『好きな人がいるんです』そう言ったときの声と、僕を見上げた強い瞳を思い出していた。
それを聞いた時から要の気持ちは分かっていたはずなのに、
僕はいつの間にか詰めていた息を吐き出した。
「――そうだよな」
何故か、軽い笑みがこぼれた。
要があんまり、その事に対して負い目を感じているふうなのを否定したいのと――自分への失笑だ。
「……話しても、いい?」
「ん?」
「私の、こと。どうしてこうなったのか」
答えるまでもない。
ずっと訊きたかった。肩をつかんで揺さぶってでも、訊き出したいと思っていた。
――友達としての距離を、壊してでも。
「……嫌じゃなければ。聞かせてほしいけど」
それでも『いい奴』を演じてしまう僕が嫌だった。
その感情を隠すように、笑ってタバコに火をつけることも。
「……私ね、学校に行けなかった」
僕はタバコを口から離して、要の顔を見た。
泣き出しそうな瞳は変わらないけれど、どこか懐かしむような口調で彼女は続けた。
「小学校を卒業する頃からかな――。すごく、甘えてたんだと思う」
それまでは、普通に毎日通っていたんだと要は言う。
卒業を控えた年が明けた頃――突然『行けなくなった』。
行きたくないとかじゃなく、本当に行くことができなかったらしい。
卒業式にも、中学校の入学式にも出られなかった。
同じ学年にそういう子がいれば、クラスが違ってもその話は回っていく。
要はいつの間にか、顔も見たことのない同級生の中で変な『有名人』になっていった。
「これは、信じてほしいんだけど、いじめにあったりしたわけじゃないの。
本当に、通えないのよ、物理的に。
何度か、担任の先生や同じクラスの女の子が家に来てくれて、話はできるんだけど――行けなかった」
そんな娘を心配して、母親は家庭教師をつけることにしたそうだ。
――変だとは思ったんだ。中学生で家庭教師をつけるほどの家なのに、
夜間の専門学校に進ませるというのは。
「うちは、決して裕福じゃないから――高校までしか行かせられない、て聞いてたの。
だから、自分で学費が払えるように昼間バイトして学校に行ってるの」
「会計士になりたいから?」
「……もともと、そういうほうが好きだっていうのもあるけど――お勤めしても、
いつ通えなくなるか分からなくて怖いから。手に職があればそのほうがいいし、
会計士って、個人でもできるでしょ?」
「――高校は、卒業できたんだよな」
「ぎりぎり。中学へは、結局試験の時しか行けなかった。――それも、休みの日に一人で受けたの。
だから、高校は知ってる人のいない遠くの学校にした。……怖かったけど、これから生きてくために
必要だと思ったから、なんとか通ったわ」
「それは――やっぱり、塚本さんのおかげ?」
僕がその名前を口にすると、はっとしたように息を呑んで――何故か、悲しげな瞳で僕を見上げた。
「――いろんなこと、教えてもらったわ」
僕から目を逸らして、空になったグラスを弄ぶ。僕は軽く片手を上げて、2杯目を注文した。
「人と関わることの大切さ。反省することと、自分を否定することの違い――。
どうすれば、人の輪の中で生きていけるか。そのためには何が必要か」
学校の勉強だけじゃなく、要にとって塚本さんは『先生』だったんだ。
僕がそれを言うと、要はやっと微かに笑った。
「今でも、先生って呼んじゃう時があるの。さすがにもうやめてくれって言われるんだけど」
その笑顔が、僕の喉の奥に見えない塊を作る。僕は黙ってそれを飲み込んだ。
「……俺に、似てるって言ってたよな」
どうにも納得のいかない顔をしていたんだろう。要が小さく笑った。
「初めて会った時にね、思ったの。話し方とかしぐさとか――それに、タバコ」
「タバコ?」
「うん。同じ銘柄なの。それでなんか、似てるって思ったから」
国産ではないけれど、別に珍しくもない銘柄だ。同じものを吸っていても、不思議はない。
そんなことまで彼につなげてしまうほど、その想いは強いのか――。
『もうすぐ、結婚するんだろ?』そう言いかけた僕に気付いたのか、少し考えてからこう言った。
「先生が――塚本さんが、私のことを妹みたいに思って、心配してくれてるのが嬉しいの。
彼女になりたいとか、そんなふうには思わない。結婚したい人に出会えて――良かったと思う」
「それで、いいのか?」
「うん。充分助けてもらったもの。今私が元気に働いて、学校に行って、友達ができて。
それを喜んでくれてるだけで、充分なの」
どうしてそんなに、穏やかな顔で笑うことができる。
その腕の傷は、彼とは関係ないって言うのか。
――全部話そうと思う。そう言ったはずなのに、僕にはまだ言えない言葉が残ってしまっていた。
そろそろ帰ろうか、と僕が言って、要がそれに頷いて、店を出た。
昼間の暑さの名残と、土曜日の夜の熱気で、少し空気が重い。
要の家の近くの駅に着くと、しばらく迷ってから僕は言った。
「――少し、遠回りしてかないか? 酔い覚ましにさ」
ちょっとびっくりした顔から、ゆっくりと笑う。その笑顔は、僕に向けられたもの。
住宅地の間を抜けて、割と大きな公園に出る。
手をつなぐでも、腕を組むでもなくこうして歩いているのは、なんだか変な感じだった。
僕はゆっくり歩きながら、ずっと飲み込んでいた言葉を口にする。
「もし、話せたらでいいけど――おまえの、その傷のこと」
足を止めたのは僕のほうだった。
数歩先まで行って、要が振り返る。
黙ったままで見上げる瞳は――どんな色も宿していなかった。
「少しだけど、調べてはみたんだ。そういう行動が、どういう意味なのかさ。
――余計なことだとは思うけど」
静かにうつむいて、微かに首を振る。
笑おうとして笑っている、そんな笑顔で顔を上げた。
「逃げてるのは、分かってるの」
そう言うと、僕の袖をつまんで軽く引いた。歩きながら話そう、ということらしい。
「なんて言えばいいのかな……どうしようもなく、自分が嫌になる時があって、
それでいっぱいになっちゃうの。――学校に、行けなくなったでしょ?
そのことで両親には心配をかけたし、申し訳なく思ってるし――自分が悪いのも分かってるんだけど
『おまえは普通じゃない』って言われるのがつらかった」
僕は、黙っていた。そんなの気にするなと、言いたかった。その細い肩を抱き寄せて、何度でも。
「『普通に学校に行ってくれ』って、言われるたびに、傷をつけていたように思う。
母は私の学校に行ったり、いろんなところに相談したりしてくれてたけど、
父は――私の顔を見ないようにし始めたから。今は、普通に話すけど、
そういうふうに思われてたってことは、消えない」
どう接していいか、迷ってたんだと思う。父親のことを、そう話して笑った。
確かに、母親よりは身近にいられないだけ、接し方に悩みもするだろう。まして女の子なら。
「両親のせいだとは思わない。そうすることに、私が逃げてただけ。分からないと思うけど――
頭の中がいっぱいになって、いくら泣いても消えなくて――そんな時に、こうすると、
すーっと、頭が冷えていくの。なんだ、こんなことかって思えるの。そしたら、誰にも迷惑かけないから」
「――そうしなかったら、誰かに迷惑かけるってのか?」
「ひとりで抑えきれない時もあるから。友達に話したりしても、全部は分かってもらえないけど、
話すと楽になったりするでしょ? でも、そんなに迷惑かけられないじゃない」
……正直に言って、よく分からなかった。
『生きたいから』自分が冷静でいられるように、そういう行動をとるものらしいとは、思う。
それがどうして効果があるのかは、僕には分からない。
でも、そうまでして、なんとか自分で解決しようとあがいていた要の気持ちは分かる気がした。
「このこと、塚本さんには――」
「話してないわ」
そう言うと、ふと立ち止まって僕を見上げる。
「あの頃の私には、あの人だけが『普通の生活』との接点だった。あの人と関わることで、
自分は正しい世界につながっていられると思った。――だから、話すわけにはいかなかった」
「それで、好きだなんて言えるのか? 本当の自分を見せないで、それでいいのか?」
「だから、近くに行こうとは思わないもの。遠くにいて、
私がどうしたらいいかを見せてくれたから、それでいい」
『俺の近くには来るのか?』そう訊きたかった。
――違う。たまたま目に留めてしまっただけだ。要が自分から話してくれたわけじゃない。
「間違ってるとは思うけど、これって、お酒やタバコと同じようなものかも知れない。
それで気を紛らわしてるって、本当はすごく嫌だけど」
「今でも、そういうことはあるのか?」
「……高校の時が一番ひどかったかな。なんとかして学校に行かなきゃと思ってたから。
――今は、自分のために学校に行ってると思えるから、ほとんどない」
「でも、全然ないわけじゃないんだろ?」
「……どうしようもなく、落ち込んだりした時にはね」
「じゃあ、そういう時は俺を呼べよ。迷惑なんかじゃない。話なんか、いくらでも聞いてやる。
――友達だろ。変な遠慮なんかしなくていいよ、俺には」
思わず、たたみかけるように言ってしまった。
そんな単純なものじゃないのは、分かってるつもりなのに。
それでも要は、笑ってくれた。無理に作った笑顔じゃなく、自然に見える笑い方だった。
「――ありがとう」
そう言い終わらないうちに、両方の瞳から一度に涙がこぼれ落ちた。
僕がびっくりして見つめている間に、あとからあとからこぼれて、地面に黒い染みを作った。
「ごめん、なさい。――やだ、私、泣き上戸なのかな。ちょっと飲みすぎちゃったかも」
もう、止められなかった。
僕は2歩で要に歩み寄ると、左の腕を伸ばしてその肩を抱き寄せた。
一瞬、体を強張らせたけれど、要は嫌がらなかった。
――それでも、僕のほうに体を寄せて来ることはせずに、ただ静かに泣いていた。
僕も、空いた右手を持て余したまま、それ以上要に触れることはできずにいた――。
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