土曜日の午後。
書類の右上に会社の判を押しながら、奥の机に向かう麻子の横顔を見つめる。
メタルフレームの眼鏡。後ろでひとつに束ねた髪。
学校帰りでも会社で私服に着替える麻子は、今日もライトグレーのスーツを着ていた。
とても高校生には見えない。
慣れた手つきでパソコンのキーボードを叩き、時々ペンの先をこめかみに当てて考え込む。
この姿を学校のみんなに見せたらどうなるだろう。――ファンが増えるだけよね。
ぺったん、ぺったん、と判を押す音を響かせながら、あたしはぼんやりと考えていた。
――結局、麻子の家の事情は聞き出せていない。
そりゃ、そんなに簡単に話せることじゃないけど、この会社のことや、隆太郎と兄妹ということは
クラスのみんなには話してないんだし、もう少し信用してくれてもいいのにと思う。
あたしはそこまで、2人にとって近くなかったのかな。
ぺったん、ぺったん、という音が、べっ! という音に変わってあたしは手を止めた。
……勢い余って、下のマットに判を押してしまった。
のろのろと雑巾を取りに行くあたしに、麻子が顔を上げる。
「どうしたの? 恵美。なんか悩み事?」
「……いやー、そんなことないっスよ……」
いかん、秘書のセリフじゃないわ。
「いえ、何でもありません、社長」
にっこり笑ってみせる。
「なぁに、それ」
麻子が笑い出す。
「ちょっと秘書っぽかった?」
あたしはスーツなんて持ってないけど、一応ブラウスにタイトスカートで出勤していた。
肩にかかるくらいの癖っ毛をまとめてくるとか、少しは化粧でもしてくるとか、したほうがいいのかな。
そう言ってみると、麻子が苦笑した。
「いいわよ、そんなの。あたしはいろいろまわりの目もあるけど――」
そこまで言って口を噤む。
まわりの目って、あれか。社長の実の娘でもないのにとか、そういう人もいるんだろうな。
――でも、それは訊けない。
「ま、あたしはお得意様に会うわけでもないしね。お茶淹れようか」
そう言って立ち上がると、麻子はほっとしたように笑った。
麻子か隆太郎のほうから話してくれるまで、余計なことは訊かないと決めたんだ。
――余計なことも、考えないようにしないと。
「でも、恵美、やっぱりちょっと変よ。リュウと何かあった?」
あたしはあやうく紅茶のポットをひっくり返しそうになった。
「な、何かって何よ。何があるって言うの」
「さあ?」
そう言って微笑む。
……あいつ、あたしのこと何か言ってたのかしら。
「ねえ、何か話したの?」
「何を?」
「だから、隆太郎と――」
「俺と?」
「うわわわわわっ!」
いきなり頭の上から降って来た声に、あたしは飛び上がった。
「おまえ、色気ねーなぁ。もうちょっとこう、きゃー、とか、いやー、とかさあ」
「い、いつからいたのよっ!」
「今。ドア開いてたぜ?」
確かに、5月の風が気持ちいいからと、窓とドアを開けていたんだ。それにしても。
「びっくりするじゃない!」
「そりゃすいませんねぇ。縮むのは身長だけでいいってのに、寿命まで縮めちまって」
「あたしの身長がいつ縮んだってのよ!?」
「あれ? 縮んでない? あー、俺が伸びたのか?」
「仕事中なんだから、邪魔しないでよ!」
「俺も仕事しに来たんですがね。お茶なら僕が淹れましょう」
と言って、あたしの手から紅茶ポットを受け取る。
――その骨ばった大きな手に、あたしの心臓がひとつ鳴った。
麻子が眼鏡を外して、ため息をついて隆太郎を見上げる。
「相変わらずねえ。リュウもあんまりやると、恵美に嫌われるわよ」
「とっくに嫌ってるわよ」
「あ、そーいうこと言う? 今日はせっかく誘いに来たってのに」
「……仕事しに来たんじゃないの」
『誘いに』という言葉に反応しないようにしながら、ふくれてみせる。
「だから、早いとこ終わらせて出られるように、手伝いに来たんでしょうが」
言いながら、紅茶のカップをテーブルに並べる。……なんだか器用なのよね、この人。
「ああ、そうか。今日なら出られそうだものね」
麻子も心得たように笑っている。
「だろ? やっと少し落ち着いたもんな」
……やっぱり、この2人の間の空気にはなんとなく入れない。
兄妹って言っても、血はつながらないんだもん。
麻子のお母さんは亡くなってるし、隆太郎のお父さんは行方不明だし――。
「恵美?」
「え、何?」
「やっぱり変ねぇ。疲れてるんじゃない?」
心配そうに顔をのぞき込む。――いけないいけない。心配かけたいわけじゃないんだから。
あたしは笑って首を横に振った。
「ま、そんなわけで」
どんなわけだか、隆太郎が、ぽん、と膝を打つ。
「日頃お世話になっているうちの社長秘書さんの、歓迎会を開こうかと思いまして」
「前から相談してたのよね」
「忙しかったからな。遅くなったけど、今日は奢ってやる。感謝するように」
「……限りなく偉そうですね、先輩」
「偉いから。場所はアレだ、この前できた――」
「トラットリア・トッツィーノ?」
麻子が、最近近くにできたレストランの名前を挙げる。え、ほんとに? あんな高そうなとこ?
「……じゃあ、せっかくだから、行かせていただきます」
すまして言ったのに、口が笑ってしまっていた。麻子と隆太郎が同時に吹き出す。
「おまえ、ほんとに、可愛くねーな」
イタリアンだかフレンチだかよく分からないけど、料理はおいしかった。
あたしと麻子は仕事中の格好だし、隆太郎は珍しくジャケット姿だ。
……これじゃ、この2人があたしの保護者みたいじゃないのよ。
そう思っていたのに、あたしの前のグラスにも、麻子と同じ白ワインが注がれた。
「え……お酒?」
「大丈夫よ、少しくらい。軽めのやつだしね」
麻子はそう言って笑うと、あたしのグラスと軽く合わせてからワインを口に含む。
真似してそうっと飲んでみると、思ったよりおいしい。飲んだあとで喉の奥が少しかーっと熱くなった。
隆太郎はほんの数口でワインを飲み干してしまい、ウエイターに何か頼んでいるなと思ったら、
ほどなくしてテーブルに水割りのグラスが運ばれてきた。
「……いいんですか、会長」
「いいんですよ。ワインなんか飲んだ気しねーし」
飲んだ気って、あなた一応高校生じゃないんですか。
まあいいか。あたしは最近ずっと心の中に溜まっていたことを忘れて、
おいしい料理と2人との時間を楽しんでいた。
……楽しみ過ぎたかも知れない。
店を出る頃には、あたしは放っておくとあっちへふらふら、こっちへふらふらの千鳥足状態だった。
「……そんなに飲んでないんだけどねぇ」
「そんなにもこんなにも、たった1杯だぜ? こいつなんでこんな弱いんだよ」
それで、あなたはなんでそんなに平気なんですか?
隆太郎が腕を取って支えてくれているおかげで、なんとか歩けている。
――補導されないといいんだけど。
やっぱり、大きな手。そうか、あの時電車の中で足に当たってたのはこの手じゃなかったわ。
ただの荷物かなんかだったんだ……何を考えてるのよ、あたしは。
「恵美、大丈夫?」
「うん、大丈夫!」
「……じゃ、なさそうね」
大丈夫だってばー。信じてよー。
「これじゃお家の人が心配するわ。恵美、今日はうちに泊まっていってよ」
「大丈夫だよ?」
「はいはい。あたし恵美の家に電話して来るわ。リュウ、ちょっとお願いね」
「ああ」
ああって……麻子の家に泊まるってことは、隆太郎の家に泊まるってことで……ええ?
あたしは思わず隣の隆太郎を見上げた。
電話をかけに行った麻子のほうを向いたまま、その表情は変わらない。
あたしの腕を支えてくれている手だけが、場違いなほど温かかった。
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