初めて見る彼の寝顔は、驚くほど幼く見えた。
あたしは放課後の廊下を急ぎ足で図書室に向かう。
受験を控えた彼とは、なかなかゆっくり会う時間がなくて――時々こうして、
図書室で一緒に勉強するくらいしかできない。
この日はせっかく約束していたのに急にクラブのミーティングが入って、遅れてしまった。
息を整えて、静かにドアを開ける。
夕陽の射す部屋で、2、3人の生徒が本を選んだり机に向かっているほかは、
しん、と静まり返っていた。
一番奥のテーブルの上に見慣れたデイパックを見つけて、息をついてそちらに向かう。
机に突っ伏した格好で、彼はぐっすり眠り込んでいた。
そっと顔を覗き込むと、規則正しい寝息が聞こえる。
意外と長い睫毛。薄く開いた唇。
目を閉じた彼はなんだか違う人みたいに見えて、思わず時間を忘れて見つめてしまった。
クラブ活動の終わりを告げるチャイムが鳴る。
そろそろ図書室も閉められてしまうのに気付いて、あたしはそっと彼の肩をゆすった。
「……隆太郎……起きてよ」
「……ん……あと5分」
「何言ってんの。ほら、起きて」
「う……ん? ……恵美……?」
「ごめんね、遅くなって。ミーティングが終わらなくて」
「――ああ。俺、寝てた?」
「寝てた」
「……やっべぇ。全然進んでねーや」
目をこすって欠伸をすると、開いたままの参考書に目を落とす。
「まぁいっか。もう時間だろ」
そう言って笑うと、ノートや参考書を片付け始めた。
「いいの?」
「ん。あとは家でやる」
「……あんまり寝てないんじゃない?」
「そうでもねぇよ。昨日は昼まで寝てた。日曜だし」
……だったら電話くらいくれてもいいのに。そう思ったけど言わずにおく。
荷物をまとめた隆太郎が壁の時計を見てから、あたしのほうを見て笑った。
「あと15分あるな」
「……うん?」
「やっとおまえに会えたことだし」
優しく見つめられて、胸の鼓動がいきなりそのスピードを上げる。
固まっているあたしのほうに腕を伸ばした隆太郎は、
あたしのカバンを勝手に開けて数学の教科書を取り出した。
「この前教えた方程式あったよな。あのやり方で、この問題解いてみろ。
制限時間15分。はい、スタート」
……そう、来ましたか……。
あれから、5年。
あたしは見慣れたはずの隆太郎の寝顔を、じっと見つめていた。
ほとんど奇跡とも言うべき幸運で、あたし達は同じ大学に通うことができた。
と言っても、建築科に通う隆太郎と、油絵科のあたしとではあまり接点はなかったけど。
それなりに、互いの友達付き合いも大事にしつつ、楽しくやってこれたと思う。
あたしが大学2年の年に、麻子と高木先生が結婚した。
麻子は大学へ行かず、お父さんの秘書を続け――今では副社長の位置にいる。
元の副社長の、麻子と隆太郎の叔父さんが、独立すると言って会社を辞めてしまったのだ。
おかげで麻子が跡を継ぐことに反対する人はいなくなり、専務の神崎さんも諸手を挙げて賛成し、
秘書兼副社長として立派に働いている。
高木先生のところへお嫁に行ってもそれは変わらず――兼主婦までやってしまっている。
そのうえ、もうすぐお母さんにまでなってしまうのだ。
麻子のことだから、しっかりこなしているのだろうけれど、さすがに少し心配になる。
あたしは――たいしたこともできないのに。
あお向けに寝ていた隆太郎が、寝返りを打ってこちらを向いた。
目を覚ますかと思って咄嗟に寝たふりをするけど、起きる気配はない。
麻子が結婚するのと入れ違いに、隆太郎は1人暮らしを始めた。
色々話し合った結果、麻子と高木先生がお父さんと同居することになったのだ。
一応麻子がお嫁に行ったので、いわゆる『マスオさん』状態。
で、まだ大学生だった隆太郎が家を出ることになった。
『ま、俺としてはラッキーなんだけどな』
いつかは出ようと思ってたし、なんて言っていた。
実家にも近いし、たまに帰ってご飯を食べて来たりもする。
そしてもうすぐ『伯父さん』にもなる。
建築事務所に勤めて1年になる隆太郎は、変わらないようでいて、やっぱり少し変わったと思う。
鋭さを増した顎の線や、前より少し低くなった声。
時折見せる、落ち着いた色の瞳。
一緒に歩いてきたつもりなのに、この人はいつの間に大人になってしまったんだろう。
あたしがモタモタと1歩づつ登って来た坂道を、一足飛びに超えて来たように見える。
その瞬間を見逃してしまうほど、鮮やかに、こともなく。
5年の間に近付いたと思っていた距離は、なんて遠いんだろう。
いつになったら、追いつけるんだろう。
「……え?……」
情けないような切ないような気持ちになって枕に顔を埋めたあたしの髪を、
隆太郎の右手がゆっくりと撫でた。
慌てて目を開ける。ぼんやりと薄目を開けて、あたしを見ていた。
「……どした……?」
「あ、ごめん、起こした?」
「いや……目が覚めただけ。……眠れないのか?」
「うん……まあ。なんとなく」
「今、何時……2時か」
「うん。大丈夫。もう寝る。おやすみ」
そう言って笑うと、隆太郎の左の肩に顔をつけて目を閉じた。
あたしが一番、安らげる場所。
どこへ行っても何をしても、帰ってくるところ。
――それで、いいのかな。
隆太郎の優しさに甘えて、いつも支えてもらうばかりで、何も返せない。
どうして、一緒にいてくれるんだろう。こんなに小さなあたしと。
――あの頃。2匹の子犬みたいにじゃれ合っていればそれで良かった。
今でもあまり変わらないけど、家族に守られて、社会に守られて、子供でいれば良かった。
あたしも一応小さなデザイン会社に就職が決まり、これからは自分の足で歩く。
たった1年早く生まれただけの隆太郎が当たり前にやっている『大人』に、あたしはなれるんだろうか。
同じ大人として、並んで歩いて行くことが、できるんだろうか。
眠っていると思っていた隆太郎の左腕が動いて、あたしの頭を軽く抱えるようにした。
指の先であたしの髪を弄ぶ。寝つきの悪いあたしが眠れない時に、いつもこうしてくれる。
小さい子供をあやすような、その静かで優しいリズムに、涙がこみ上げてきた。
「……隆太郎……」
返事はない。
あたしの髪を指に絡めたまま、寝息をたてている。
いつの間に、こんなに遠くまで来てしまったのかな。
一番近くにいることが、そっと触れ合うことが、安らぎにつながると知らなかった頃から。
そしてその安らぎが、時に不安を呼び起こすことも知らなかった。
正しく選んだ道を歩いていれば、それでいいと思っていた。
迷っても、悩んでも、大きな間違いにはならなくて。
いつも、誰かに守られて。
自分で決めることに、答えを探すことに、何の不安もなかった。
――こんなに近くに来て初めて、眠るあなたに答えを求めることになるなんて。
「……あたしで、いいのかな」
甘えていていいのかな。一緒に歩調を合わせてもらっていて、いいのかな。
閉じた瞼に問い掛ける。聞こえていれば、笑い飛ばされてしまうような拙い疑問。
そう、答えはいらない。
こうして隣で眠っていれば、すぐに消えてなくなる。いつも。
同じ眠りの中にいられることが、答えだと分かってる。
「……違う」
ふいに頭の上で、低い声が聞こえた。
びっくりして顔を上げようとしたあたしの頭を首すじに押し付けるようにして続ける。
「おまえでいいんじゃない。……俺は、おまえが、いい」
「……隆太郎……? 起きてたの……?」
答えない。
少しするとまた、規則正しい呼吸が伝わってくる。
「……もう……」
パジャマの胸を軽くこづいても、動かない。
分かってる。全部、分かってる。
あなたが笑っていてくれること。この胸が、温かいこと。
もう一度目を閉じて、呼吸を合わせる。
だから――答えは、いらない。
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