明け方から降りだした雨は、昼過ぎには霙になり、学校の門をくぐる頃には地面はうっすらと白くなっていた。
もうすぐ、卒業だ。
就職も決まり、卒業の手続きも済み、今日を終えればほとんど学校に来る必要もない。
そして、春香に会うことも。
田舎に戻るように言う両親を説得して東京に就職したのは、少しでも春香と同じ土地にいたいからだろうか。
それを自覚するためにも、これから前に進むためにも、僕は傘を広げて学校の前に立っていた。
4、5人の女の子が連れ立って歩いてくるのが見える。
その中に春香の姿を見つけて、僕は軽く深呼吸をした。
「……久住」
「あら、どうしたの?」
「うん。……ちょっと」
気を利かせてくれたのか、一緒にいた女の子達が『じゃあね』と手を振って先に歩いて行く。
理美は最近バイトや彼氏とのデートに忙しいらしく、あまり春香達と一緒にいない。
「ごめんな、いきなり」
「ううん。別に用事はないから――なぁに? なんかあったの?」
「いや、えー……と、お茶でも飲んで行かないか? 俺、バイト代入ったから奢るし」
「うわ、珍しい。何? もしかして今頃ノートが必要になったとか?」
「ひでーな、おい。……久住には世話になったからさ。一応」
「やぁだ、もう。これで会えなくなるわけじゃないでしょ」
そう思いたい。僕がこれから言う言葉に応えてくれなくても、また笑って会えるようになりたい。
ちょっと買い物があるという春香に付き合って街を歩き、結局僕は夕食を奢って、
春香の家のある駅まで送って行った。
雪は激しさを増して降り続き、華奢な靴で歩きにくそうな春香に、僕は腕を貸した。
「――斉木に怒られるかな」
こんな時にあいつの名前は出したくなかったけど、自然と口から出てしまった。
小さく笑った春香が、僕の腕をつかむ手に軽く力をこめる。
「怒らないと、思う」
「え?」
「ありきたりで笑っちゃうけどね。……たぶん、これっきり」
「――え?」
思わず足を止めた僕の背中を、ぽん、と叩いて笑う。
「そんなに驚かないでよ。まあ、結構もったほうじゃないの? 斉木君の彼女としては。
……いつからかなぁ。すこーしづつ、距離を置かれてった感じ。そういうのうまいんだ、あの人」
そんなのってあるか。
ずっと、それを望んでいた。
いや、できれば春香のほうから斉木を振ってほしかったけれど、その逆でも、僕はそれを待っていた。
じゃあ。
それなら。
言いかけて飲み込む。
――言うつもりだった。今日を逃したら、言えなくなる。
たとえば卒業式で。たとえば就職してから集まった場所で。
言えば、思い出になる。
1年の時からずっと好きだった。本当は、ずっと好きだった。
そんなことがあったという、過去形になってしまう。
でも。
言えない。今は言えない。
斉木と別れることになるなら、俺と――そんな言い方が許されるわけがない。
このまま、か。
何も言えないまま、何もできないまま、学生時代の仲間の1人で終わるのか。
「……上村君? やだ、そんなに驚いた?」
「いや……久住は、それでいいのか?」
「うーん……悔しいとは思うし、一時は結構落ち込んだけど……しょうがないでしょ、人の気持ちは」
そうだな。どうしようもない。
僕が君を好きなことも。君が僕を男として見ていないことも。
「……理美のこと、ごめんな」
「え? 何、急に」
「俺、ちゃんと付き合ってやってなかったからさ――心配かけちゃったけど」
「ああ、もうそんなことないって。あの娘ったら、いつの間にか彼氏作ってるし……ってごめん」
「いや。却ってほっとした」
そう言って、なんとなく笑い合う。
「……上村君が悪いんじゃないよ。ほんと、どうしようもないもんね、こういうことは」
「――うん」
苦笑して、歩き出す。
少し躊躇ったあとで左の肘を差し出すと、照れくさそうに笑ってつかまってくれた。
「あ、ここでいいよ。この先の大通りを越えたら、すぐだから。ありがとう」
車のライトが行き交う道の手前で、僕の腕は急にぬくもりを失った。
「え、いや、家まで送るよ」
「ううん、大丈夫。うちねー、お父さんがうるさいのよ。家の前で男の子と一緒にいたりしたら、大変。
斉木君にも、いつもここまでしか送ってもらわなかったし」
「へえ、そりゃ大変だな」
「そうねー。もういい年なんだし、今度社会人なんだし、そろそろ見逃してほしいわ」
笑って、じゃあ、と手を振りかけるのを、僕は思わず引き止めた。
「……久住!」
「なぁに?」
今は、言えない。
それでも、何か言わないと、本当にこれっきりだ。
ただの友達の1人で、僕は終わりだ。
「……俺……おまえのこと……」
喉がしめつけられる。
心臓の鼓動に合わせるように、ポケットに入れた手が震え出す。
「……上村君?」
「おまえのこと、名前で呼んでいいか?」
「……名前でって……下の?」
「――うん」
馬鹿だ。俺はどうしようもない馬鹿だ。
もう少しましなことは言えなかったのか。
「――いいよ」
柔らかな笑顔とともに発せられた言葉に、僕のまわりの時間が止まる。
「え……ほんとに?」
間の抜けた返事を返した僕に、春香は笑ってくれた。
「……あたしも、洋一君って呼ぼうかな」
「え、あ、うん」
バカみたいに頷いて、からからに乾いた喉に唾を飲み込んで、僕は思い切って言った。
「今度――電話する」
「うん。また遊びに行こ」
「ああ」
「じゃあ、おやすみなさい」
「――おやすみ」
今度こそ手を振って、歩き出す後ろ姿に、僕は再び記憶のシャッターを押す。
これがどんな形の始まりでも、その細い背中を忘れることはない。
僕は通りへ背を向け、駅に向かって歩き出した。
この時、春香を追いかけていれば。
無理にでも家まで送って行っていれば。
――始まりだと、思った。
ひとかけらの覚悟もしていない終わりが来るなど、予想もしなかった。
「――つまらないよな、こんな話」
いつの間にかすっかり陽が落ちて、僕と衿子の座るベンチも闇に包まれ始めていた。
ジジ……という軽い音がして、数回点滅したあとで公園の中のライトに灯がともる。
「そろそろ、帰ろうか。送ってくよ」
立ち上がろうとする僕の袖を、衿子が引いた。
さっきよりもずっと思い詰めた瞳で僕を見つめる。
「……話して下さい」
「いや、でも……」
「上村さん、ずっと自分の中にしまいこんでいたんでしょう? 私に話してもなんの解決にもならないけど、
……何の力にも、なれないのは分かってるけど。話すことができるなら、聞かせて下さい」
僕は苦笑して、袖を引かれるままベンチに戻った。
『おやすみなさい』あの言葉が――最後だった。
笑って手を振って、歩き出す姿が、最後だった。
もう、春香には会えない。
あの笑顔も、あの声も、2度と戻っては来ない。
――僕は、何もできなかった。
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