2.

 彼女が僕の胸に軽く手をついて身体を起こすと、何もない空間にひとりきりで放り出されたように心細くなる。
 自分の皮膚を突き破りそうだった熱が急速に冷めて、僕は黙って脱ぎ捨てた服を身につける。
 そんな時彼女はいつも、少し寂しそうな笑顔を見せた。
 ごめん、と謝りそうになるのを寸前でこらえる。
 謝ってしまったら、今よりもっと彼女を傷つける。それくらいは分かっているんだ。
 理美さとみと付き合い始めたのは、2年目の春だった。
 最初は選択しているクラスもサークルも違ったけれど、春香の高校の時からの友達で、
 1年の秋から僕と春香のいるサークルに入ってきた娘だった。
 どちらが先に言い出したのか分からない。
 いつの間にか2人で過ごす時間が多くなり、まわりの誰もが僕らが恋人同士だと認識していた。
 それは間違いじゃない。
 僕は理美が好きだった。2人でいる空間が愛しかった。
 ――それでも、春香に対する焼け付くような気持ちは、消えなかった。

「寒くないですか?」
ワンルームの部屋に通されて、僕はガラステーブルの前になるべく小さくなって腰をおろした。
「いや、別に」
「今お茶淹れますね。あ、お酒のほうがいいですか?」
「いや、お茶で」
床に正座をするのも変な気がしてぎこちなく胡座をかいた僕を見て、衿子が笑みをもらした。
「――『いや』ばっかり」
「え、あ、そうかな」
どうしてここまで来たんだろう。
衿子にああ言われて、驚かなかったわけじゃない。
酔っていたとは思えないけど、多少は酒のせいもあるんだろうか。
僕は黙って席を立ち、今夜送り出される杉田さんと幹事の先輩に挨拶をして店を出た。
店の前の歩道にぼんやりと立って夜空を見上げていると、10分ほどしてから衿子が出て来た。
僕を見て、少し意外そうな顔をする。
それから促すように僕の袖を引いて、黙って部屋まで歩いた。
衿子が鍵を取り出してドアを開けて中に入り、すぐに再びドアが開いて『どうぞ』と言われるまで、
どちらも一言も口をきかなかった。
「はい」
目の前のテーブルにコーヒーが置かれる。
「……ありがとう」
衿子は砂糖とミルクを入れて。僕はそのままで無言でコーヒーを飲む。
「何も訊かないんですね」
「……何を?」
「どうして誘ったのか」
訊いたほうがいいんだろうか。それを言うなら、僕はどうして来たんだろうか。
「――訊いたら、答えてくれるのか?」
「答えます」
即座に返事をして、衿子は顔を上げた。
――それからしばらくの間、僕らは黙って見つめ合っていた。
先に目をそらして息をついたのは僕だ。
「訊きたいことがあるのは、そっちなんじゃないのか? 言いたいことがあるのかも知れないけど」
「……そう、思いますか」
「違う?」
「いえ。……違いません」
タバコが吸えたら良かった。
この時初めてそう思った。男のほうが喫煙率が高いのは、女の視線や詰問をごまかすためじゃないだろうか。
でも僕に喫煙の習慣はなかったから、仕方なくコーヒーカップに目を落とす。
「――誰とでも話はするし、明るい顔も見せてくれるけど、いつも、どこか壁を作ってる気がして。
みんなで盛り上がってる時に、ふっと自分の世界に入り込んでしまう感じだから……
何がそうさせているんだろうって、なんだか、気になって……」
話しているうちに、衿子の声がだんだん小さくなっていく。
言葉を選んで視線を彷徨わせるしぐさが、見つめ続けていた笑顔に重なる。
「余計なことだと、分かっているんです。関係ないって言われたら、その通りなんです、でも」
――『でも』
「上村さん」
――『上村君』
「『無理してるんじゃないかなって』」
「君は――」
分かってる。衿子は春香と似ても似つかない。
あの時言った言葉が、しぐさが、表情が、重なって見えるなんて、僕が作った幻だ。
衿子の緊張した顔が一瞬、泣き出しそうに歪んだ。
「……きみ、って呼ばないで下さい。なんだかすごく……遠いです」
僕はほとんど意識せずに、腕を伸ばして衿子の頬に触れた。
右手の親指が衿子の睫毛の先に触れると、涙がひとつ僕の爪の上をすべり落ちていった。
思わず空いた左の腕で衿子の肩を引き寄せ、抱きしめる。
ほんの数秒。それでも僕の意識を覚めさせるには充分だった。
「――ごめん」
口をついて出たのは、言うまいと思っていた言葉。
「……謝らないで、下さい」
衿子の瞳が僕を真っ直ぐに見上げ、柔らかく細められた。そんなふうに笑ってみせるほど、僕は君を傷つけた。
「そろそろ、電車なくなるし……帰るよ。コーヒー、ごちそうさま」
「いえ、無理言ってすみませんでした」
「……いや……じゃ、また」
「はい」
まるで僕でも衿子でもない人間2人がしゃべっているような会話をして、僕は駅への道を歩く。
こんなに自分を嫌いになるのは、ひさしぶりだと思った。

 これを皮肉と言わずしてなんと言えばいいんだろう。
 あの『合宿』から1年後の夏、僕は春香と2人で並んで海を見ていた。
 いつの間にか僕の『彼女』の位置に落ち着いた理美と、春香と斉木の4人で、日帰りの海水浴。
 どうして来てしまったんだろう。
 理美に誘われた時は、2人で出かけるものだと思っていた。
 『じゃあ、春香達と時間とか決めとくね』と言われて、僕は改めて理美と春香が親友同士なこと、
 春香達、と括られる斉木の存在を重く感じて後悔した。
 できるだけこの状況を深く考えないことに気を取られて、理美が泳ぎが得意なことも忘れていた。
 彼女に付き合っているうちにすっかりくたびれた僕は、荷物を置いた浜辺に戻って来て
 シートに1人で座る春香を見て回れ右をした。
 「上村君? どこ行くの?」
 ……気付かれたらしい。
 今さら黙って海に戻るわけにも行かず、
 明るいブルーの水着を着た春香から目をそらしながらシートの端に座った。
 「理美はまだ泳いでるの?」
 「……うん。あいつ泳ぐの好きだからな」
 「そうね。一緒に泳いでたらもたないわ」
 そう言って笑う。僕はそちらを向くと陽射しが眩しいせいだと言うように、反対側の砂浜に目を落としていた。
 「……斉木は?」
 「さっきまでいたんだけど、暑いからもう一泳ぎしてくるって。理美と会えたかもね」
 「そう」
 じゃあ、しばらくは2人でいられるのか、という考えを振り切るように軽く顔を擦る。
 額に当てた手を透かすように春香のほうを盗み見ると、眩しそうに目を細めて海を見ていた。
 陽に灼けても、赤くなるだけですぐに消えてしまうという春香の白い肌を、理美は羨ましがっていた。
 その代わりあまり長い時間陽に当たれないの、と言っていたから、
 パラソルの下にいてもその頬は赤く上気して――あの合宿の夜、斉木の言葉に頷いていた横顔を思い出す。
 ――そんなにあいつが好きなのか。悪い奴じゃない。僕だって、友達だと思っている。
 けれど、君を自分だけのものにしてしまえるほどの存在なのか。
 俺じゃ、駄目か。……俺はあいつよりも前から君を――。
 「……理美、楽しそうだね」
 「え?」
 ふいに理美の名前を出されて、僕は頭から冷たい水をかけられたような気がした。
 「すごく楽しみにしてたから。上村君、あんまり2人で出かけたりするの好きじゃないからって」
 「……いや、そんなことないけど」
 理美とは、学校で顔を合わせて一緒に食事をしたり、
 実家暮らしの彼女が僕の部屋に遊びに来たりすることが多かった。
 ――どこかに出かけたいなんてこと、あまり言わないからな。
 「たまにはどこか連れて行ってあげれば? 人混みが嫌いだったら公園とかでも喜ぶと思うよ」
 「――うん」
 本当なら、心配かけてごめんな、だとか、ありがとう、だとか言うべきだろうと思う。
 大丈夫だよ、俺は理美が好きだから。そう言えたら、その気遣わしげな笑顔ももっと華やぐのだろう。
 ――でもそれは、こうして肩を並べている今、僕には残酷な課題だ。
 「ね、こんなことあたしが言うのは変だと思うけど……理美とちゃんと話してみたら?」
 「話すって……何を」
 「……思ってること」
 心臓がその鼓動を1拍飛ばして、どん、という衝撃とともに戻ってきた。
 思わず彼女のほうを振り返る。どう言うべきか迷うような瞳で僕を見上げた。
 「上村君が、いつも思ってることを素直に話してあげたらいいと思うよ。
 何を考えてるのか分からないところがあるから」
 分からないほうがいいんじゃないのか。そう言いかけて唇を噛む。
 「優しくしてくれるし、一緒にいてくれるけど……でも」
 そこまで言って言葉を切って、波の向こうに姿を消した親友に出過ぎた真似を詫びるように視線を向ける。
 「上村君、無理してるんじゃないかなって。――いつも、気にしてたみたいだから」
 「……そんなこと、ないよ」
 無理をしてるのは今だ。僕は自分の顔の筋肉に、笑え、と命令を下した。
 「悪いな、心配かけて。……よく覚えておくよ」
 忘れられるものか。
 今この瞬間だけ僕に向けられた笑顔を。陽射しに溶けていきそうな白い肌を。
 ――そして、僕がついた嘘の重さを。
 「……ごめんね、勝手なこと言って」
 「いや、悪いのは俺だから。気にしなくていいよ。ごめんな」
 ほとんどうわの空で、言うべきセリフを並べた僕に安心したような笑顔を見せる。
 僕はその後ろに広がる青い空ごと、その笑顔を切り取って記憶のフレームに入れた。

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