寂しさの鎖
人は弱い。
自分で思うよりも、他人から見えるよりもきっと。
一番ひどいイジメに遭っていた小学校6年生の頃。
クラスの中でも中心的なグループの女の子達が仲間割れを起こした。
いつも元気で明るくて、何でもできる女の子2人が、言い合いをして、泣き出した。
どこのグループにも入っていない、1人で泣くだけだった私は、ただびっくりしてそれを見つめていた。
きっかけは何だったのだろう。今でも分からないし思い出せない。
放課後の教室の真ん中で、堰を切ったように泣きじゃくる彼女達の口から、いろんな言葉がこぼれ出た。
「本当はこう思っていた」
「あの時こうしてほしかった」
「いつも、こう言われるのが嫌だった」
クラス全員が遠巻きに見る中で、ぶつけ合う言葉は徐々に弱まっていく。
あとはだた、涙が治まるまでの「ごめんね」の繰り返し。
ああ、人は、こうやって生きていくのかなぁ、と、幼い頭で考えた。
人は、寂しい。
どこかに様々な形で寂しさを抱えている。
いつかどこかで誰かに受け入れられなかった寂しさを、他の誰かにぶつけることで昇華する。
そしてそれはまた、違う誰かにぶつけられていく寂しさに変わる。
私を泣かせて楽しんでいたように見えた彼女達も、寂しさを抱えていたのかも知れない。
私もまた、それを誰かにぶつけて、誰かを傷付けていたのかも知れない。
寂しさの連鎖は続く。簡単には切れない鎖になって。
鎖を繋いでいくことで、人は寂しさから逃げようとする。
誰かがどこかで受け止めない限り、鎖は長く連なっていく。
どうすれば鎖は断ち切れるのだろう。
繋がってぶつけられていくそれを、寂しさだと知ること。
人は弱い生き物だと、自分も他人も寂しいことを恐れる生き物だと、知ること。
ぶつけられた寂しさを他人に投げる前に、向き合って受け止めることができたなら。
そこで鎖は途切れたのかも知れない。
人は弱い。
そして、人は寂しい。
それを丸ごと受け止めることが、鎖を断ち切るひとつの方法かも知れないと思う。
傷付けられた痛みを「寂しい」という言葉で表すことが最初の一歩に繋がるような気がする。
人は弱い。
そして、強い。
鎖を断ち切る強さを、誰でも持つことができる。
自分の寂しさを、他人の寂しさを、そのまま受け止めることさえできれば。
そこから始まる。
あなたも、私も、いつか強くなっていく。
弱さを知ることが、いつか強さに繋がっていく。
寂しい自分を、目の前の大切な人を抱きしめよう。
きっと、もう、大丈夫。
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