走って、走って、駅に着いて、電車に飛び乗っても、
あたしはまだ隆太郎が追いかけて来るような気がしていた。
そんなはずはない。
隆太郎は、麻子が好きなんだ。
血はつながってないし、2人で暮らしていたら、
あんなに綺麗で優しい麻子を、好きにならないはずがない。
『――本気だって言ったら、どうする』
隆太郎の声が頭に響いて、あたしは両手で耳をふさいだ。
泣かない。今は、泣かない。
唇を噛みしめて、降りる駅に着くと、ドアが開くのももどかしく電車から駆け降りる。
改札を抜けると、雨が降っていた。
あたしはバスを待たずに、そのまま歩き出す。
傘を差して歩く人々が、制服でカバンも持たずに濡れて歩くあたしを時折振り返る。
人混みを抜けて、あたしはやっと泣いた。
頬を伝って地面に落ちて行くものが、涙なのか雨なのか、自分でも分からなかった。
ずぶ濡れで家に着いたあたしは、すぐに着替えてシャワーを浴び、自分のベッドにもぐり込んだ。
誰とも話したくない。1人でいたい。
頭の中ではずっと、隆太郎の声が回り続けている。
あたしの名前を呼ぶ声。引き寄せられた腕の強さ。真っ直ぐに見つめ返す瞳。
雨と一緒に、地面に流れて消えて行けばいいのに。
全部――全部――。
いつの間にか眠っていたらしい。階下から母の呼ぶ声で目を覚ました。
ドアが細めに開けられ、母が顔を覗かせる。
「恵美、お友達来てるわよ。あんたカバン忘れて行ったんだって?」
――多分麻子だ。隆太郎に頼まれて、届けに来てくれたんだ。
「……ごめん、頭痛いから、受け取っておいて」
そう言うと、母は黙って降りて行った。
ドアがきちんと閉まっていなかったらしく、玄関で話す声が聞こえる。
「すみませんねぇ。わざわざ来ていただいたのに」
「いえ。荷物を届けに来ただけですから――お大事に」
――隆太郎!
あたしは思わず起き上がって、すぐにまた布団にもぐった。
隆太郎が来てくれた。麻子に頼まずに、1人で――。
それがあたしの冷え切った体を温め、再び深い眠りへと導いてくれた。
結局あたしは風邪をひいて熱を出し、学校を3日休んだ。
久しぶりに教室のドアを開けると、振り返った麻子と目が合う。
『おはよう』とあたしが言うより前に、麻子が席を立って駆け寄って来た。
「恵美、もういいの? 大丈夫? 熱は?」
あたしの手をつかんで、額に手を当てる。
その勢いに教室のみんなも、あたしも、一瞬虚をつかれた格好になった。
「だ、大丈夫。もう全然元気。ごめんね、心配かけて」
「ううん。――やっぱり、疲れてたのね。無理してたんでしょ」
「そんなことないってー。ちょっと雨に当たっちゃって。今日からバイトも出るし」
「何言ってるの、まだ駄目よ。今日は真っ直ぐ帰って。どうせもうすぐ試験だし、
終わったらまたお願いね」
ふわり、と微笑む麻子を見ていたら、病み上がりのぼーっとした気分も、
胸の中のもやもやも、消えていった。
一緒にいて楽なのは、あたしのほうだよ。
ごめんね。勝手に走って、心配かけて。
あたしは漸く、麻子の目を見て笑うことができた。
どうしていつもこの部屋にいるのか、訊いてみたことがある。
一番落ち着くから、と言っていた。
自分の家より、図書室より、なんとなくほっとできるから、
昼休みや放課後、ここに来てしばらく過ごしていく。
まあ、任期が終わるまでだけどな、と笑っていた。
生徒会室のドアは、いつも半分開いている。
今日の放課後もそれは同じで――壁際に並んだ椅子に座って
1人で窓の外を見ている隆太郎がいた。
試験前だし、他の役員の人もあまり来ないんだろうな。
そう思っていると、隆太郎がこちらに気付く。
「あ、あの――」
この前はごめんね。変なこと言っちゃって。あたしは大丈夫だから。カバン届けてくれてありがとう。
思いつく言葉は、声にならない。
と、隆太郎が小さく笑って
「入れよ」
と言った。
あたしは一歩部屋に踏み込んで、今度こそ言おうと口を開きかける。
その前に隆太郎が立ち上がって、こちらに歩いて来た。
ほんの少し手を伸ばせば届く場所に、隆太郎がいる。
思わず身を縮めると、あたしの肩越しに腕を伸ばして、ドアを閉めた。
そのまま壁際の椅子に戻り、隣の椅子を指して
「座れば?」
と笑う。あたしは黙って部屋を横切り、隆太郎の隣に座った。
「――いつから知ってた?」
「え?」
「多分あれだな。うちに泊まりに来る少し前か。誰から聞いたって……そりゃ1人しかいないか」
あたしは黙って頷く。
「神崎のおっさんだろ。――悪い人じゃないし、いろいろ助かってるんだけど――しょうがねぇな」
「……あたしが知ってると思ってたみたいね」
「だろうな――どっちにしろ、そのうち話すつもりだったけど。俺も、麻子も」
夕焼けの空が、ピンクとも紫とも言えない色に染まっていく。
もうすぐ梅雨も明けて、夏が来るんだな、と思った。
「……どこまで聞いた?」
あたしは、神崎さんから聞いた話を繰り返した。隆太郎は窓の外を見たまま、ため息をつく。
「俺の両親は――俺が小学生の時に離婚した。母親が今どこで何してるのか知らない。
親父はしばらく1人でいたんだけど、そのうち再婚相手を連れて来た。
――俺と麻子が、中2の時だった」
その半年後、麻子のお母さんが亡くなった。脳溢血で、突然だったそうだ。
麻子の両親は駈け落ち同然に飛び出して来て、
お父さんは麻子が産まれてすぐに事故で亡くなっていた。
お母さんは、結婚に反対していた実家に戻ることもできず、1人で麻子を育てた。
だから麻子は、お母さんが亡くなっても、隆太郎の家以外に行くところがなかった――。
「最初から、麻子は遠慮してた。中2でいきなり父親と兄貴ができたって、無理だよな。
誰の前でもにこにこしてて、いつも明るくて――見ていてつらかった」
なんとかして、自分が負担にならないように、家族がうまく行くように、必死だった麻子。
そんな時に、お母さんを亡くしてしまった。自分がこの家の家族だという証を。
「親父は麻子のお袋さんを――まあ、俺の母親でもあるけど――すごく大事にしてた。
だから、当然麻子のことも、ちゃんと引き取って育てるつもりでいた。
でも、麻子は――中学を出たら、働いて1人でやっていくとか言い出した」
無理もないような気がする。たった半年。
自分がいたら、優しくしてくれる新しい家族の負担になると考えたんだろう。
「まあそれは――説得して、高校に行くことになったんだけどさ」
「ちょっと待って」
「ん?」
「さっき『俺と麻子が中2の時』って言ってたよね。――隆太郎が中2なら、麻子は中1じゃないの?」
一瞬表情を強張らせた隆太郎が、苦笑する。
「おまえ、鈍いのかと思うと変なとこで鋭いよな――俺と麻子は同い年だよ。
俺が9月で、あいつが11月生まれだから、一応俺が兄貴ってことになるけどな」
驚いた。じゃあ、麻子はあたしよりひとつ年上だったんだ。
「どうして――」
「……まあいいか。麻子のお袋さんが亡くなったのが、中3の春だった。
で、受験する、しないでもめて――結局、その年は見送ったんだよ。
――精神的な負担も大きかったらしくて、一時期体調も崩してた」
「それで、次の年に高校に行くことにしたの?」
「うん。俺と同じとこならいいだろって、さ」
その言葉が、胸に刺さった。麻子にとって、隆太郎が一番の支えだったんだ。
「そう」
小さく頷いたあたしを、隆太郎が見つめていた。
「おまえ、この前変なこと言ってたよな。俺が麻子のことを好きだとかなんとか」
「……違うの?」
「なんでそんなこと……ああ、やっぱり聞いてたのか」
「――気付いてたんだ」
「そんな気がしてた。見えたわけじゃないけど。おまえのいるところは、見えなくても分かる」
どうして、そんな、泣きたくなるようなことを言うんだろう。
「正直言って――そう思った時もあった。……あんまり痛々しくて、
麻子が高校に入る頃に言っちまった。
『俺が守ってやる。兄貴としてだけじゃなく、おまえが望むなら、男として』」
息を呑んで見上げたあたしに、隆太郎はいたずらっぽく笑った。
「まあ、勢いだな。――でも、すぐに分かった。こいつは妹だって。
麻子に彼氏がいるのを知っても、なんともなかったよ」
「か、彼氏!?」
「あれ、知らなかったか。いるんだよ」
「ええ! ほんとに? 誰? あたしの知ってる人?」
「さあねぇ。それは麻子に訊けよ」
意地悪く笑う隆太郎に、あたしは久しぶりに体の力が抜けるのを感じた。
「――ほんとに、麻子のことは妹でいいの?」
「いいも悪いも、俺達は兄妹だよ。それだけ。――納得した?」
「……うん」
「そりゃ良かった」
おどけて言う隆太郎が、少し顔を寄せて来た。つい反射的に体を引いてしまう。
「おまえなぁ」
「え、だ、だって」
「だっても何もあるか。やっぱり鈍いんだよな、こういうことは。
おまえが泊まりに来た時だって、麻子がいなきゃそのまま俺の部屋に連れ込んでたぞ」
ど、どーしてすぐこういうことを言うかな、この人は!
ふくれて睨みつけるあたしを真っ直ぐに見つめていた隆太郎の瞳が、優しく細められた。
多分、あたしも笑っているのかも知れない。
そう思った時、隆太郎の唇が、あたしの唇を掠めた。
「えっ……」
「イヤか?」
て、言われたって……なんて返事すればいいのよ。
「俺が、嫌いか?」
あたしは慌てて首を横に振った。嫌いになんてなれない。
この瞳から、目をそらすことなんて、できない。
2度、3度、確かめるように軽く触れて、ゆっくりと押し当てられた唇から、背中に回された腕から、
隆太郎の体温が伝わって来て――あたしは、そのまま、目を閉じた――。
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