5.

 いやな夢を見た。
 荒い呼吸の音が耳について、それを発しているのが自分だと気付いて、僕は大きく息をついた。
 まだ胸の中で心臓が暴れている。冷たい汗をかいた腕に、鳥肌が立っていた。
 ――俺、死ぬ時は交通事故なのかな。
 そんな思いに失笑を浮かべた時、その音が耳に届いた。
 ――電話だ。
 聞き慣れたベルの音が鳴って、暗闇の中でベッドの脇のテーブルに載せた電話のプッシュボタンが点滅して、
 僕の応対を促している。
 その信号が耳から脳に達し、実際に腕を伸ばして受話器を取るまで、とても時間がかかったような気がする。
 午前1時だ。
 こんな時間にかかってくる電話に、ロクなことはない。
 実家で何かあったのか、それとも――やっとのことで耳に当てた受話器から、懐かしい声がした。
 『――もしもし、洋一?』
 「……理美か?」
 『うん。――ごめんね、こんな時間に』
 途切れがちの理美の声は、ひどく聞きづらかった。
 泣いているのか、しゃくりあげる気配がする。
 「いや、いいよ。――どうした、何があったんだ?」
 『あたし――』
 そこまで言って、こらえきれないように泣き出す。
 僕は理美の嗚咽が少し治まるまで黙っていた。
 『――っあたし、今日――もう、昨日ね――夜、春香のところに電話したの、用事があって』
 「久住が、どうかしたのか?」
 『……』
 「――理美?」
 『電話する約束だったんだけど、携帯にいくらかけてもつながらないから、家にかけたら、妹さんが出て
 ――春香が、事故に遭って、病院に運ばれた、って』
 事故。
 僕の体に再びあの衝撃が走る。
 闇を切り裂いて迫る白い光。クラクションに射抜かれてすくむ足――。
 「それで、久住は? 無事なのか?」
 『――あたしが病院に着いた時には、もう――』
 「う、そだろ……」
 『嘘だって、思いたい、のに、――』
 「どこの病院だ、すぐ行く」
 僕は泣きじゃくる理美から病院の名前を訊き出し、慌しく着替えて部屋を飛び出した。
 通学に使っていた原付バイクを飛ばして病院へ向かう。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ――。
 呪文のように繰り返す。
 駆け込んだ深夜の病院のロビーには、理美と、斉木と、サークルの仲間が数人集まっていた。
 みんな、黙りこくってうつむいている。
 「洋一……」
 理美が青い顔で僕を見上げた。泣き腫らした目も、頬に残る涙の跡も、夢であってほしかった。
 僕は斉木と目が合った。
 病院の常夜灯に照らされた血の気のない顔で立っている。
 その乾いた唇が言葉を紡ぐより前に、僕は斉木の胸倉につかみかかっていた。
 「嘘だろ!? なあ、おい、嘘だよな!? あいつは――久住は、生きてるんだろ?」
 僕の勢いに気圧されるように、2、3歩後ずさった斉木は、目を見開いた。
 「上村、おまえ――」
 「なんで……なんであいつが死ぬんだよ! なあ、どうしてだよ!」
 今にも殴りかかりそうな僕を、他の仲間達が止めに入った。
 「落ち着けよ、斉木のせいなわけじゃないだろ!」
 斉木のせいじゃない。じゃあ、誰のせいだ。誰のせいで、春香は死んだんだ。
 「――俺だ……」
 「……何?」
 訝しげに訊き返す斉木に、僕は吐き出すように叫んだ。
 「俺のせいだ。俺が、久住を殺したようなもんだ!」
 「……おまえ、何言って……」
 「昨夜、一緒にいたんだ。家の近くまで送っていった。俺が呼び止めて話を延ばしたせいで――」
 「……なんだって!?」
 今度は、斉木が僕につかみかかった。
 慌てて周りにいた連中が僕らを引き離す。
 「……上村、落ち着け。俺らもさっき来たんだけど、警察から久住の家族に話があって、
 それを聞いたんだ。……事故だよ、上村。酒酔いの上、信号無視だ。通報が早かったんで、
 轢いた奴は捕まったけど……久住は、即死だった」
 即死。
 笑って手を振って、歩いて行った。
 『――いいよ』
 『あたしも、洋一君って呼ぼうかな』
 『おやすみなさい』
 その笑顔に背を向けて、歩き出した僕が駅に着くより前に、すべては終わっていた。
 何も知らずにいた。何も言えずにいた。何も、できなかった。
 膝から力が抜けて、僕は床に座り込んだ。
 そこにいた誰も、何も言わなかった。
 それでも、きっと、僕の春香に対する気持ちはみんなに知られてしまった。
 斉木にも――理美にも。

 どうやって病院から部屋に戻ったのか覚えていない。
 気がつけば空が白み始めていた。
 ――春香が、迎えるはずだった朝。
 この先、何度でも。
 それを奪ったのは、僕だ。
 ……それから2日の間、何も口にできなかった。
 3日目に水を1杯飲んで、そのまま吐いた。
 起きているのか眠っているのかも分からない。
 僕は、春香の葬式には出なかった。
 卒業式にも出なかった。
 それでも時間は過ぎ――鮮血があふれ出していた傷口が少しづつ塞がるように、
 僕のまわりにも日常が戻ってきた。
 学校の仲間が、何度か訪ねて来てくれた。
 一度だけ、斉木も一緒に来て、黙って僕の肩を叩いて行った。
 実家に戻ることも考えた。
 けれど、春香の匂いの残るこの土地を離れる気になれなかった。
 何もなかったように会社に通い始め、当たり前に仕事をし、人と話す。
 そのすべてが、僕が犯している罪のように思えた。
 おまえは何をしている。こんなふうに普通の生活をして、ものを食べたり、笑ったり。
 彼女から奪った幸せを自分のものにして、それでいいのか。
 僕は『無口で無愛想』なのをいいことに、必要以上に人と付き合うのを避けるようになった。
 
 ――そして、僕に関わるすべての幸福を拒んだ。


「――あの夢は、ただのいやな夢だったんだと思う。彼女が事故に遭ったことで、
自分の見た夢と彼女が遭った事故のイメージが重なったんだろうと思う。
……でも、俺はその瞬間を忘れられない」
こんなことまで、衿子に話すつもりはなかった。
僕の腕に触れた衿子の手が、探るように袖をつかむ。
「……逃げちゃ、駄目です」
「……逃げる?」
街灯に照らされた瞳が、揺れながら僕の視線をとらえる。
「上村さんのせいじゃないとか、ただの事故だったんだとか、そんなことは分かっているでしょう?」
何度も言われた。運が悪かったんだと。
「あなたにできることを、してあげて下さい」
「……俺に、何ができるって……」
「ちゃんと、悲しんで下さい」
「……!? 悲しんでないと思うのか?」
おそらくは責めるような視線を向けてしまった僕に、必死になって首を振る。
「違います。あなたは、自分のことを悲しんでる。自分が彼女に何もできなかったこと、
もしかしたら助けられたかも知れないことを、悲しんでる。――そうじゃ、ないんです。
悲しいのは、大切な人が死んでしまったことでしょう? まず、それを認めてあげて」
衿子の言葉は、僕の胸を突き刺して、頭の上から抜けて行った。
――何を言ってるんだ。悲しくないわけがあるか。
「彼女の死を悲しんでいる自分を、許してあげて下さい。それが、あなたが彼女にできることだから」


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