたのか?」
「ん。まあ。でも、今さらだよね」
「はは。もう明日だからな」
少しぎこちない会話。
十年近く前から隣に住んでいて、時々一緒にご飯を食べて、たまに遊びに連れて行ってもらって。
それが、明日で終る。
妙に広くなった部屋の隅にぽつんと置かれたベッドに腰掛けて、ケンちゃんは雑誌を読んでいた。
メガネをかけた顔も、もうあまり見られなくなるのかな。
「……どうした?」
「え?」
「何かあったのか」
「……ううん……何も」
入り口に立ったままのあたしに、ケンちゃんが笑って手招きする。
それが嬉しいような、子供扱いみたいで悲しいような気持ちになって、どうにか笑顔を作ったあたしはベッドの足元に座った。
ドアは開けたまま。
ケンちゃんがあたしの部屋に入る時や、あたしがケンちゃんの部屋に来た時は、いつもこうしていたから。
「明日、早いの?」
「うん。八時には引越し屋が来るはず。向こうも片付けないとならないし」
「異動って、四月でしょ?」
「正式にはな。けどもうほとんど今の部署でやることはやったから、これから四月までは行ったり来たりだよ」
そういうものなのか。よく分からないけど。
「……こっちにも、たまには顔出すよ」
「うん」
「夏菜のとこにメシ食いにも行くし」
「うん」
「なーんだよ。そんな情けない顔すんな。子供みたいに」
笑って、あたしの髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
子供みたいに。子供じゃないのに。
あたしは立ち上がって、部屋のドアを閉めた。
「――夏菜?」
「子供じゃ、ないよ」
「……おまえ、何……」
ケンちゃんの隣に腰を下ろす。
立っている時より、目の高さが近くなる。
ケンちゃんの顔から笑いが消えた。ゆっくりと右手を上げて、メガネを外す。
「……ケンちゃ……」
左手が、あたしの頬に触れる。真っ直ぐに見つめる瞳が、近づいて、来て――。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
あたしは思わず、ケンちゃんの胸を突き飛ばしていた。
後ろに手をついて自分の体を支えたケンちゃんが、苦笑する。
「……思わせぶりなこと、言うなっつうの」
胸の奥のほうから震えが込み上げてきて、あたしは自分の両腕を抱きかかえた。
――どうして。
何も言えないの。何も言ってくれないの。あなたは今、何をしようとしたの。
「夏菜……」
視線を落としたあたしの目に映るケンちゃんの喉が、引きつるように動くのが分かった。
次に口を開いたら、どんな言葉が出てくるのか。
あたしは両手で耳をふさいでしまいたい衝動を堪えて、セーターの袖を握りしめた。
ふいにケンちゃんが立ち上がり、机の上にあったメガネケースにメガネをしまう。
そのパチン、という音に、あたしは呪文を解かれたように顔を上げた。
「ごめん」
「……何、が」
「いや……何だろな。とにかく、電車で一本だし、ちょくちょく帰ってくるし。いつでも、電話して来いよ」
床に目を落としたままでそう言うと部屋のドアを開けて、大きく息をつく。
まるで一枚のドアで密閉されてしまっていたかのように、部屋の空気が薄くなった気がしていたことに気付いた。
「……だって、忙しいでしょ」
「まあそりゃ……でも部屋に電話は付けないからさ。携帯にかかってくれば、手が空いた時にかけ直すし」
何を言っているんだろう。まるで、ケンちゃんがあたしの電話を待ってるみたいな言い方。
思わせぶりなことを言ってるのは、どっちなの。
「……ほんとに、かけちゃうよ」
「ああ」
「用事がなくてもだよ」
「いいよ」
「……バカ」
聞こえないように呟いて、あたしは立ち上がる。
「あたし、明日は出かけるから手伝えないけど――元気でね」
「……おまえもな」
視線が絡んだのは、ほんの一瞬。
小さく、おやすみ、と言ったあたしは、ケンちゃんの返事も待たずに部屋を出て行った。
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