1.
ただいま、と言ってドアを開けると、大きな靴が脱ぎ捨ててあった。
かかとを踏み潰した薄汚れたスニーカーが、なんだかものすごく憎らしくなってくる。
あたしはタタキのど真ん中に放り出されたそれを、片隅に蹴りやってから家に上がった。
「夏菜、まーくん来てるわよ」
台所から呑気な母の声が聞こえた。
一人娘のあたししかいないうちの両親は、母の姉の子供である『まーくん』をことのほか可愛がっていた。
彼の弟の良くんに至っては、あたしより二つ年上だというのに未だに小学生のような扱いをされている。
息子が欲しかった、という二人のぼやきを聞かされるのも、一度や二度じゃない。
二人とも、隣の家に住む『理想の息子』の世話ができるのが楽しくて仕方ないらしいのだ。
あたしは階段を上る足音を返事の代わりにして、着替えをすませて一階に下りた。
『まーくん』が食卓についてテーブルの脇から足を投げ出し、茶碗を手にしている。
「おう、遅かったな、夏菜」
「……サボリですか、ケンちゃん」
「ケンちゃんはよせ。それから叔母さん『まーくん』も勘弁してよ」
彼の名前は野上賢一。初対面の人には99%『けんいち』と呼ばれてしまう。
だからあたしは漢字が読めるようになった頃からわざと『ケンちゃん』と呼んでやっているのだ。
「そっちの伯母さんは? 仕事?」
ケンちゃんのお母さんは看護師さんをしている。
伯父さんは――あたしが小学生の時に事故で亡くなってしまった。
当時大学生のケンちゃんと、中学に入ったばかりの良くんを女手ひとつで育てることになった伯母さんを心配して、
うちの両親はちょうど空き家になっていた隣の家に越して来るように薦め、 専業主婦の母がケンちゃん達の世話を買って出た。
で、たまにうちで一緒に夕飯を食べているわけなのだ。
「そう、夜勤。良はまだ帰って来ないしな」
良くんは、あまりうちに来ない。大学に入って付き合いも増えたとかケンちゃんは言うけど、
もともと家族でべったりする人じゃないし。
あたしもそう。それを言うとケンちゃんには『ガキ』と笑われるけど。
「で?」
「何だ?」
「サボリ?」
「違うって。この前休日出勤した代休だよ。いいからおまえもメシ食え」
「誰の家のメシよ」
「こら、夏菜、まーくん困らせるんじゃないの。早く食べなさい」
ケンちゃんが、母の『まーくん』に諦めたように苦笑して、あたしの分のお皿を取って渡してくれる。
――その手が、大きいこと。
低い声。優しい瞳。たまに見るスーツ姿。
いつの間に、こんなに遠くなったんだろう。
十も年上のこの人に、追いつきたいのに追いつけないのは、どうしてだろう。
「なんだ、夏菜、ダイエットか?」
「……別に。食欲ないだけ」
「ダメだぞー、育ち盛りなんだから、もっと食え」
「あのねぇ! あたしはもう高二なの! そういうのは中学生までにしてよね」
「たいして変わらねぇよ。ガキはガキ。しっかり食え」
そう言うと、自分のお皿から箸でつまんだお肉を投げてよこす。あたしはすかさず投げ返した。
無言のバトルに、母が割って入る。
「食べ物で遊ぶんじゃないの! まーくんも、夏菜に合わせて子供みたいに」
「こっちが合わせてんのよ!」
我関せず、という顔でニヤニヤ笑っているケンちゃんの足を蹴飛ばそうとしたら、届かなかった。
睨みつけるあたしを見て、目だけで笑ってみせる。
優しい瞳。
絶対、そんなふうに笑ってばかりいられないようにしてやるんだから。
高校二年の冬ともなれば、なんとなく緊迫感が漂ってくる。
もちろん、三年生の殺気立ったムードとは比べ物にならないけれど、そろそろやらなきゃ、という感じだ。
あたしも一応大学進学を考えてる。
ケンちゃんが大学を出て就職して四年。良くんも無事に大学に入って、
うちの親としては女のあたしはどうでもいいみたいだけど。
習い事でもしたら、などとのんびり言う両親に、大学に行く、と言わずにはいられなかった。
あたしだって、いつまでも『おまけ』じゃないんだからね。
「で、俺に勉強を教えろと」
食後のリビングで、ソファにひっくり返ってテレビを見ているケンちゃんのお腹の上に、参考書やノートを落としてやった。
ぐえ、という声をあげて起き上がったケンちゃんに、もうすぐテストだから教えて、と言ってみたのだ。
小学生の頃は、時々宿題をみてもらっていた。
でも、ケンちゃんが就職して忙しくなり、そんな時間もなくなってしまってだいぶ経つ。
大学に行くんだからそろそろ本気でやるの、と意気込んだあたしを見たケンちゃんは軽く眉を上げた。
「俺もそんなに暇じゃねぇぞ」
「だから、いる時だけでいいわよ。テスト前の大事なとこだけ」
気が付いたら、あたしの周りにいくらでもあったはずの『時間』はシャボン玉のように消え始めていた。
学校に行ったり、部活に出たり、友達と遊んだり。
そんな中でケンちゃんと過ごす時間は、手で触れれば消えてしまいそうに儚いものになってしまった。
慌てて次のシャボン玉を作る子供のように、あたしはケンちゃんの時間を手に入れるために必死になっている。
「しょうがねぇなぁ。……じゃあ、日曜の午後ならいいよ。図書館でな」
「図書館?」
「うちじゃおまえ集中できないだろ。俺もちょっと調べたいことがあるし。で、どこが範囲なんだ?」
教科書をめくるケンちゃんに、あたしは急いでテスト範囲の箇所を探す。
――家の外で会うのなんて、中学生の時に映画に連れて行ってもらって以来だ。
二人きりで、一緒に外を歩けるんだ。
眉を寄せて教科書を読むケンちゃんの横顔に、あたしはこっそりガッツポーズを決めた。
さんざん迷った結果、白いラムのセーターにタータンチェックのスカートを合わせた。
ちょっと子供っぽいかな。でもこの前、似合うって言ってくれてたし。
買ったばかりのブーツを履いて、キャメルのコートを着て、大きめのバッグを肩から下げたあたしは図書館のドアをくぐった。
しん、と静まり返った室内は、足音も床に敷かれた絨毯に吸い込まれてしまう。
子供向けの絵本の置かれたコーナーから時折はしゃいだ声が聞こえる他は、空気の違う世界に踏み込んだみたいだった。
微かに本をめくる音や、何かを書き付ける音、抑えた話し声の中を、見慣れた背中を捜して歩いた。
「あ、ケン……」
グレーのセーターの背中の向こうに、すらりと背の高い女の人がいた。
あたしの声にケンちゃんが振り返り、彼女がにっこり笑って会釈する。あたしはぎくしゃくとお辞儀を返した。
「こっちが今話した従妹の夏菜。こちらはうちの会社の藤村さんだよ」
『こっち』と『こちら』の違いってなんだろう。
ああそれよりも、どうしてこうなってるの?
「こんにちは」
「……こんにちは」
相変わらず笑顔の彼女に、ケンちゃんが笑いかける。
「こいつ人見知りだから。じゃあ、例の件よろしく」
「ええ。おかげで助かったわ」
「いや。それじゃ」
ケンちゃんが軽く片手を上げて、彼女がもう一度あたしに笑いかけて、あたしが慌ててお辞儀して。
そしてその人は、書架の向こうに消えて行った。
「……誰?」
「だから、会社の人。同僚。って分かるか? 同じ年に入社した人なんだけど」
「分かるわよ。なんで、ここにいるの?」
「――仕事で必要な資料があってさ。フロッピーに落として彼女に預けたんだよ」
「なんで?」
「そりゃ彼女の仕事が関わってくるから……って、こんなことおまえに言ってどうすんだ。いいから、勉強始めるぞ」
面白くない。
せっかくの新しいブーツも、昨夜自分でアイロンがけしたスカートも、見てくれてない。
「さて、数学か……とりあえずこの問題な。えー……」
教科書をめくる指。下ろした前髪。肘までたくし上げたセーターの袖。
どうして、あたしを見てくれないのだろう。
「いいか、これはXをこっちに移項して、まずこの値を出すだろ……したら、この公式が当てはまるから」
だからあたしは彼を『ケンちゃん』と呼ぶ。
他の誰も、呼ばない名前で。
「……夏菜」
静かな声に、顔を上げる。
いつの間にか、あたしが分からないと言った問題の解説は終っていた。
「おまえ、聞いてたか?」
「え、あ、うん」
「嘘つけ。それが人にものを教えてもらう態度か? 全然うわの空じゃないかよ」
「……」
勉強なんて、口実だよと。
ケンちゃんと一緒にいたかったんだよと、そう言ったら、この穏やかな瞳は動くのかしら。
「おい……どうしたんだよ」
「……なんでもない」
あたしは、子供で。
ケンちゃんがいつも一緒にいるような女の人とは違う、子供で。
従妹でも幼馴染でもない、ただの女の子としてなんて、見てもらえるわけがない。
大きくため息をついたケンちゃんが、教科書やノートをまとめだした。
「……え?」
「今日は、やめ。おまえ何か変だし。やる気がないのに教えてもしょうがないだろ」
「そういうわけじゃ……ちゃんと聞いてるよ」
「いや。俺も教える気なくなった。――さっきの資料さ、明日の会議でいるんだ。
俺のほうでまとめておきたいこともあるし、今日はナシにしよう。……あとで分からないとこがあれば教えてやるから」
そう言うと、席を立って出口に向かって歩いて行ってしまう。
あたしは、しばらくそこから動けなかった。
きっと怒ってた。
それはそうだろう。忙しいのに無理を言って、ちゃんと話を聞いていなかったあたしが悪い。
――でも。
あたしには見せない瞳の色。綺麗な女性と話すケンちゃんの横顔。
やっぱり、初めから無理だったのかな。
テストが終って試験休みに入った金曜日の夕方、家に帰って玄関を開けると、大きな靴があった。
でも違う。これは――良くん?
「ただいま……良くん、来てるの?」
「よ」
リビングのソファで、ケンちゃんと同じカッコでひっくり返っている良くんがいた。
「叔母さん買い物行ってる。コレ」
何故かむっとした顔で差し出すのは、あたしが借りたがってたCD。
年が近いわりにあまり話すことがないけど、音楽の趣味だけは合うんだ。
「あ、ありがと……持って来てくれたんだ」
「俺これからバイトだし。渡して帰ろうとしたらちょうど叔母さん出かけるとこでさ。
おまえが帰るまで留守番してろって言われた」
留守番、ね。
めったに顔を見せない良くんが来たから、引き留めておきたかったんだろう。
「そう。何か飲む?」
「いや、いいよ。もう少ししたら出かけるし」
ケンちゃんとは何でも話せるのに、二つしか違わないこの従兄とは話が弾まない。
照れ屋で無口な良くん。ほんとは優しいのも知ってるんだけど。
何となく黙ったまま並んでソファに座り、点けっぱなしのテレビに目を向ける。
「……ケンちゃん、元気?」
「あ? 兄貴? ……別に変わんねぇよ。こっちにはよく来てんじゃないの?」
「……うん……そうなんだけどね」
「何だよ、フラれたか?」
「え?」
びっくりして顔を上げると、横目であたしを見た良くんが口の端で笑った。
「おまえ、気付かれてないと思ってんの」
「え、だ、だって」
「兄貴は気付いてねぇな。おまえと一緒でニブいから。俺はすぐ分かったけど」
「……なんで……」
「とりあえず否定はしないわけね」
「べ、別にフラれたとかそんなんじゃ……」
あたしはポツポツと、図書館であったことを話した。
学校の友達にも、誰にも話していない想い。
まさか良くんに気付かれてるなんて思ってもみなかったけど、誰かに話したかったのかも知れない。
「そりゃおまえが悪いよ」
「……分かってるもん」
「そういやなんか機嫌悪かったかな。あれから急に忙しくなって顔見ないけど」
「……そうなんだ」
「会社で異動があるとかなんとか……」
「ふうん。……ね、ケンちゃんて彼女いるのかな?」
「知らねぇよ」
苦笑した良くんが、ワイドショーをやっていたテレビのチャンネルを変える。
再放送のドラマで、崖っぷちに立った犯人が犯行を自供しているところだった。
「……なんでサスペンスドラマって崖っぷちとか海岸で終るのかな」
「俺に訊くなよ……兄貴に訊いてみれば?」
「なんでサスペンスドラマは」
「じゃなくて、彼女がいるかどうか。そのほうが早いだろ。今週末は家で仕事してるはずだから、訊いてみな」
「だって……そんなこと訊いたら変に思うじゃない」
「思われればいいじゃん。おまえこのまんまでいいわけ?」
このまま。
ほとんど妹みたいな、従妹。
まだまだ子供のあたし。大人のケンちゃん。縮まらない距離。
「おまえがそんなだったら、俺が――」
「……え?」
視線が合う。
テレビの音が遠ざかる。どうしてそんな、怖い顔してるの。
「ただいまー! 良くん、まだいる?」
玄関から母の声がした。目をそらした良くんが立ち上がる。
「んじゃ俺、バイト行くから」
リビングのドアに手をかけたまま、振り返らない。
「あ、うん。――CD、ありがと」
「倍返しな」
「は?」
そのままドアを開けて出て行く。
母の引き留める声と、良くんの笑い声がして、玄関のドアが音を立てて閉まる。
CDの倍返しって、どうすればいいんだ?
いやそれより、良くんは何を言いかけたんだろう。ケンちゃんとこのままで――。
混乱したあたしは、制服のままソファにひっくり返った。
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