もう、れんちゃんとは遊ばないんだ。
その子の得意そうな言い方が、俺は不思議だった。
言ったあとでほんの少し申し訳なさそうな顔をして、遠巻きに見ている他の子供達の方へ駆けて行く。
どうしてこんなガキに、こんなことを言われてるんだ。
――ああ、そうか。俺もまだガキなんだ。
みんなおそろいの園服を着て、幼稚園の庭を駆け回っている。
はしゃぐ声が渦を巻いて、俺のまわりから遠ざかる。
いいよ、ボクは別に、おまえらとなんか遊ばなくたって。
そう叫ぶ代わりに俺がしたことは、近くにあったバケツに砂場の砂をつめて、
その子達に向かって投げつけることだった。
家の洗面所で、俺はお袋に顔を拭かれていた。
とっ組み合いのケンカになって、あちこちすり傷やひっかき傷だらけの俺は、
泥まみれのまま、迎えに来たお袋に手を引かれて帰った。
終始言葉少なに、それでも先生や他の母親達に頭を下げて回るお袋を見るのがイヤで仕方なかった。
ボクは悪くないよ。何も悪いことなんてしてないよ。
口に出したら負けになる気がして、泣きもせずに黙り込む俺は、強情で可愛げのない子と見られただろう。
お母さんは、怒るかも知れない。
おそるおそる顔を上げた俺に、お袋は微笑んで頭を撫でた。
「蓮は、悪くないよ。――本当に、何も悪くないんだよ」
泣きたかった。大声で泣いてしまいたかった。
歯を食いしばる俺を抱きしめたお袋は、優しく背中を叩いてくれた。
その時に小さな声で言われた『ごめんね』がどんな意味を持つのかなんて、分からなかった。
小学校に上がっても、状況は変わらなかった。
最初は仲良くしていた友達も、どういうわけかだんだんと俺から離れて行き――
やがて俺は、すぐにケンカばかりする付き合いにくい子になった。
表立ってイジメられることもない代わりに、誰も俺と仲良く遊ぼうとはしなかった。
時折思い出したように担任が言う『桐谷くんと仲良くしましょう』なんてものは焼け石に水でしかない。
一度『異端』と決められた子供の立場なんて、簡単には変わらない。
そんな友達なんて、こっちから願い下げだ。
強がってバリケードを張り巡らせる俺に、両親は何も変わらずに接した。
学校から帰る俺を待っていたように公園に連れ出し、夕暮れまで一緒に遊んでくれるお袋。
親父は、休みの日には一日中俺に付き合って駆け回ってくれた。
――だから、友達がいないことなんて、何でもないという顔ができたんだ。
それも、俺が8歳になるまでのこと。
何の言葉も前触れもなく、お袋が消えた。
カテイノジジョウというのがどういうものか分からなかったけれど、
俺を遠くから腫れ物に触るように見る中に、大人達も加わっていった。
安心して、強がっていられる場所を、俺は失った。
時には泣いても怒ってもいい暖かい場所が、消えた。
親父は何も話してくれないまま、時間だけが過ぎていく。
仕事と家事に追われる親父の負担にならないように、俺は多くを望まないことを選んだ。
つまり、他人と長く付き合うなんて、俺には無理だということ。
無駄な争いはしなくなった。
しばらくの間楽しく付き合えれば、相手が引き始めた頃に俺から離れていけばいい。
誰もつらくない、一番の方法だ。
友達とも女の子とも、時々出かけるバイトにも長続きしない俺を、親父は心配していたようだ。
どうしてこうなるのかなんて分からない。どうすればいいのかなんて分からない。
だから俺は、曖昧に笑ってはぐらかす。
俺は磁石のひとつの極しか持っていないんだ。
まわりのみんなは、俺と同じ極を俺に向けているから、一定の距離から近付けない。
――時には、違う極を向けてくれるような気がする相手に出会ったとしても。
枕元のスタンドのぎりぎりまで暗くした灯りに、部屋の中がぼんやりと浮かび上がっている。
デジタル時計の時刻は、9:30。
「……やべぇ。チェックアウトだ。……チカちゃん?」
でかいダブルベッドの隣は、空だった。
チカちゃんという名前しか知らない。
引っ越してきたばかりの大阪の街を適当にブラブラして、可愛い娘が1人でいたから声をかけて。
ついてきたから一緒にホテルに入って。
そのあとはメールのやりとりをして、2度目に会ったのが昨夜だ。
俺よりは多分年下。あっけらかんとして、なんだか危なっかしい娘。
それでも、俺に反対側の極を向けてくれる娘だと、思ったんだ。
思っただけ。
スタンドの下にあるメモ用紙に『バイバイ』の走り書き。
風呂場の鏡に口紅で書いてないだけましか、なんて、くだらない事を考えて起き上がる。
これで『バイバイ』か。思ったより早かったけど、こんなもんだろ。
試すまでもなく、唯一の連絡方法のメールアドレスは変えられてる。
東京にいた頃の『友達』も『彼女』も、今の俺とは関わりがない。
こんなもんだろ。いつものことだよ。
そう思いながら、俺は『バイバイ』のメモを細かく破り捨てた。
昨日一日降り続いていた雨は、上がったらしい。
そろそろ夏が近づいていることを知らせる朝の光に、俺は体を起こした。
ボロイ木造の家の中は、しんと静まり返っている。
当たり前か。親父はもう出かけただろう。
土曜日。せっかく起きたことだし、いい加減に仕事を探さなくちゃならない。
なるべく人と関わらないで済む仕事。1人でも続けていけるような。
――資格を取るとか、本気で考えたほうがいいのかも知れない。
どっちにしろ、毎日ブラブラしているわけにもいかないし、とにかく行動しよう。
そう思って洗面所に行き、勢い良く顔を洗う。
横にかかったタオルを取って顔を拭いた時、鏡の中に知らない女がいた。
――いったい、何がどうなっているんだ。
突然鏡越しに転がり込んできた彼女は、次の瞬間には俺とそっくり同じ姿になっていた。
2人して半ばパニックになって、気が付くと、俺は東京の彼女の部屋にいた。
――彼女と、同じ姿をして。
視界に入ったのは、長い髪とパジャマを着た華奢な体。
細い声。白い肌。
いったい、どうなってるんだ。どうすりゃいいんだ。
途方に暮れて2人で座り込みながら、俺は不思議と安堵していた。
もう、俺は俺でなくてもいいんだ。
みんなから嫌われる、『異端』の俺は、ここにはいない。
今だけは、誰も知らない自分でいられる。
いっそこのまま、元に戻れないならそれでもいい。
困り果てている彼女と対照的に、俺は突然解放されたような気分でいた。
深く考えずにトイレに入るまでは。
――そうだ。俺は今、女なんだった。
一瞬、本気でどうしたらいいのか分からなくて頭が白くなった。
戸惑ってうろたえる瞳子を見た時、腹が決まった。
考えるまい。
自分の今の体――つまりは、この瞳子と同じ体のことには、なるべく意識を向けない。
俺は今、俺じゃない。
誰も、俺がどんな人間かなんて知らない。誰とも関わらなくていい。
そのことが嬉しくて、それ以外はどうでも良かった。
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