「……じゃ、行ってきます」
「おー、行ってらっしゃい」
仕事に出かける瞳子を送り出し、洗濯機を回して掃除機をかける。
料理もできないことはなかったが、瞳子の作るもののほうが数段うまいので、
夕食は作ってもらうことにした。
その代わり、朝食の支度と掃除洗濯は俺の担当。
瞳子の下着だけはどうしても自分で洗うと言って聞かないから、他は全部まとめて洗う。
――どういうわけか、女物の下着は着ける気になれなかった。
中身まで女になったわけじゃないのか。それもなんだか複雑な気がするけど。
いや、考えないんだった。
瞳子とだけ一緒にいればいい生活。先のことを考えられる状態じゃない今に、俺は浮かれていた。
それでも、簡単な家事を済ませ、することもなく1人で部屋にいると情けなくなる。
――いつまでも、このままではいられない。
元に戻れないなら、女の自分として生きていくか、いっそのこと――。
くだらない考えに、頭を振る。
蓮は、悪くない。そう言ってくれたお袋の顔が浮かぶ。
自分を責めないで。何も悪いことなんてないの。大丈夫、いつか、この世界に馴染める日が。
――この世界?
何のことだ。ずっと昔、小さな頃に言われた覚えがある。
お袋は、どうして、あんなことを言ったんだろう。
それにしても、不器用な女だな。
いや、手先は器用なほうだと思う。料理もうまいし、壁にかかったパッチワークとやらは、なかなかの出来だ。
はっきり言って、美人だと思う。
背が高いのを気にしてるようだけど、モデルにでもなれそうなくらいスタイルがいい。と思う。
あんまりじっくり見てないし、そっちのほうには意識を向けないようにしてるから。
気が利くし、優しい。頭もいいと思う。
なのに、なんつうか、生き方のヘタなやつだよ。
いつもまわりの人間と揉めるのがイヤで、人がイヤがる仕事まで引き受けてる。
何かの集まりがあれば、律儀に顔を出す。
で、みんなの世話を焼いて疲れて帰ってくる。
頼まれると断れない。人の顔色を伺って、気ばかり遣って。
バカだよなぁ。
俺は誰とも軽い付き合いしかしてないけど、自分が損するようなことはしたくなかった。
にっこり笑って、適当にかわして、おいしいところは持っていく。
それが20年生きてきて身につけたやり方だ。
俺はそれでいいけど、瞳子は真面目に一所懸命にやっているのに、まわりからはいいように使われてる。
まったく、バカだよ。
――瞳子の妹が姿を消した。
同じ頃に、あと2人の人間も消えていた。
全部で3人。みんな、俺と同じ年。そのうち2人は、俺と同じ病院で産まれてる。
何が、起こってるんだ。
俺は、どう関係しているんだ。
何をどうすれば、瞳子の妹も、他の2人も見つけられるんだ。
そんな頃に、瞳子が会社の同僚の結婚式に行くという。
やっぱり、断れないんだよな。
支度をして出てきた瞳子を見た俺は、一瞬息を呑んだ。
ほんとに、綺麗だ。
見とれてしまうこと、まかり間違っても、自分もそんな格好をしたいとは思わないことからも、
俺はどうやっても中身は男のままなんだと自覚する。
あいつも来るの?
マサユキさん。瞳子の元彼氏。
電話がかかってきたりしたし、ヨリを戻したいんだかなんだか。
気に入らねぇ。
めったに外には出ないことにしていた。
歩き方やしぐさまで女っぽくするのは難しかったし、いろいろ面倒だから。
それでも俺は、どっちともとれるような格好をして瞳子を迎えに行った。
会場から出てきた瞳子が、何故かほっとしたような顔で俺に駆け寄って来る。
――抱きしめたいと、その時思った。
遅れて飛び出してきた彼が俺を見て驚く。
そりゃそうだろう。俺は笑って、瞳子とその場から歩き出した。
その時の俺は、まぎれもなく本当の俺のままだったと思う。
死にたいと思ったことは、1度や2度じゃない。
他人とは深く関わらない。そう自分に課してきたけれど、誰とも関わりたくなかったわけじゃない。
本気で好きになった人もいた。
ここにいたいと思った場所もあった。
拒まれて行き場を失う時、死というものが唯一俺を受け入れてくれるような気がしたんだ。
あの3人の行方は知れないまま、時間が過ぎた。
瞳子のいない昼間、俺は手がかりを探して駆け回った。
女に見えたかどうか分からないけど、なるべくそう見えるように気を付けて。
結局、俺のせいだ。
お袋のいた世界が、俺を待っている。
すべては、その世界を継続させるために起きたこと。
――瞳子の妹まで、巻き込んで。
親父に会って話を聞いた。俺がするべきことも分かった。
ここから、消える。
俺が向こうの世界に行けば、きっとあの3人は助かる。
きっと。
真夜中、俺は窓にもたれて瞳子の寝顔を眺めていた。
不器用で、強がりで、本当は泣き虫な瞳子。
俺が消えたら、おまえは泣いてくれるのかな。
俺のことを、忘れずにいてくれるのかな。
――今、この一瞬でいい。
俺は俺に戻りたい。本当の、男の姿の俺に戻って――おまえを抱きしめたい。
目を覚まして俺の隣に来た瞳子の、長い髪を撫でることぐらいしかできなかった。
安心したように肩にもたれて眠ってしまった瞳子を布団に寝かせる。
いつか、元の姿に戻って、言えなかった言葉を伝えたい。
自分を消したくないと思ったのは、この時が初めてだった。
空気が重い。
ずっと人気のなかった古い建物の中は、空気の流れが止まっているようだった。
何かに呼ばれたような気がして、最上階の廊下に向う。
――ここだ。
黄ばんだ布を破ると、思ったとおり大きな鏡が現れた。
ここにいるんだな、お袋も、あの3人も。
手の中のブローチを握り締めて、鏡に触れる。
その先は暗い森だった。
なんて、体が軽いんだ。
重々しい風景と裏腹に、俺は今までで一番楽に呼吸ができているような気分でいた。
ふと思いついて、そばにあった木の枝をつかんで力を篭める。
あっけなく、折れてしまった。
瞳子の体のままの小さい手で、両手でないとつかめないような太い枝を、だ。
そういうことか。俺は、ここでは『長』の直系だからな。
こんな力なんかいらねぇよ。
俺がほしいのは、あの3人の安全と――瞳子の、笑顔。
「おい! お袋! あとは誰だか知らねぇが、誰かいるんだろ!? いるなら出てこいっての!」
暗い森の中で、俺の叫ぶ声は虚しく吸い込まれていった。
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