夏が終わる。
要の学校も新学期に入り、僕の短い夏休みはどうということもなく過ぎ――。
2人で過ごしたのは、一日のドライブと、五回の昼食と、三回の夕食。
あれから、あまり混み入った話はしていなかった。ただ笑って一緒にいることが、必要に思えた。
それでも――その笑顔と、なんでもない会話の中で、僕と要の距離は縮まることがなかった。
初めに会った頃のような堅さは消えていたし、会話が途切れた時にも、
変に肩に力を入れているような雰囲気はなくなっていた。
僕がそうなりたいと思っていたように、楽に呼吸のできる間柄になっているはずだった。
なのに、あの夜から、僕が要の肩を抱き寄せたあの瞬間から、
2人の間に見えない壁ができているような気がしていた。
同じ会社にいても、どちらかが会おうと思わなければ、会うこともない。
どこかで顔を合わせても、笑って手を上げるくらいで済んでしまう。
僕はその状態に、居心地の悪さを感じ始めていた。
「おまえらさー、どうなってんの、一体」
『単刀直入』兄貴じゃないけど、漢字で浮かんできた。3Dで。
明日の会議に間に合わせるための書類作りに、大西と2人で残業していた。
部屋に誰もいなくなるのを待っていたように、奴は唐突にこう訊いた。
「――どうって、何が」
言いながら僕は、大西と目を合わせないように揃えた書類をホチキスで止めていく。
「まあ、2人のことだからよ、俺が口出すことじゃないんだけどさ。この前とはまた違うじゃんか。
なーんか、互いに遠慮してないか? 何があったか知らないけど、沙姫も心配してたぞ」
「……要のことか?」
「あのなー、他に誰がいるんだっつの! とぼけることないだろーが」
「別に……何もないよ。大体俺達、付き合ってるわけでもないし」
「ああ?」
なんでそんなに驚くんだ。要とは友達だって、前から言ってるのに。
「おまえそれ……本気で言ってるわけ?」
なんだか怒られているような気分で、僕は黙々と書類に取り組んだ。
「自覚がないわけじゃないだろう。どっからどう見ても、おまえ要ちゃんに惚れてるじゃないか」
分かってる。
そんなことは、1年以上前から。
「例の『好きな人』か? 兄貴じゃなかったんだよな。でも、そいつはもう結婚するんだろ?」
だからなんだよ。
それでも、要の気持ちは変わらない。
「おまえに全く脈なしなら仕方ないけどさ、要ちゃん、最近変わったよな」
変わった? 何が。
「なんか、雰囲気が柔らかくなったって言うか。――前は俺にも、沙姫にも、すごく遠慮してたけど、
……気を遣う娘なのは変わらないけどさ、無理しなくなった気がする」
そうなんだろうか。
僕に対してだけじゃなく、人と接することが平気になってきたんなら、それはいいことだけど。
「……それが、どうしてなのか、分かってるんだろ?」
大西の声の調子が変わったのに気付いて、僕はようやく顔を上げた。
「おまえといる時の要ちゃん見てると、俺も沙姫もなんか安心できたんだよ。
あの娘なんか危なっかしいとこあるけどさ――おまえといると、大丈夫そうだって思えるんだ」
どうしてそんなことが言える。
僕は、塚本さんのようにはなれない。
常に先を歩いて、要が迷った時に手を差し伸べてやれるような。
要の言う『正しい世界』を示してやることなんて、僕にできるとは思えない。
「それがどうした」
大西は机を回って、僕の横を通り、窓から外を見下ろしながら言った。
「2人で迷えばいいじゃねーか。一緒に悩んでやればいいだろ。
何が正しいかなんて、誰が決めるんだよ」
決めるのは、要だ。
そして、僕にとって正しいことを決めるのは、僕だ。
「それでいいんなら、俺は何も言わないけどさ――。おまえらもう、2人で動き始めてんじゃねーの?
自分にとって正しいこととは別に『2人にとって』正しいことは、2人で決めるしかないと思うけどな」
2人で――。
僕の隣で笑う瞳。同じ空気を深呼吸した展望台。
何も言わなくても、僕の目を見て頷いてくれること。
その瞬間は、僕個人のものじゃない。要と2人で――。
「でも」
僕はやっとのことで口を開いた。
「俺は、友達として一緒にいるって、言っちまったし――要も、それでやっと無理しなくなったとこだから」
「だからさ」
大西はタバコを取り出しかけて、喫煙所じゃないのを思い出したようにやめた。
「おまえがそれでいいんなら、何も言わないっての。分かってると思うけど、友達として守れる範囲と、
男として守れる範囲は違うからな。――まあ、俺があんまり偉そうなこと言えないけどよ。
あいつをちゃんと守れてる自信はないし……。でも、他の男には譲れねーから、これだけは」
自分の話になるとさすがに照れくさいのか、相変わらず窓の外を見たままでそう言う。
要を守ること。僕にできるんだろうか。――僕が必要だと、思ってもらえるんだろうか。
「友達でい続けるってことは、いつかその位置を、他の男に譲るってことだろ。
おまえは、要ちゃんを他の男が守っても、いいんだな?」
『嫌だ』
その声が頭に響いて、それが自分の声だと気付いて、僕は手を止める。
大西は窓の外を見下ろしたまま、何故か満足そうに笑った。
そうして、ふと上のほうに視線を向けて、軽く舌打ちをする。
振り返って、僕の表情に気付いて、苦笑するとまた窓の外に視線を向けた。
「黙ってようかと思ったんだけどよ。風邪ひかすのもアレだしな」
「風邪?」
「雨降って来たぜ。早く行ってやんないと、傘持ってないんじゃないか?」
僕は窓のそばに駆け寄った。
会社の前の歩道に、要が立っていた。
「俺が残業してる時に気付いたんだけどさ。何度かああやって、一人で立ってたよ。
学校が終わってから、おまえの帰る時間に合うかと思って来たんだろうな。
声かけようかと思う前に帰っちゃってたから、何も言わなかったけど――」
要が顔を上げた。
真っ直ぐに、僕のいる部屋の窓を見上げる。
僕が見ていることに気付いたらしく、両手を口にあてて、慌てて歩き出した。
大西の顔を見ると、口の端で笑って、ドアを指した。
「いいから、早く行けよ。あとはやっといてやる。お礼は随時受付中」
僕は自分の席に走ると、カバンをつかんでドアに向かった。
「悪い――サンキュ」
ドアを閉じる寸前、大西が肩越しに手を振るのが見えた。
細く、柔らかい雨が降っていた。
夏の雨とは違う、まわりの空気も湿らすような冷たさに、本当に夏が終わるんだなと思った。
正面玄関から飛び出して来た僕に驚いて、要は駆け出した。
僕は一瞬迷ってから、追いかけて、ビルの隙間の軒下に要の腕を引いて駆け込んだ。
「――なんで、逃げるんだよ」
前髪から落ちるしずくを払いながら、うつむいた顔を覗き込む。
要の髪も、肩も、すっかり濡れてしまっていた。
ハンカチなんて気の利いたものを持っていたかな、とポケットを探っていると、
要が自分のバッグから小さいタオルを取り出した。
僕の顔を見上げて、少し迷ったあとで、そっと、僕の髪を拭こうと手を伸ばした。
「バカ、いいよ、俺は。おまえのほうが――」
タオルを持った要の手をつかんで、とりあげたタオルで少し乱暴に髪を拭いてやる。
薄いカーディガンを着た腕もぬぐって、自分の上着を脱いで羽織らせる。
その間、互いに一言も口をきかなかった。
「ずっと、待ってたのか」
「……」
「電話でもすればいいじゃないか。なんかあったのか?」
「……用事があったわけじゃないから……」
「じゃあ、どうしてあそこにいたんだ? ――今日だけじゃないんだろ?」
「えっ……」
「大西に聞いた。俺は今日まで知らなかった」
「ごめんなさい……」
「だから、なんで謝るんだよ」
「勝手なこと、したかなって。……何をどうしたいか、分からなかったの。
でも……このまま、平気な顔で一緒にいるのが……つらいの」
「……俺、なんか悪いことしたか?」
「そうじゃなくて……最近なんか、変だなって、思う……」
居心地が悪かったのは、僕だけじゃなかった。
要もまた、この状態に悩んでいたんだ。
そこから逃げていた、僕のせいで。
「……ごめん……」
僕がつぶやいた言葉に、驚いたように要が顔を上げる。
「俺――もう、おまえと友達でいられない。友達として、そばにいるなんて、できない。
おまえが塚本さんのことを好きでも――俺は、おまえが、好きだから」
やっと言えた。
自分に、要に、はっきりと言うことができた。
これを言ってしまったら、友達としても一緒にいられなくなるのが、怖かった。
ようやく見つけることができたあの瞳を、笑顔を、失うのが怖かった。
それでも、自分の気持ちをごまかして、贋物でいることはできない。
「……どうして」
小さい声で呟いて、こぶしで僕の胸をひとつ叩く。
「違うのに。あなたは――尚也は、塚本さんとは違うのに。……隣にいて、笑っていてほしい。
一番近くに、いてほしいって、思った。なのに――」
要の瞳に、涙の膜が張り詰めていく。
それがこぼれる前に、ぎゅっと目を閉じてから続けた。
「なのに、何度も、友達だなんて、言うの。――初めは、嬉しかった。
こんな私と友達になりたいって、話を聞いてくれるって、嬉しかった。
でも、もう――嬉しくない。友達のままでなんて、いられない!」
要が僕の腕に飛び込んだのが先か、僕が要を抱き寄せたのが先か、分からなかった。
僕は今度こそ、両手で思い切り要を抱きしめた。
ごめん、と呟く僕に小さく首を振って、シャツの胸にしがみつく。
もう、逃げない。本物の気持ちから、逃げたりしない。
雨は音もなく、その気配すら消すように、静かに降り続いていた――。
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