ガラスの向こうに並ぶ嘘みたいに小さなベッドを、端から確かめていく。
ほんの2時間前にこの世に産まれてきた赤ん坊は、一番手前の列で呑気に欠伸をしていた。
「女の子だね」
眠っている赤ん坊がそれで起きるとは思えないが、抑えた声で恵美が囁く。
ピンク色の毛布をかけられた姪っ子が、もぞもぞと産着の袖をゆらす。
俺は自然と頬が緩むのを感じながら、頭の中でよろしくな、と声をかけた。
と、突然バタバタバタ、と軽い足音がして、いきなり俺の足にケリが入った。
「ライジャーキーーーック! とぉっ!」
「光汰っ!」
新生児室の前の廊下をダッシュするチビスケをつかまえて、羽交い絞めにしてやった。
「てめ、この、俺にケリ入れるとは100年早いわ!」
「へっ、100年後に生きてんのかよー。じじぃー」
「なんだとコラ、そういうことを言うのはこの口か!」
生意気ばかり言う5歳の甥っ子の口を両側からつまんでうにーっとひっぱっていると、
廊下の向こうから高木さんがやって来た。
「こら光汰! 病院で騒ぐんじゃない。迷惑になるだろう」
「はぁーい」
どうやら父親の言うことは素直に聞くらしい。
「このヤロー、俺の言うことは聞けないってのか?」
「あったりまえじゃん。オレはお父さんの子供だけど、リュウの子供じゃねぇもん」
「てっめぇぇ」
「……リュウ。あなたのほうがうるさいわよ」
笑いを含んだ声に振り返ると、車椅子に乗った麻子が看護婦さんに連れられて来た。
ちょっと乱れた髪や、ピンク色の入院着姿でいるところを見るのは、なんとなく照れくさい。
「おう、おめでとう。お疲れ」
そう言った俺に続いて恵美も、おめでとう、と笑いかける。
「ありがとう」
ふわり、と笑う笑顔は、一瞬見惚れるほど綺麗だった。
やっぱり、こういう時の女の人は本当に綺麗なんだな、と思う。
俺は思わず、隣に立った恵美の顔をじっと見つめてしまった。
「何?」
「ああ、いや、別に」
ふと麻子を見ると、いつの間にか近くに行った高木さんと2人で
微笑み合いながら赤ん坊を眺めている。
くそ生意気な光汰が少し寂しくなったのか、麻子の膝によじ登ろうとして
高木さんに抱き上げられていた。
照れたような嬉しいような顔で両親の顔を見比べていた光汰が、
ガラスの向こうの妹を見てくしゃっと笑う。
――もし、俺に血のつながった妹がいたなら、その時こんな顔をしていたんだろうか。
一緒に赤ん坊の顔を覗き込む両親が揃って近くにいたら、こんなふうに笑っただろうか。
同時に、麻子のそばで静かに微笑んでいる高木さんにも、俺は自分を重ねてしまう。
なんとなくもう一度恵美のほうを見て、目が合って笑う。
――ほんの少し、幸せのおすそ分けをもらったような気分で、病院をあとにした。
「いいなぁ」
喫茶店に落ち着いて頼んだ紅茶を一口飲むなり、恵美はため息をついた。
「何が」
「――何ってことないでしょ。麻子」
「ま、そりゃな。良かったじゃん、無事に産まれて」
「うん。それはほんとにね。――お産って大変だろうし」
そう言われても。
俺には何がどう『大変』なんだか詳しいことは分からない。
「今度詳しく聞いとけば? 参考のために」
「……何の?」
「何のってことはないだろう。……そりゃ……今後の……」
妙に口篭もる言い方になってしまった。――タイミングが悪いっつうの。
俺はなんとなく上着のポケットを押さえて、黙ってお茶を飲む恵美の顔を覗き込んだ。
「なーんか、機嫌悪ぃな、おまえ」
「……そう?」
「うん。何かあったのか?」
「ない」
あるな、これは。
「やっぱ、無理そうか?」
「……」
無理らしいな。
恵美は4年前からデザイン事務所に勤めている。
キャラクター商品を作っている会社で、入社した頃はすごく張り切っていた。
が、配属されたのは事務職だった。
再三デザイン課への移動を願い出たらしいけど、なかなか認めてもらえない。
というよりも、恵美には事務職が合ってるからだと思う。
きちんと事務をこなす人間が他にいないおかげで、恵美は貴重な人材になっているようなのだ。
本人はデザインをやりたいとしても、会社の側は事務員を必要としている。
正直な話、商品として通用するようなものを恵美が描けるともあまり思えない。言わないけど。
趣味として絵を続けて、事務職でやっていくのが一番だと思うんだけどな、俺は。
それを言ったら、ものすごく怒った。
俺が建築事務所に勤めて簡単な設計なら任せてもらえるようになっているのも、
焦りにつながっているようだ。
ムキになって言い返す恵美に俺も頭にきて、珍しく大喧嘩になってしまった。
謝る気はないけど、このまま放っておく気にもなれず、イライラしているところに、
麻子に2人目の子供が産まれた。
これ幸いと、何事もなかったように連絡をして、一緒に見舞いに来て。
なんとなくいい雰囲気になったから、今日こそは、と思っていたのに。
3度目の移動願いを受理されなかったらしい恵美は、何を言っても考え込んだ顔をしている。
「……あのさ」
「……ん?」
「もう、いいんじゃねぇ?」
「何のこと?」
「だから……前にも言ったけど。で、おまえがそれに納得いかないのは分かってるけどさ。
人間向き不向きってもんがあるんだよ。おまえは事務が得意なんだから、そういう人間だって
やっぱり必要なんだし、立派に仕事をしてることになるとは思えないか?」
「……別に、事務が悪いとは思ってないわよ。自分に絵の才能がないのも、分かってる」
「そうじゃなくて。俺はおまえの絵、好きだよ。ただ……商業ベースに乗るかどうかは
会社が判断することで、そこの需要に合わなきゃしょうがないと思うし」
「分かってるってば」
「んじゃ、前に俺が言ったことも分かるよな?」
「……分かってる。あたしは、隆太郎や麻子とは違うもん」
「……おまえな。本気で怒るぞ」
気持ちは分かる。誰だって、自分のやりたいことが仕事にできればいいと思う。
それでも、運良く思ったとおりの道に進めている俺だって納得いかないことは山のようにあるし、
副社長の仕事をしながら主婦と子育てをやってる麻子にも、つらいことはもちろんあるだろう。
「自分だけがつらいと思うなよ。事務の仕事をやってる人に、失礼じゃないのか」
「……ごめんなさい。ただ……ちょっと残念なだけ」
「それはそうだろうけどさ……おまえにしかできない仕事があるんだから、それでいいじゃんか」
「何、それ? そりゃうちの会社で事務できる人少ないけど、あたしじゃなきゃってことは――」
「いやそうじゃなくて。俺の奥さんって仕事は、おまえしかできないだろ」
ありゃ、言っちゃったよ。
この前から言おうとは思っていたけど、今言うのはフェアじゃないという気がして黙っていた。
弱気になってるところに、つけ込むように思われたくなかったから。
けど――10年近くも一緒にいた。その間、互いに目の前の相手のことしか見てこなかった。
それが何を意味するのか、分かってるはずだという甘えもあった。
「――今、そういうこと言うの?」
やっぱり。
「いやほら、せっかくだから言っとこうかな、と。ものにはついでってもんが――」
まずい。
つい茶化すような言い方をした俺を睨みつけると、恵美が席を立った。
そのまま店を出て行く。
「あ、おい――」
ここで追いかけるのはみっともないとか、思っちまうんだ、俺は。
確かに、甘えていると思う。
恵美と一緒にいると高校生の自分に戻ってしまうようで、それが心地良くもあり、情けなくもあった。
落ち着いて、真剣に話すべきことでも、ふざけた言い方をしてしまう。
普段の会話ならそれで良くても、いわゆる『プロポーズ』になることをふざけて言う気はなかった。
はずなのに。
俺は自分の部屋に帰る途中で、恵美の携帯に電話をかけた。――出ない。
呼び出し音は鳴っているんだから、電源は切ってないんだろう。
俺からだと分かってて、出ない気だな。
家の電話にかけても、居留守くらい使いそうだ、この調子だと。
で、こういう時はフラフラ出歩いたりせずに、部屋で1人で落ち込んでるんだ、あいつは。
ああもう、面倒くせぇな。
ヤケ気味に地面を蹴ると、今来た道を駅に向かって駆け出した。
無意識に、上着のポケットを押さえて、意味なく走り出したくなって。
灯りの点いた窓を見上げて、もう一度電話をかけてみる。――まだ出ない気ですか。
しばらく迷ったあとで足元の小石を拾った俺は、恵美の部屋の窓に向かって投げた。
カツン、という音がやけに甲高く響く。
息を切らして、窓が開くのを待つ――2、――3、――4、――5、――開いた。
目を丸くした恵美が、部屋の中と俺とを見比べて、諦めたように俺を見下ろした。
「――何、やってんの」
ひそめた声に答えず、黙って手招きする。
――夕飯時の住宅街は、色んな匂いが混じってなんだか懐かしい。
一緒に遊んでいた友達と喧嘩して、それでももう帰る時間になって、
お互いふくれっ面のまま手を振り合った子供の頃の自分が浮かぶ。
あの頃から、ずいぶん遠くまで歩いて来たような気がするけど、何も変わっちゃいない。
俺は素直になれない子供のままだ。
それでも、欲しいものは欲しいし、手に入れると決めたんだ。
俺がいる場所を与えてくれたのは、おまえだから。
これから先を一緒に作っていけるのは、おまえだけだから。
黙って見上げる俺を困った顔で見つめていた恵美が、窓を閉めた。
やがて玄関のドアが開いて、ゆっくり俺に向かって歩いてくる。
もどかしくなって大股に歩み寄ると、恵美の右手を取った。
言おうと決めてきたはずなのに、言葉が出てこない。
恵美が戸惑った瞳を上げる。
――いつの頃から、こんなに女の表情をするようになったんだろう。
俺には、誰よりも綺麗だということを、どうやって告げればいいんだろう。
この時間を、その笑顔を、守りたいと思うがために、俺は前より弱気になった。
失うことが怖くて、ごまかしてばかりいた。
こんなに弱い俺だから、手の届く場所にいてほしい。
どんなことからも、守ることができるくらい近くに。
言いたいことは山のようにあって。どの言葉もうまく言えなくて。
見つめる俺を見上げていた恵美が、やっと小さく笑った。
――あとで、言うから。ちゃんとした言葉にならなくても、伝えるから。
今は黙って、ビロードの貼られた小箱を取り出すと、恵美の手のひらに乗せた。
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