信じられなかった。
なんでいるんだ、何しに来たんだ、危ないかも知れないってのに。
Rh+の体で、ここにいても大丈夫なのか。
頭にきて、心配になって、そして――嬉しかった。
瞳子の後ろに、お袋がいた。
お袋だ。ああ、本当に、俺の知ってるお袋だ。
あれから12年――あんたどうしてそのままの姿なんだ。
時間の流れが違う。たったの3日しかたっていない。
――それなら、なおさらゆっくりしてはいられない。
俺はまだ迷っていた。
このままここにいるべきか。この世界を守るために、馴染めない向こうを捨てて、ここにいるべきか。
それよりもまず、あの3人を見つけて、瞳子と一緒に逃がすことだ。
お袋の案内で、3人は無事に見つかった。
俺のじいさんという人にも会えた。
――俺はやっぱり、向こうでは『マイナス』なんだな。
考えたくないことを振り切るように、俺はペンダントを握った手を差し出す。
微かに笑ったじいさんが、その手を握った瞬間、世界が終わりを告げた。
外に転がり出た俺の手には、じいさんの手の感触が残っている。
――意外なほど、暖かく、力強い手だった。
ごめんな。何もしてやれなくて。
広がっていく空間の歪みの向こうに、お袋がいた。
あんな笑顔を、昔に見た気がする。
蓮は悪くない。あなたは、私の一番の宝物。
――終らせてやるよ。消してやる。
瞳子。
きっと、帰るから。
俺をプラスだと言ってくれたおまえを、悲しませることはしないから。
待っててくれよな。
自分のまわりを取り巻く空気が、不気味な虹彩に蠢いていた。
どうすればここを閉じることができるんだろう。
ペンダントは置いてきた。あとは、このブローチを……。
「それを貸して」
「……お袋」
「私が持っていくわ。それで――終るから」
「なあ、一緒に逃げようぜ。親父、ずっと待ってんだからさ」
「お父さん、元気?」
「――ああ」
「あなた、お父さんに似てきたわね」
そう言ってくすくす笑う。
俺は――いつの間にか、元の姿に戻っていた。
「大丈夫。お父さんは分かってくれてる。また――いつか会えるから」
「ちょっと待てよ、そんなのアリかよ。お袋が犠牲になることないだろ!?」
「犠牲じゃないわ。私はここの人間で、『長』の娘だもの。ここを消して消えるのが、私の役目」
「そんなことは――」
「最初から、こうなることは分かっていたの。それでも、なんとかしたかった。
本当なら、とっくに消えていたわ。それがお父さんに会えて、あなたを産めて――幸せだった」
静かに笑う笑顔に、覚えがある。
大丈夫。蓮はここにいていいの。
そう言って、笑ってくれた。
「時間がないわ。蓮、ブローチを貸して」
「……イヤだ」
「蓮」
「なんとかならないのかよ! このまま逃げれば――」
「ダメよ。分かってるでしょ? きちんと閉じなければ、また空間が歪む。何の罪もないRh−の人達が、
巻き込まれてしまうかも知れない。そうすれば、あなたの大事な人を悲しませるのよ」
「……大事な……」
「いるでしょう? 悲しませたくない人が」
いる。
あいつが泣くのを、見たくない。
「どっちにしろ、ここは、私は、消えるの。それでいいのよ」
動きを封じ込められたような俺の手から、お袋はブローチを受け取った。
「――ごめんね。あなたには、つらい思いばかりさせた。母親らしいことも、してあげられなかった」
「そんなことは、ない」
俺は無理やり唇の端を吊り上げた。そうでもしないと、泣き出しそうだった。
もう、お袋の前で泣くような俺じゃ、ダメなんだ。
「あんたはいつも、俺を受け入れてくれた。俺がいることを許してくれた。
どんな時も、どんな俺も、そのまま受け止めてくれた。それで――充分だ」
「何言ってるの」
笑った瞳から、涙がこぼれる。
「そんなのは、当たり前なの。私とお父さんには、あなたがいてくれるだけで幸せなんだから。
――もう大丈夫よ。これからは、もっとたくさんの人が――」
お袋の姿が霞んだ。まわりの空間が、大きく捩れる。
「お袋!」
「ああ、そうね。あなたもう20歳なんだもの。『お母さん』なんて呼ばないわよね。
でも、アレよ、あんた呼ばわりはやめなさいよ、お父さんにも――」
「何言ってんだよ! なあ、おい、待てって! ――また会えるんだろ!?」
もう、声は聞こえない。
笑った顔が、光に飲み込まれていく。
「お袋――母さん!」
そして俺は、汚れたリノリウムの床に投げ出された。
疲れた。かなり歩いた。
どういうわけかちゃんと男物の服を着て、靴も履いてはいたけれど――財布がない。
そりゃたいして入ってなかったけどさ。あっちじゃ金なんかいらないんだから、返せっての。
交番になんか行くのもイヤだし、携帯も瞳子の部屋に置いてきた。
歩くしかねぇだろ。
ようやく瞳子の家の近所の公園に着いて、俺はベンチにへたり込んだ。
あー、ビール飲みてぇ。煙草も吸いたいし、コーヒーも飲みたい。
腹減った。瞳子の作った飯が食いたい。風呂に入って、3日ぐらい眠りたい。
俺はここにいる。ここで生きていくことを、何より俺が望んでる。
仕事をしたい。人と話してみたい。余計なこだわりを捨てて、新しい自分でやり直したい。
親父に、お袋の話をしたい。子供の頃のことも話したい。
――瞳子に、会いたい。
あいつに笑っていてほしい。くだらないことで、思い切り笑い合っていたい。
一緒に買い物に行って、好きな映画や読んだ本の話をして。
華奢な体を抱きしめて、柔らかな髪を撫でて。
一晩中でも、おまえが好きだって、言ってやりたい。
――それを、おまえが望んでくれるなら。
途中で入った公衆トイレの鏡に映ったのは、見慣れたはずの俺で――でも、瞳子の知ってる俺じゃない。
この男は誰だ。こいつは本当に、瞳子に受け入れてもらえるのか。
何かがこみ上げてきて、叫びだしそうになる。
俺は思い切り鏡を殴りつけて――手が痛くなった。
簡単に割れるほどの力はないってことね。平凡な、この世界の人間だ。
そう、俺は、俺のままだ。
そのままで、瞳子に会うしかない。
公園を出て、駅のほうを向いて立つ。
時計がないから分からないけど、そろそろ帰ってくる頃じゃないかと思う。
――やがて、瞳子の姿が見えた。
駆け寄って抱きしめたい気持ちを抑えて、俺は黙って歩き出す。
瞳子の視界に、俺は入っていない。
何事もなくすれ違い、振り返りたい衝動をこらえた時
「――蓮?」
時間が止まった。
俺は立ち止まり、目を閉じて、もう見ることのない笑顔を思い浮かべる。
――ここに、俺のいる場所がある。
すべてはここから、始まる。
俺は、ゆっくりと目を開けて振り返った。
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