3.

来なければいいのに、と毎週思うのが月曜日の朝だ。
それでも今日はいつにも増してその思いが強く
――家を出て駅に向かう道の上でも、僕は欠勤する言い訳を考えたりしていた。
情けない。自分のしたことの責任も取れないで、よく生きていられるもんだ。
いや、それほどのことじゃない。普通に話ができればそれでいい。
もともと誘ったのは向こうだし、却って彼女の希望には応えてないんじゃないか。
何を考えてるんだ。傷つけたのには違いない。
どうしてあの時泣いたのか。どうして無理に笑ったのか。
それを理解する前に触れたのは僕だ。
そんなことを考えている間にも、会社の入り口を通り、自分の席に辿り着いてしまう。
朝のうちに片付ける仕事をこなしているうちに、机のすみに封書が置かれる気配がした。
いつもなら書類でいっぱいになっている机に、無意識に封書を置く隙間を作っていたらしい。
それは、置く場所に困って衿子が声をかけることを拒んだのに他ならない。
「おはようございます」
他の社員に向けるのと同じように、それでも少し躊躇いを含んだ声が落ちてくる。
「――おはよう」
そちらを振り向かずに答える。僕の後ろを通り過ぎて行く彼女からは、何の気配も伝わってこなかった。

 ポーン、というチャイムの音が白い斜面にこだまして、次のリフトが流れて来た。
 ストックを持つ手に軽く力をこめ、踏み固められた雪を蹴って乗車位置に移動して乗り込む。
 平日のゲレンデはすいていて、僕は4人がけのリフトの真中に1人で座った。
 ――3年目の冬。この旅行で、僕らはサークルを引退する。
 と言っても、何かの目的を持った集まりでもないし、自分のことで忙しくなった奴は自然と参加しなくなり、
 逆に暇をもてあましていれば、卒業するまで参加したっていい。
 でもとりあえずは、現部長の斉木が引退し、今の2年生に引き継がれることになる旅行だった。
 ガコガコガコ、とワイヤーを揺らして、リフトが3本目のポールを通過する。
 ――僕は、1人だった。
 もちろんサークルの仲間と一緒だったし、3年男子の部屋に集まればバカ話にも参加する。
 でも、理美はいなかった。
 だんだんと会話や一緒にいる時間が減り、サークルの集まりにも理美の姿は見えなくなり、
 いつだったか、4年生の男と肩を並べて歩いているのを見かけたきりだ。
 自然消滅、と言えば聞こえはいいが、結局僕が振られたことになるんだろう。
 好きだとはっきり言ってやったこともなければ、別れる時の言葉もなかった。
 こんな卑怯な終わり方に、少なからずほっとしている自分が嫌だった。
 サークルの中では、僕と理美のことは知れ渡っていたし、僕の足も自然とサークルから遠のいていた。
 『最後だし、おいでよ』春香のその言葉がなかったら、僕はここに来てはいなかっただろう。
 いつもと変わらず接してくれる仲間がいることも、救いになっていたけれど。
 降車位置が近づいてきて、ポーン、という音がまた響いてくる。
 僕は板の先を軽く上げてリフトから降り立ち、そのまま緩い斜面を降りて、白いウエアに気付いた。
 春香は、真っ白なスキーウエアに同じ真っ白な帽子をかぶって、みんなに『うさぎ』と笑われていた。
 まだ2回目だという彼女は、友達から借りたウエアを着て、板をしっかり『八の字』に固定して立っている。
 僕に気付くと、安心したような半泣きの顔で見上げた。
 「――どうしたんだ? 1人で」
 「上村君……も、1人?」
 「ああ。斉木は? 一緒じゃないのか?」
 「はぐれちゃって……みんなと上のほうに行っちゃったみたい。この辺にいるかなと思ったんだけど」
 ここはふもとからメインゲレンデをリフト1本上がっただけだから、上級者はもっと上のコースに行く。
 僕も午前中はみんなに付き合って頂上まで行ったけれど、昼食後の慣らしにここで降りることにしたのだった。
 「ま、上がって来ちゃったもんはしょうがないよな。この辺で遊んでればそのうち会えるだろ」
 「この辺って……ここで?」
 と言って、コース前の平らな地面を指差す。
 リフトから降りた人達が次々に追い越して行く中で、僕は思わず吹き出した。
 「ここで遊んでどうすんだよ。雪だるまでも作ってるか?」
 「ひどーい。だって、この辺って言うから」
 「そりゃ、このコースを滑ってれば、てことだろ。ずっと立ってても寒いだけだし」
 「……それは、滑れる人に言うんだと思う……」
 「――ここより平らなのは子供ゲレンデしかないけどな」
 僕の軽口に、春香が頬を膨らませる。
 抱き寄せたいと思う右手を叱りつけるように、僕はストックを地面に突き立てた。
 「で、どうする? ここで待っててもいいけど、風邪ひくぞ?」
 「降りるしか、ないわよねぇ」
 「そうだな」
 にやにや笑っている僕を見て、口をへの字に曲げた春香が頭を下げる。
 「……お願いします、一緒に降りて下さい」
 「俺で良ければ」
 おどけて言ったつもりだったけれど、目は笑っていなかったと思う。
 春香がちょっと斉木の存在を気にかけるように、上のゲレンデを見上げる。
 僕はそれに気付かない振りでコースを少し降りた。
 「あ、ちょっと、待ってよー!」
 焦って叫ぶ声に笑い返して、ストックを振ってみせる。
 「少しづつ降りて来いよ。こけたら起こしてやるから」
 そう言った僕に頷いて、ボーゲンにした足を踏ん張ってじりじりと降りて来る。
 できることなら、と僕はこの3年で何度目になるか分からない言葉を胸の中で呟く。
 君を受け止めて、支えるのは、僕だけであってほしい。
 ――できる、ことならば。

まるで何もなかったように、日常は過ぎていった。
そう、この程度のことなんだ。
傷つけたとか、そんなことは僕が勝手に思っていただけのことだ。
衿子とは普通に挨拶を交わし、仕事のやりとりをする。
2人で会うことなんて、もうないだろうと思っていた。
――だから、会社を出る時に偶然会っても、『お疲れ様』の一言で僕は歩き出した。
「……上村さん!」
もう少しで駅に着くところで呼び止められ、それでも半ば予想していたような気持ちで振り返る。
「少し、お話できませんか? ――お時間は取らせませんから」
思い詰めた色の中に、自分の中で出した結論を秘めた瞳をしていた。
「――いいよ。じゃあ――どこか店にでも入る?」
「いえ、すぐ済みますから――歩きませんか?」
僕は頷いて、駅に背を向けて歩き出した。
衿子が何を言うつもりなのか。分かっているような気もするけれど、何にしてもこのままでいいわけがない。
仕事のことや、最近あったことなどをぽつぽつと話しながら歩くうちに、小さな公園に出る。
まだ少し明るさの残る時間というのも手伝って、どちらが言い出したわけでもなくベンチに腰を下ろす。
漸く詰めていた息を吐き出した時、衿子が口を開いた。
「もう、言わなくても分かってると思うんです。――それで、駄目なのも分かってるんです」
次の言葉を待って地面に視線を落としていた僕が顔を上げるまでの間、衿子は言葉を切っていた。
「でも、一度だけ言わせて下さい。――上村さんが、好きです」
真っ直ぐに見つめる視線を、僕は受け止めていた。
いつかそう言われるだろうと、少々の驕りも持って、思ってはいた。
その言葉の先に何も待っていないことを、僕も衿子も分かっているはずだった。
「……どうして、俺なんだ?」
「それを訊きますか?」
苦笑した衿子の横顔が、夕陽に照らされている。僕は初めて彼女が綺麗なことに気付いた。
「理由なんて、ないです。前にも言いましたよね、なんとなく気になってたって。
それからいつの間にか、好きになってました」
そうだ。
理由なんてない。どこがどうだから好きだなんて、説明できるものじゃない。
「でも」
振り切るように言って、もう一度僕のほうを見る。
「いいんです。いつも、ただつきまとってるだけだから、一度はっきり伝えたかっただけです。
上村さんの気持ちが私に向いてないことなんて、知ってます」
どうすればいいんだ。
そんなことないよ、とか、嬉しいよありがとうとか、でもやっぱりごめん、とか。
ありきたりで無難な言葉ばかりが次々に浮かんでは消える。
「……聞いてくれて、ありがとうございます。明日からまた、後輩として仲良くして下さいね?」
その笑顔に、なんと答えればいいんだろう。
こっちも笑って、うん、よろしく、とでも言えばいいのか。
「そんな顔しないで下さいってば。これで結構すっきりしちゃってますから。……ごめんなさい、こんな話して」
「謝るなよ」
今度は僕がそう言う番だった。はりつけた笑顔が少しづつ消えて、衿子が僕の目を見上げる。
「謝るのは俺のほうだ。……おまえは、悪くない」
君、と呼ばれるのは嫌だと言っていたから、慣れない呼び方になってしまった。
「俺は――」
深く息を吸い込んで、吐き出して。
もうずっと自分だけのものだった想いを、口にする。
それくらいでしか、この素直な気持ちに応える術がない。
「好きな娘が、いるんだ。学生の時から――ずっと」
「――ああ、そうなんですか」
思いがけないほど明るい声で、衿子は返した。
「なーんだ。彼女がいたんですね。もう、そんなふうに見えなかったですよ。って、私が鈍いのか」
そう言って笑う。
「いや、そうじゃない」
「え?」
笑った顔のまま、真顔で見つめる僕を振り返る。
「……彼女じゃない。俺の彼女だったことは、一度もない」
「あ……」
まずいことを言ってしまったと思ったのか、衿子の瞳がすまなさそうに揺れる。
「そうしたかった。でも、できなかった。俺は――何もできなかった」
そこまで言う必要はない。僕の中にいるのは春香で――それを伝えればいいだけだ。
なのに、その先の言葉を僕は続けてしまった。
「何もできないまま――いってしまった。――俺の、誰にも、届かないところへ」

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