電車の窓から見える桜並木が、葉桜に変わってきた。
ドアにもたれて外を眺めていると、あったかくて眠くなる。
高校2年の春。
学校にも慣れて、受験にはまだちょっと間があって、あたしはのんびりと欠伸をした。
もうすぐゴールデンウィークかあ。そしたら、少し寝坊できるかな。
早起きは苦手。できれば自然と目が覚めるまで寝ていたいのにな。
そんなことを考えていると、ふと、足に何かが当たった。
足と言うか、腿だな、これは。
いや、そんなこと考えている場合じゃなくて。
何が当たっているのか分からない。カバンのような気もするし、手のような気も……って、手?
マサカ、コレハ、アレじゃないですか?
そう言えば、同じクラスの梨佳が騒いでたっけ。
7時45分発の3両目には痴漢が出るとかなんとか――ちょっと待て、3両目?
あたしは顔を上げ、混んだ車内で隣に立った人を見上げた。
男だ。そう思った途端、頭にかぁっと血が登る。
「やめてよ! 痴漢!」
ざわついていた車内が、しん、と静まって、周りの注目が集まるのが分かる。
あたしはますます顔が熱くなった。とにかく隣の男を睨みつける。
「は? ……俺?」
自分の鼻を指してとぼける相手を睨んだまま、はっきり頷いた。
背が高い。意外と若いんで驚いた。……この制服……うちの生徒!?
「……俺じゃねぇよ」
怒るでも笑うでもなく、冷たく見下ろしたままでそう言う。
「じゃあ誰よ!」
「知るかよ。本当に痴漢なのか?」
「そうよ! 今まで触ってたじゃないの!」
「どこを」
「どこって……足って言うか、腿って言うか」
「……俺、こうしてたんだけど」
と言って、両手を挙げてあたしの頭の上にある手すりをつかんだ。
……そう言えば、なんかその辺に人の腕があったような、なかったような……。
そのうち電車は駅に着き、あたしも彼も押し出されるままにホームに降りた。
じゃ、なに? あたしの勘違い? いやでも確かに何か触ってたんだけど。
知らん顔で歩き出すその男の上着の裾を、思わずつかまえる。
「ちょっと、待ってってば!」
「なんだよ。まだ疑うってのか?」
「だって、本当に何か触ってたんだもん!」
「何かって、何だよ。誰かの荷物かも知れないとは思わないわけ」
「う。それは……そうかも知れないけど……」
「第一、俺にだって選ぶ権利はある」
「な、何よそれ、失礼じゃない!」
「どっちがだよ。第二に、足なんか触って何が面白いんだ。俺なら胸とか尻とかしっかり触るね」
「……」
口を開けて見上げるあたしを、呆れたように見下ろしてため息をつく。
「痴漢なんてもんやるとすれば、だよ。そんなくだらねぇことやる気はない。
第三に、あんたの足に触るには、俺はあの狭い電車の中で屈まないとならない。
……文句があったら生徒会室に来い。遅刻するから俺は行くぞ。じゃぁな」
立て板に水。
そんな言葉を連想させるほど言いたいことを淡々と並べると、足早に改札に降りて行ってしまった。
あたしが、自分の遅刻の心配をして走り出さなければならないと気付いたのは、
たっぷり5分以上ホームに立ち尽くしてからだった。
結局HRに担任が来るぎりぎりに、あたしは教室に滑り込んだ。
駅の痴漢男と同じくらい冷たく見つめる担任に愛想笑いをして、息を切らせて席に着く。
隣の席の麻子が、口の動きだけで『おはよう』と言って笑う。
へへっと笑い返して、あたしは今朝も、やっぱり麻子って綺麗だなぁと感心していた。
少し栗色がかった長い髪を、耳の後ろで2つに束ねている。
それなのに、全然子供っぽくならず、大人の女の人の可愛らしさがある。
切れ長の瞳も、すっきり通った鼻筋も、小さめの唇も。
朝の陽射しに横顔を縁取られた麻子は、そのまま一枚の絵になりそうで……あたしはいつも、
麻子がいるのはこんながちゃがちゃした教室じゃない、という気がしていた。
あたしもあんまり今時の女子高生じゃないんだけど……逆の意味で。
『俺にだって選ぶ権利はある』
ふと、さっきの痴漢男の言葉が浮かんだ。えーえ、そうでしょうとも。
どうせこんなチビガキの足になんか、触っても楽しくないでしょうよ。
あたしだって、もっとすらっとして、付くべきところにお肉が付いて、
麻子みたいな美人だったらどんなに……。
「恵美? なんかすごい顔してるわよ」
ふわり、と漂ってきたいい匂いに顔を上げると、麻子が小首を傾げてあたしの顔を覗き込んでいた。
「え、あ、そうかな」
なんであたしがドキドキしなきゃならんのよ。
まあでも、同級生はもちろん1年から3年まで、月に2〜3人は麻子に『アタック』してくるのも分かる。
「ねえ、麻子って本当に彼氏いないの?」
「……何よ、いきなり」
とりあえずこの学校にはいないみたいだけど、こんな美人が独りでいたら、
そんな美人でもないあたしはどうなるのよ。
「いや、麻子にいなかったら、あたしはどうなるのかなーと……」
「恵美、彼氏ほしいの?」
「じゃなくて。……ってまあ、ほしいけど。あたしそんなにブサイクかなー」
「何言ってんのよ。あんたは可愛いわよ、ほんとに」
「そう、ありがと」
「あら、信じてない。あたしがお世辞言うと思う?」
確かに、麻子はそういうこと言わないと思うけど。でもなー。
あたしは今朝のできごとをぽつぽつと話し始めた。
その男が最後に『文句があったら生徒会室に来い』と言ってたことを話すと、麻子が眉を上げた。
「……生徒会室?」
「うん。まあ、今となっちゃ、あたしの勘違いだったかなぁという線が濃厚だし、
悪いことしたかなーとは思うけど、そこまで言うことないんじゃないかと思うのよね」
「ふーん。生徒会室、ね」
意味ありげに笑う。
「何? 麻子、心当たりあるの?」
「あったらどうする? 会いたい?」
「……ような気もするけど……またハゲシク罵られてしまいそうだからヤダ」
「大丈夫。恵美は可愛いわよ。自信持ちなさいって」
「……アリガトウゴザイマス」
その日の昼休み。お弁当を食べ終わっておしゃべりをしていたあたしは、
廊下から手招きをする麻子に気付いた。
なんだろうと出て行くと、そのまま人の少ない階段のそばまで引っ張って行かれる。
「な、何?」
「――ちょっと、頼みがあるんだけどな」
「なんでしょう?」
「恵美、バイトしない?」
「……バイト?」
あたしの袖をつかんだまま、笑顔で言う麻子。
でもなんか、これって、ヤバそうなお話じゃないんですか?
「バイトって……なんの」
「そんなに怯えた顔しないでよ」
「だって、アレじゃないの? バイシュンとか、エンコーとか……」
一瞬目を丸くした麻子が、思い切り吹き出した。
いいなぁ、美人ってのは。吹き出そうが欠伸しようが美人なんだもんな。
「あのねぇ、あたしってそういうの斡旋してるように見えるの?」
「いや、そうじゃないけど……いきなりバイトの話なんてするから」
「う〜ん、ちょっといきなりになってしまう訳があるんだけどね。
平日は週に3日くらい、学校が終わってから夜7時くらいまで。あと、土曜日に一日と、
夏休みとかにはなるべく出てくれると助かるかな」
「なんの仕事?」
「まあ、あたしの手伝いをしてほしいんだけど」
「麻子の? なんかバイトしてんの?」
「あたしのは、まあ、バイトかな。恵美に頼みたいのとはちょっと違うけど」
麻子にしてはなんだか歯切れが悪い。怪しむなって言われても、怪しいと思うわよ、これは。
「……だから、なんの仕事か分からなきゃ返事できないってば」
「とりあえず、安全。なんなら恵美のお母さんにはあたしから頼んでもいいし、
帰りはちゃんと送って行くし」
いやだから、ますます怪しくしないでほしいんですけど。
あたしが心持ち体を引いたのに気付いたのか、麻子が苦笑する。
「ま、大したことじゃないのよ。恵美にやってほしいのは、社長秘書なんだけどね」
……社長、秘書?
あたしはあまりと言えばあまりに自分に似合わない言葉に、
困ったように笑う麻子をただ見つめていた。
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