四月の午後の日差しは、微かに夏の匂いがする。
開け放った窓の向こうは小さな庭。すぐに隣の家の塀にぶつかる広さでは、雑草くらいしか生えていない。
その雑草の中にも、よく見ればタンポポやイヌフグリなどの花が見え、
自分がそういう草花の名前を知っていたことを思い出した。
ここは以前は、母の部屋だった。
ごく普通の6畳の和室だったことは確かだが、どこにどんな家具があったか、
その部屋にいる母の姿と一緒に思い描くことができない。
この家に引越してきた時、僕は大学に入ったばかりだった。
あっという間に春が過ぎ、季節は初夏を迎えようとしていた頃。キャンパスに続く並木の緑が濃さを増していた。
授業を終えて家に帰ると、母と弟が慌しく出かける支度をしていて、僕は通学のデイパックを背負ったまま病院に向かった。
仕事中に社用車で移動していた父が、玉突き事故に巻き込まれた。
病院に着いた時にはまだ息があったけれど、結局一度も意識を取り戻すことのないまま、2日後に息を引き取った。
小学生だった弟を叔母の家に預け、母と交替で父に付き添っていた時。僕は、気付けば父の手を握っていた。
大きかったはずの父の手が、自分の手の中で、急に小さくなったような気がしたのを覚えている。
いつの間に、自分は大人になったのだろう。
大人になったなんて、言えるのだろうか。
このまま父が他界してしまったら、母は、僕は、弟は、どうなるのだろう。
親父。
死なないでくれよ。
生きててくれ。
少しの力でいいから、この手を握り返してくれ。
こんなに長い時間、父の顔を見ていたことなんてあっただろうか。
動かない瞼。父の体に取り付けられたさまざまな機械が立てる音。
人工呼吸器が付けられているからだと分かっていたけれど、僕は静かに上下する父の胸の動きに祈った。
届かない祈りだと、どこかで覚悟はしていたのかも知れない。
どれだけ力を尽くしても、父が再び目を開けることはなかった。
人間は、小さい。
命の火は、こんなにも儚い。
どんな最先端の技術も、どんな強い想いも、その火を再び灯すことはできない。
父の臨終が告げられてから、僕はとにかく動き回っていた。
いろいろな手続きをし、葬儀の手配をし、たくさんの人に連絡を取った。
そうやって動くことで、父の死という現実を一気に飲み込んでしまいたかった。
もう、どうしようもない。
生き物はこんなに、あっけなく命を失うものなんだ。
「コーヒーでいい?」
キッチンから聞こえた声に、僕は顔を上げた。
結婚して3ヶ月。
旅行から帰ってしばらくは、休みを取った間に溜まった仕事を片付けたり、買い物や雑用に追われて休日を潰してきた。
久しぶりに何も予定のない日曜日だから、今日は一日家で過ごすつもりで気が済むまで寝坊をし、
朝昼兼用の食事を終えたところだ。
「ああ。サンキュ」
そう言った僕に小さく笑い返した夏菜が、キッチンでコーヒーメーカーに向かう。
僕らが結婚する前、ここは僕の実家だった。
父が亡くなったあと、母の妹にあたる叔母夫婦の家の隣に新築の小さな家が2軒建ち、
看護師をしていて忙しい母と、まだ手のかかる弟のためにもと、この家に引っ越して来た。
当時、夏菜はまだ小学校の1年生だったか2年生だったか。
夏菜より2歳上の弟の良はナマイキ盛りで、叔母の世話になるのも、
夏菜の遊び相手になるのも、しぶしぶという感じだった。
僕はそんな良と夏菜の、保護者の1人になったようなつもりでいた。
友達からの遊びの誘いにもあまり乗らず、恋人と呼べるような人ができても、家の事を優先してしまう。
僕の手の中には、力無く乾いた、それでいて少し温かい、父の手の感触が残っていた。
その手が担うべきだったものを、背負うことに必死だった。
「何か考えてる?」
黙って窓の外を眺めている僕の隣に、夏菜が腰を下ろしながら少し心配そうな顔で訊いた。
「いや、別に。――おまえもコーヒーでいいのか?」
「いいの。飲めるもん」
そう言ってブラックのまま一口啜り、顔をしかめて僕の視線に気付き、
諦めたように砂糖とミルクを入れて少しづつ飲み始めた。
「無理することないだろ」
笑いを堪えながら言うと、足を蹴飛ばされた。
なんとなく、あの頃の自分と、今の夏菜が重なる。
夏菜は大学の学部生を終え、今は翻訳のバイトをしながら大学院に籍を置いている。
リビングの隅に置かれた机は夏菜のもので、僕が帰宅すると大概そこでパソコンに向かっていた。
僕の実家だったこの小さな家は、僕が仕事の都合で一時期借りていたアパートを引き払う前に改装した。
母の部屋だった和室と、広めのダイニングキッチンを続けて一間にし、とりあえずLDKと呼べる部屋になっている。
1階はこの部屋と風呂やトイレなどで占められ、2階の2部屋はそのまま、寝室と僕の書斎になった。
一応書斎などと言っているが、簡単に言えば予備の部屋で、今は1人暮らしをしている良がたまに使ったり、
夏菜がレポートに追われている時にしばらく閉じこもったりしている。
いつか、子供ができたら、そこが子供部屋になるんだろうか。
――いつか、があるというのは、幸せなことだと思う。
「……ねえ」
「うん?」
僕と並んでソファに座り、窓の外を眺めていた夏菜が口を開いた。
晴天の日曜日。窓からは少し冷たい外の風と、どこかで子供の遊ぶ声が流れ込んでレースのカーテンを揺らす。
「ケンちゃん、死ぬのって怖くない?」
「――は?」
唐突に訊かれた言葉に、僕はカップに伸ばしかけた手を止めて夏菜の横顔を見た。
「何だよ、急に。どうした?」
「……どうしたってことでもないけど……。人は皆、いつかは死ぬでしょ?」
まるで小学生の質問みたいだ。
だからと言って、死なないで済む薬ができたらいいねぇ、などと言って誤魔化せるわけもない。
「まあ、人に限らず、生きてるものはそうだろう」
「どうして、死ぬんだろうね。皆、いつか死ぬって分かってて、どうして生きていられるんだろう」
どうして。
それは、父が亡くなった日の夜、母が呟いていた言葉だ。
意識も無く機械に繋がれていた父の前で、母が泣くことはなかった。
父の会社の人や、病院や保険関係の人とやりとりをし、気丈に振舞っていた。
冷たく、動かなくなった父が無言で帰って来た家の寝室で、1人、枕元に座ってその言葉を呟いた。
『……どうして……』
それだけ言ったきり黙り込んだ母の背中が震えているのを見て、僕は自分の部屋に戻った。
良はまだ叔母の家にいて、僕と母は2人、別々の部屋で1人で泣いた。
この家に越して来て、この窓から外を見て、母は、何を想っていただろうか。
「おまえは、死ぬのが怖いか?」
「……うん。怖いよ。まだ死にたくない。ケンちゃんとも、家族や友達とも、離れたくない」
「そうだな。皆、そう思って生きてるよ」
「時々ね、すごく怖くなる」
「どんな時?」
「んー……。ケンちゃんが寝てる時」
「俺が?」
「うん。もしケンちゃんが死んじゃったらどうしよう、って」
「まだ殺すなよ」
そう言って笑うと、またしてもケリが飛んで来た。
「じゃなくて! ……ケンちゃん、絶対、あたしより先に死なないでね?」
それはどうだろうか。
日本人の男女の平均寿命から言っても、僕らの歳の差から言っても、確立的には僕が死ぬほうが先だろう。
しかし、先のことは分からない。
分からないから、生きていける。
「そりゃ……約束できるもんじゃないってのは、分かってるだろ?」
「……うん。そうなんだけど……。ケンちゃんが死んじゃったら、イヤ」
「俺はおまえが死ぬほうがイヤだけどな」
「……そう言わないと怒ると思って言ってるでしょ」
「うん」
3度目のケリは、さすがに防御した。
「こればっかりは、どうしようもないよ。生き物の生死は、地上でどうこうできるもんじゃないし、するもんじゃない」
「地上で?」
「そう。――俺は別に、宗教らしいものは何もやってないけどさ。
何か、人の手の届かないところで、全部決まってる気がする」
「天国、とか、神様、とか?」
「まあ、そうかな。漠然とだけど。生き物が生まれるのも死ぬのも、本当はすごく自然なことなんだ。
それはきっと、永遠に変わらない。最初から作られたシステムじゃないかと思う」
システム、という言葉がまずかったのか、夏菜が少し腑に落ちないような顔をする。
その頭を軽く撫でて、窓の外に目を向けた。
日毎に強まっていくような日差しは小さな庭に降り注いで、タンポポや小さい花達が風に揺れる。
その花は、どこから来たんだろう。
仕事に忙しかった母も、僕も、もちろん良も、このわずかな地面で植物を育てようとは思わなかった。
それなのに、この花達はここにいて、ここで生きている。
どこか知らないところから、風に乗って運ばれて、いつの間にか花を咲かせた。
そして、いつかまた、消えていく。
この花達と、僕ら人間と、何も変わらないのじゃないか。
いや、違う。
「――生まれ変わったら、おまえ、何になりたい?」
「えぇ? ……うーん……やっぱり、人間かなぁ」
「だよな。結構皆そう思ってるんじゃないか? で、それも、決まってるんだよ」
「何が?」
「体は、死ねば終わるよな。動かなくなるし、日本では概ね、焼かれて骨になる」
急に生々しい話になったからか、僕の父の葬儀を思い出したのか、夏菜の表情が曇った。
慌しい用事に追われ、僕が父の死を実感したのは、あの瞬間だったのじゃないかと思う。
父の棺が運ばれていく。
閉ざされた扉を開けることは許されない。
再び父が目を覚まそうとも、もう、そこに還る体は無い。
焼き場まで一緒に来た親戚の人々が言葉少なに控え室に向かう中、僕は黙ってそこに立っていた。
母に促されてその部屋を出たあとも、1人で外に立っていた。
煙突から見える煙。
そこに、父の存在はあるのか。
父は、どこへ行ってしまったのか。
空に融けてどこかへ。天国というものがあるのならそこへ。神様なんてものがいるのなら、その近くへ。
地上に残された僕らは、そう信じるしかできない。
「――でも、心は?」
僕の言いたいことを見越したように、夏菜が問いかける。
その瞳はもう僕を見ていない。小さな庭に揺れる花を見ながら、頭を僕の肩にもたせかけた。
僕は夏菜の右手を軽く握り、その手が温かく柔らかいこと、夏菜が僕の隣でこうして生きていることを、誰かに感謝する。
「……そう、心は、どこへ行くんだろうな。それは今はまだ分からない。誰にも。
分からなくていいんだ。それでもきっと、決まってる」
「何が決まってるの?」
「気休めかも知れないし、何の裏づけもないけどさ。俺は、生まれ変わりってあると思う。
今、この時代に生まれて、おまえと会ったことも、今の仕事をしてることも、この一生が終わったあとのことも、
全部初めから決まっていて……、心は、その先に行くだけじゃないかな」
その先。
体が消えた心は、その先へ向かう。
来世というものがあるのならそこへ。その前に休むべき場所があるのならそこへ。
「今、一緒にこの時代に生きている人達は、皆同じチームなんだ。だから、順番は違っても、皆同じところに行く。
そして、また、同じ時代に生まれて、一緒に生きる」
そうだろう、親父。
待っていてくれるだろう。
僕が守ってきたもの、作ってきたものを、見てくれるだろう?
もう一度笑って、次はどこに行こうかって、話せる時がきっと来る。
「……そっか」
「甘いな、俺」
「そう?」
「うん。ちょっと今自分で、子供っぽいなぁ、と思った。でも、そう思いたい」
「………」
「夏菜?」
「……あたしも、そう思いたい。ケンちゃん、お父さんお母さん、良くんや伯母さん、
友達も、――伯父さんも。皆、また会えるんだね」
「――ああ」
だから、大丈夫。
この手は離さない。
次に出会うのがどんな場所でも、きっと、会える。
またひとつ、風が吹き込んでカーテンを揺らした。どこからか、甘い花の香り。
沈丁花だ。
もう終わったと思っていたけれど、まだ微かに存在を主張している。
――あの夜の公園で、僕と夏菜を取り巻いていた香り。
花は散って、また次の季節を待つ。
そうして、命は続く。
永遠という夢を見て。
その夢は、幻かも知れない。一度死ねば、今ここにある心も、体と一緒に消えるのかも知れない。
永遠という夢は、神様がくれた麻酔だ。
死ぬことの恐怖から、大切な人を失う絶望から、身を守るための。
それでも僕らは、夢を見る。
夢があるから、眠りに就ける。
肩に乗せられた小さな頭が重みを増したことに気付く。
微かな寝息。温かい手。
僕は少し笑って、夏菜の頭に頬を寄せる。
この先何度、こうして寄り添って眠れるんだろうか。
次に出会う世界では、何が僕らを迎えてくれるだろうか。
今は、それを楽しみに生きよう。
僕らが暮らすこの小さな庭に、光があることを、祈ろう――。
〜fin〜
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