1.

 その瞬間、自分に向かって来るライトの白い光と耳をつんざくようなクラクションの悲鳴に、足がすくんだ。
 そして激しい衝撃を体に受けて、目の前が真っ暗になる。
 誰も信じるわけがない。
 分かっているけれど、僕は確かにその時の衝撃を覚えている。
 何か言葉にならない声を上げて起き上がった僕は、全身に冷たい汗をかいていた。
 すごいいきおいで跳ね回る心臓をなだめるように胸を押さえ、乱れた呼吸がやっと整った頃。
 電話のベルが鳴った。

「……上村かみむらさん?」
机いっぱいに資料を広げてパソコンの画面を睨んでいた僕に、ためらいがちな声が届いた。
顔を上げるとメール室の宮田衿子みやたえりこが、封筒の束を抱えて眉を顰めている。
「ああ、何?」
「いえあの、今日の分です」
そう言って2,3通の封書を差し出すのを黙って受け取り、軽く片手を上げて画面に戻る。
机に封筒を置く場所がなかったことや、おそらくは何度か声をかけてくれたのに気付かなかったことは、
これで謝ったとみなしてほしい。
「……あの……」
「――まだ何か?」
そちらを向かずに問い返すと、微かに体をこわばらせる気配がした。
「……いえ、失礼します」
小さく呟くと、他の机の間を回り始める。
――ごめん。
衿子がこの春からうちのメール室に入って、半年がたつ。
僕も入社して1年半のペーペーだから、年の近い者達で集まる時など、何度か顔を合わせている。
第一、日に2回はこうして郵便物を届けに回ってくるのだから、話す機会はいくらでもある。
それでも僕は、衿子の気遣わしげな視線や物問いたげな唇から逃げていた。
『上村さん、いつも無口ですよね。飲み会にもあまり来ないし。どうしてなんですか?』
軽く酒の入った彼女に、そう訊かれたことがある。
『君には関係ない』
そう返してしまった僕に、『そうですね。ごめんなさい』と笑った。
――その瞳に一瞬翳りが走ったことにも、僕は気付かない振りをした。
君は悪くない。
そう、悪いのは、何もできずにいる僕だ。

 なんて広いんだろう。
 上京して初めて自分の受験する大学を見た時、その広さと建物の大きさに飲み込まれそうだった。
 運良く合格を果たして授業に通うようになっても、その圧倒される感じは消えなかった。
 自分のいる場所じゃない。
 そういった気持ちを残したままふらりと覗いたサークルに、彼女はいた。
 「あれ、上村君じゃない。どうしたの? 誰かに用事?」
 「え、いや、何やってるのかと思って……ごめん、誰だっけ」
 「やだ、まだ覚えてくれてないの? 久住です。久住春香くずみはるか。同じ永瀬教授のゼミでしょ?」
 そういえばこんな娘いたっけか、と思っていると、彼女が教室の奥を指した。
 「興味あるなら見て行く? 上村君、サークル入ってなかったっけ」
 一応入学してすぐにあちこちから勧誘はされた。
 中学高校と陸上部に籍を置いていた僕は、それでも大学の体育会に入ってまで続ける気はなかった。
 それで、これといってやりたいこともないままフラフラしているうちに、
 どこにも入り損ねてしまったというわけだ。
 「……邪魔じゃない?」
 「ぜ〜んぜん。せんぱーい、うちのゼミのコなんですけど、入っていいですかー?」
 春香は大きなテーブルを囲んでいる5〜6人の男女のほうを振り返って訊く。
 「どうぞー。ジュースあるよ。お菓子もあるし」
 「――いったい、なんのサークル?」
 「”なんでもサークル”。旅行に行ったり、季節のスポーツをしたり、たまにボランティアみたいなこともするよ」
 なんだそりゃ、と思ったが、僕は黙って春香の隣に座らせてもらい、少しぬるくなったコーラを1杯もらった。
 どうやら、気が向いた時に気が向いた人が集まって、その時々のイベントに参加するものらしい。
 行きたくなければ行かなければいいし、普段はこうやって集まって、次に何をやるか相談している。
 「いいな、気楽で」
 半分くらいは皮肉をこめて言った僕に、春香は嬉しそうに笑った。
 「いいでしょ。あたしも入ったばかりだけど、楽しいよー。上村君も入る?」
 「え、いや、俺は――」
 「あー、入部希望? そこのノートに、名前と学部と、電話番号書いといて。
 活動は基本的に水曜の午後3時からね。一応この教室に適当に集まってるから、適当に来て」
 大きな地図を広げて次の活動の打ち合わせをしていたらしい男子学生が、
 窓際の机の上のノートをあごで指した。
 適当って言われたって――僕は自分の価値観だとか常識だとかが崩れる音を聞いたような気がした。
 思わず吹き出す。春香が一緒になって笑ってくれた。
 「今のが部長の高木さん。あまり目立たないとこだから、1年生はまだ少ないのよ」
 「――いいのかな、俺が入っても」
 「もう、大歓迎。1年生の男子って、まだ1人しかいないから。先輩、荷物持ち要員増えましたよ」
 「ええ?」
 驚いた声を上げた僕に、そこにいた全員が笑う。
 僕は春香の隣で、ようやく楽に呼吸ができる場所を見つけたような気がしていた。

好むと好まざるとに関わらず、参加しなければならないのが会社の飲み会だ。
特に今月寿退社する先輩女性の送別会となれば、出ないわけにもいかない。
なのに、うちの部署とは関係のないメール室の女の子達まで来ているのはどういうことなんだろう。
「……そんなに嫌な顔しないで下さいよ」
中身が半分に減った僕のコップにビールを注ぎ足しながら、衿子が苦笑した。
「――いや、そんなことないけど」
「上村さんに嫌われちゃってるのは、よーく分かってますぅ。でも今日の主役の杉田さんは、
最初メール室にいたんですよ。だからデザイン課に移っても、メールや総務のコに声かけてくれてたんです」
あ、そういうわけね。――それはいいけど、この娘は酔うとよくしゃべるんだよな。
「別に俺、嫌ってるわけじゃないけど……」
「えー、ほんとですかー? だっていつも冷たいじゃないですかー」
……駄目だ、結構出来上がってるらしい。
僕が返事をしないでいると、衿子はまた僕のコップにビールを注いで、自分のコップも空にした。
「あ、おい――」
止めようとする間もなく、手酌でなみなみと注いでしまい、一気に半分ほど空ける。
「……大丈夫かよ」
「ね、上村さんの下の名前って、『よういち』っていうんですよね」
「……そうだけど」
メール室は総務の中にある。社員のフルネームくらい知っていて当然だろう。
「洋一さんって呼んでもいいですか?」
「はぁ?」
僕があっけにとられるのを見て、けらけらと笑う。……まあ、泣いたり暴れたりするよりはいいけどな。
「あ、杉田さーん、新居の住所教えてくださ〜い」
衿子が席を立って、今日の主役のところへ行く。
僕はなんとなく詰めていた息を吐き出して、薄汚れた漆喰の壁を見上げた。

 「洋一! 呑んでるかぁ?」
 サークルにも慣れてきた1年目の夏。
 『来たい人』十数名で3泊4日、貸し別荘を借りて海水浴に来ていた。
 1年生部員の中では無口な僕を、春香や先輩達は気にかけてくれているようで、こうして声をかけてくる。
 それでも僕は僕なりに、このサークルが好きになっていたし、最終日の飲み会も楽しみにしていた。
 部長の高木さんに背中を叩かれて、むせそうになりながら笑ってかわして、
 僕は壁にもたれている春香に気付いた。
 珍しく1人でぼんやりとしている。
 いつもなんとなく大勢の中に紛れて、2人きりで話す機会なんてほとんどなかった。
 『ちょっと、散歩にでも出ないか?』かける言葉を頭の中で反芻して、僕は意を決して立ち上がった。
 と、春香が顔を上げて、誰かに笑いかけている。
 同じ1年の斉木さいきが、料理の載った皿を手に笑い返して、春香の隣に座った。
 ――僕もそのまま、元の自分の席に戻る。
 そちらを見なければいい、そう思うのに、僕は僕に向けられない笑顔を見せる春香から目をそらせなかった。
 何を話しているのか、とても楽しそうに笑い合う。
 斉木の言った言葉に笑いながら奴の膝を叩いた春香の右手は、そのまま軽く膝の上に乗せられる。
 春香の耳に口を寄せて何か囁きかける斉木を、彼女はくすぐったそうに見つめ返して、小さく頷いた。
 やがてさりげない風を装いながら、どこか上気した顔で春香が部屋を出る。
 僕は1人残ってグラスを傾ける斉木に話し掛けようか数瞬迷って――やめた。
 5分もたたないうちに、今度は斉木が自分と春香のグラスや皿を流しに運んで、部屋を出る。
 誰も気に留める者はいなかった。
 気付かないのか、それとも周知の事実なのか。
 叫び出したい衝動を堪えながら、そこから動けずにいる僕にも、声をかける人はいなかった。
 ――君が、好きだ。
 俺は、君が好きなんだ。
 姿の見えない春香に、僕は胸の中で叫ぶ。
 急に苦味を増したグラスの中の酒は、僕を酔わせてはくれなかった。

突然まわりの音が洪水のように自分の中に戻ってきて、僕は手の中のコップに目を落とす。
――全部、飲み干してしまえばいい。
あれから――何年たとうと消えないのなら、無理にでも飲み込んで、その痛みすら忘れればいい。
僕は、何もできなかった。
一息にコップを空にすると、いつの間に戻ってきたのか、衿子と目が合った。
さっきまでの明るさはどこへ消えたのか、悲しげな瞳で見上げている。
いつもならそらす視線を、僕はそのまま衿子の瞳に据えた。
少し驚いたように僕を見つめる衿子の顔に、静かに笑みが広がる。
やがてまわりを気にするように声を落として、僕の肩のあたりを見ながら言った。
「……一緒に、抜け出しませんか? 私の家、すぐ近くなんです」

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