チッチッチッという軽い音が聞こえる。
カーテンを透かして入ってくる外の灯りに、部屋の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
――空気が違う。
あたしは違和感を感じて、布団の上に起き上がった。
そうか、麻子の家だ。
あの後、麻子はコンビニで急遽あたしの下着やら歯ブラシやらを買って来てくれて、
軽くシャワーを浴びさせてもらったあたしは、
麻子の部屋に敷かれた布団に倒れ込んでそのまま眠ってしまった。
隆太郎はというと、家に着くなりあたしを麻子に渡して、1階の自分の部屋に入ったきりだ。
社長の家というからものすごい邸宅を想像していたけど、思ったより普通の家。
1階が、広いLDKと水周りに、隆太郎の部屋。
2階に麻子の部屋と、他に2つくらい部屋があるようだ。
リビングから2階の廊下が吹き抜けになっている他は、あまり豪華な感じはしなかった。
――ここに、2人で暮らしているんだ。
隣のベッドに麻子の姿はない。
さっきから音を立てて時間を刻んでいる時計を見ると、午前1時を過ぎていた。
なるべく音をたてないように部屋を出て、廊下を進むと灯りが見える。
リビングに誰かいるらしい。
廊下から見下ろすと、ソファに1人で座って雑誌をめくっている麻子がいた。
ゆったりしたワンピースを着て、長い髪をゆるくひとつに編んでいる。
細く白い指で雑誌をめくる様子は、映画のワンシーンみたいだった。
……レベルが違うよなぁ。寝惚けた頭でそう考えて、声をかけようとした時、リビングのドアが開いた。
「あれ、起きてたのか」
パジャマ姿の隆太郎が、タオルで頭を拭きながら入って来る。
「うん。勉強終わったの?」
勉強。そうか、一応この人受験生なんだっけね。
「とりあえずな。……あいつは?」
「恵美のこと? 寝てるわよ」
あたしは慌てて首をひっこめた。――覗く気はないけど、声もかけづらい。
隆太郎はそのまま歩いていって、麻子と対角の3人がけのソファの真中にどさりと腰を下ろした。
「……あのさ」
「なぁに?」
「おまえ、あんまり無理すんなよな」
「仕事?」
「そう」
「大丈夫よ。結構慣れてきたし、恵美もいてくれるし」
いや、あたしがいても役に立ってるのかどうか。
「……まあな。おまえが言うのも分かったよ」
「……恵美が必要だってこと?」
「うん。そうでもなきゃ、参ってたろ」
「かもね」
そうなんだろうか。少しは麻子の支えになれているなら、嬉しいけど。
「まあとにかく……心配してたからさ」
「恵美が?」
「うん。あ、俺が言ったって言うなよ」
広げた雑誌で顔の下半分を覆うようにして、麻子がくすくす笑う。
――綺麗な上にここまで可愛いってのは、世の中不公平なもんよね。
あたしがこっそりため息をついて立ち上がろうとした時、麻子の声が聞こえた。
「リュウ」
「うん?」
「前に言ってたあれ、冗談よね?」
半分からかうような、どこか確かめるような色を帯びた声。
「――本気だって言ったら、どうする」
隆太郎の低い声に、あたしの胸が音を立てた。
――しばらくの沈黙。震え出す右手を左手で押さえて、息を呑む。
「あら」
それを破ったのは、麻子の明るい声だった。
「あんたにしちゃ気の利いたこと言うじゃない」
隆太郎は喉の奥で『けっ』という声を立てて、ソファの背もたれにあお向けにひっくり返った。
右手の甲を額に当てているので、どんな顔をしているのか分からない。
「……冗談に決まってんだろ」
麻子は相変わらずくすくす笑っている。
隆太郎がはずみをつけてソファから立ち上がった。
「さて、俺は寝るぞ」
「うん。おやすみ――あ、そうだ」
「……今度はなんだよ」
「あたし、もう少しここにいるからさ」
「寝不足はお肌に悪いぞ」
「なんなら、恵美の寝込み、襲って来たら?」
な、なんてこと言うのよ!?
あたしは1階に降りたものか、麻子の部屋に戻ったものか、1人でおたおたしていた。
渋い顔で振り返った隆太郎は一言
「くだらねぇ」
と言うと、リビングを出て行く。
麻子は軽く肩をすくめて笑うと、雑誌に目を落とした。
静かに廊下を戻って、麻子の部屋に入る。
布団にもぐり込んだあたしは、何故か少しだけ泣いた。
今日、梅雨入り宣言が出された。
バイトにもだいぶ慣れて、なんとか麻子の足手まといにはならずに済んでいるのじゃないかと思う。
――これといった変化もなく、6月は過ぎて行く。
麻子は前よりは早く帰れるようになり、あたしもあまり遅くまでいないので、
隆太郎が来る前に1人で帰る。
……意図的にそうしているのかも知れないとは、思っていた。
勘の鋭い麻子と隆太郎がそれに気付かないわけもなく、何かあったのかと訊かれたりもした。
別に何も。
その言葉に嘘はない。
ただ、隆太郎の冗談にむきになって言い返したり、麻子と2人で隆太郎をからかったり、
そういうことが、最近なんだかうまくできなくなっていた。
「恵美」
仕事を終えて帰り支度をしていると、麻子が話しかけてきた。
「もう少しでリュウも来るし、たまには一緒にご飯食べて帰らない?」
「……う〜ん、今日は、やめとく。……また今度」
「……恵美」
困った顔で麻子に見つめられると、こっちも困ってしまう。
「あたしね」
ひとつ息を吸い込んで、ゆっくりと吐いて、麻子が続ける。
「恵美に甘えてしまっているから……もし、負担に思うことがあったら、言ってね」
あたしに甘えてる? 麻子が? そんなことってあるんだろうか。
「どうしてかなぁ。恵美といると、とても楽なのよ。もちろん、仕事の上で助かってるっていうのもあるし」
「いやあ、あたしなんて全然役に立ってないんじゃないかと思うけど……」
「とんでもないわ。……恵美、去年の文化祭で実行委員やってたでしょ?
その時から、この娘はきちんとした娘だなって思ってたのよ。――こう言うと、仕事の相手を探してた
みたいに聞こえるけど、こうやって一緒にやってくれる人が必要になって、
恵美しかいないって思ったの」
……そうなのかな。あたしは、お祭り騒ぎが好きだから委員になったようなもんなんだけど。
「……ありがとう。少しは役に立ててるなら、嬉しい」
そう言って笑ってみせたけど、麻子の表情は晴れなかった。
「……違うの。あたしね、……もう分かってると思うけど、この会社であまり歓迎されてないから……
恵美に一緒にいてほしかったの。それが甘えだって、分かってるんだけど」
『そうでもなきゃ、参ってたろ』隆太郎の言葉を思い出す。――麻子が。こんなに綺麗で
なんでもできる麻子が、あたしを必要としてくれてたんだと思うと、胸の奥が暖かくなった。
「……ありがとう。大丈夫、あたしこの仕事も、麻子も好きだから。
最近ちょっと……ついてないことが多かっただけ」
「リュウは?」
「……えっ……?」
「リュウのことは?」
「いや、うん……思ったよりいい奴だと思う。それだけ。じゃ、ごめん、今日は急ぐんだ」
ごめん。
あたしはそこから逃げるように、社長室のドアを開けた。
それから数日後。雨はかろうじて上がって、どんよりと曇った肌寒い日。
バイトも、美術部の部活もない日。あたしはたまには早く帰ろうかな、と
友達の誘いを断って校舎を出た。
1人で門をくぐって、横の壁にもたれる隆太郎に気付いた時も、そのまま通り過ぎた。
隆太郎だってここの生徒なんだから、いても不思議はない。誰かを待っているのかも知れないし。
「――恵美!」
だから、あたしの名前を呼ぶ声が隆太郎のものだと、最初は思えなかった。
「おい、待てって」
追いついて左の腕をつかんだ隆太郎に、あたしはぎこちなく笑いかけた。
「え、何? どうしたの?」
「どうしたのじゃねぇだろ。おまえのほうがどうしたんだよ。会社で誰かに何か言われたのか?」
「……ううん。そんなことないよ?」
「じゃあ、なんなんだよ。おまえこの間から俺のこと避けてるだろ。
……麻子も変だって言うし、いったい何があったんだ」
「あー、ごめんね。あたしすぐ顔に出ちゃうから。ちょっと嫌なことがあっただけ」
「嫌なことって」
「うーん、プライベートだから。たいしたことじゃないよ。すぐ元気になるから。ごめんね」
そう言うと、そっと隆太郎の腕を外して歩き出す。
――謝ってばかり。ごまかしてばかり。
こんなの嫌。あたしは、好きなのに。大切なのに。麻子も――隆太郎も。
ふいに、あたしの腕が強い力で引っ張られた。
そのままよろけて、広い胸にぶつかった。
あたしのカバンが地面に落ちる。
――隆太郎に抱きしめられていると気付いた途端、
風の音も、車の音も、自分をごまかす言い訳も、消えた。
どうして――どうして――その言葉だけが頭の中を回り続ける。
しがみついてしまいそうな両手を、きつく、きつく握り締めて息を詰める。
やがて、隆太郎があたしの肩を両手でつかんで体を離した。
「恵美、俺――」
「……どうして」
「え?」
「どうしてよ! 隆太郎は、麻子が好きなのに!」
隆太郎の顔が、さっと青ざめた。あたしの肩をつかむ手から力が抜ける。
「おまえ――」
その先の言葉を聞かずに、あたしは駆け出した。
――隆太郎は、追いかけては来なかった。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||