膝に置いたアルバムと、僕の顔とを見比べること数回。
そのまま例の写真に目を落として無言で固まっていた兄貴はいきなり、ぶは、と吹き出した。
「――おまえそれ――何を根拠に言うんだ? 第一、要ちゃんと知り合いなのか?」
「……今、うちの会社にバイトに来てるんだよ。俺の同期の――大西の彼女と同じとこで」
「なるほど。で、俺に惚れてるって言ったわけ? 要ちゃんが?」
なんでか知らないけど、兄貴が『要ちゃん』と呼ぶたびに胸の奥がざわつく感じがした。
「心あたり、ないのか?」
「……心あたり、ねえ。しかしすごい偶然だな。おまえの会社に来てるとは」
「だから、思いあたるふしはないのかって訊いてんだけど」
「ない」
ためらいもせずに言い切られると、返す言葉もない。
「……絶対? だってこの時、一緒にいたんだろ?」
「いたけどさー。この時だけだぜ? 一度しか会ってないよ。同じゼミで仲良かったやつらが集まって、
彼女のいるやつは連れて来て。俺は、桂子連れてったし。
そりゃ、野郎のほうが多かったから覚えてるけどさ。ほんとんど話もしてないよ、要ちゃんとは」
「――マジ?」
要は? 誰が『連れて来た』んだ?
「マジ。この娘はあれだ、塚本と一緒だったんだよ」
「塚本さん?」
兄貴の友達で、僕も何度か会ったことがある。うちにも遊びに来たし、今でもたまに会ってるようだ。
なんと言うか――『スマート』な感じの人だ。身のこなしにソツがない。
意外と小さい会社に入ったらしいけど、そこの営業でトップを保っているというのも、分かる気がする。
確か、近いうちに結婚するとか聞いたけど――。
「塚本さんの――彼女、だったのか?」
「要ちゃんが? 違うだろ。あいつはまあ、モテるからなー。女がきれたことがないっつうか……
でも、要ちゃんはあいつの教え子だったからさ。妹みたいなもんだって言ってけど」
「教え子……?」
「ああ、カテキョ。要ちゃんが中学生の時に家庭教師やってたんだよ、やつは」
「家庭教師……」
バカみたいに繰り返す僕に、兄貴は黙ってタバコの箱を放ってよこした。
1本もらって火をつけ、テーブルの上に置かれたアルバムに目を移す。
要が写ってるのは、その1枚だけだった。
塚本さんの姿は他の写真の中にも見えるけど、要と一緒ではない。
「んで、要ちゃんは、ほんとに俺が好きだって言ってたのか?」
「そうじゃないけど……じゃあ、好きな人って……塚本さんなのか、やっぱり」
「そうそう、可愛いよなー。一応高校受験のために教わっててさ、受験が終わっても、
なんだかんだと塚本にくっついて来てたみたいだな。あいつも、妹みたいに可愛がってたから、
いろいろ相談に乗ったり遊びに連れてったり――って聞いてるけど。
要ちゃんのほうは、塚本が好きだったんだろうな。分かりやすい娘だよ」
似てる――のか? 僕が塚本さんに?
写真の中で軍手をはめ、バーベキューの鉄板の向こうで笑っている塚本さんは、
僕からずっと遠いような気がした。
「何、今頃そんな話が出てんの?」
「今頃っつうか――今でも、要は塚本さんのことが好き――らしい」
「へえ。そりゃすごい。でもなんで俺が相手だと思ったんだ、おまえは?」
「好きな人がいる、って聞いたんだ。で、俺に似てるって、言うし。この写真があったし……」
「ふーん。それでおまえは振られたわけ」
「違うよ! そんなんじゃなくて、友達なんだけど、今でも好きな人が忘れられないようなことを……」
「ほお」
友達、ね、と呟いて意味ありげに笑う。僕はちょっとカチンと来た。
「悪かったよ、勘違いして。だいたいなんで、兄貴と要が2人で写ってんだよ。桂子さんは何してたのさ」
「そりゃ桂子と写ってるほうが多いさ。カメラ持って来たのが塚本で、俺と桂子の写真は1枚づつっきゃ
くれなかったんだよ。で、全部桂子のとこに置いてあるし」
そりゃそうか。カップルで写ってる写真を一人づつに渡すことはあまりないよな。
「これはさ、塚本が要ちゃんを撮ろうとしてたから、俺がふざけて割り込んだだけ。
あの娘おとなしいから他の写真にはほとんど写ってないし、これ1枚だけ渡しそびれたんだろ。
ついでに俺の分に混ぜてくれたらしいな」
ああそうですか。そういうわけですか……。
「塚本さんと俺って、似てると思う?」
「んー? ……さあなぁ。外づらがいいとこは似てんじゃねーの?」
「あ、そう……」
そういう意味だったのか? だから『一緒にいたくない』? ……分からない。
分からないことだらけだ。今でも塚本さんのことが好きなのか。あの傷は、その想いのせいなのか。
要に会って、訊き出したいとも思うし、このまま訊かないことが正しいようにも思う。
あの傷を目に留めてしまった以上、何もなかったように振舞うのは無理だ。
そうなれば、何かの時には力になるよ、と言うだけにしておくのが一番だろう。
――友達としては。
一応その行為について、調べるくらいのことはしてみた。
精神医学などの分野で『自傷行為』『リストカット』という言葉をみつけた。
自殺とは違うけれど、程度によっては死に至ることもあるらしい。
――要が言ったように、死にたいというわけではないことが多いようだ。
追い詰められ、行き場をなくした痛みのはけ口――。
思うように自分を表現できない場合や、自分を理解してくれない環境から逃げるための手口だ。
それを、弱さだと怒ることも、悲しいことだと嘆くことも、余計に追い詰める結果になる。
普段は普通の生活を送っていても、逃げ出したいことがあると、その行為に走るらしい。
飲酒や薬物と併用する場合も多いということだ。
――『人と話すのって、難しいから』
要。おまえは自分で思っているような娘じゃないよ。
真っ直ぐで、一所懸命な、いい娘だよ。
そう伝えることが、できたらいいのに。
その機会は、意外と早くやってきた。
土曜日の午後、相変わらずヒマを持て余していた僕は、一人で暮らす大西の部屋に呼ばれて行った。
夏の午後の陽射しがホームを白く浮かび上がらせるのを見ながら、2駅だけ電車に乗る。
はたして、1DKの部屋の台所には、大きなダンボール箱が僕を待っていた。
「……頼みがあるとか、言ってたよな」
「そう。これなんだけどさー。田舎から送って来たんだよ。どうしろってのかね、まったく」
知るかよ、と思いつつ箱のまわりに並べられたものを検分する。
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、ごぼう、小松菜、万能ねぎ。
ようするに、野菜だ。
「どうせなら、肉でも送ってくれりゃ良かったんだよー」
こいつの実家は山形県だ。そりゃいい肉があるだろうけどさ。
息子の食中毒を心配するなら、この真夏に生ものは送らないだろうよ。
「……しょうがねぇな」
「悪いなー。このお礼はするからさ」
しかたない。僕はとりあえず3束もある小松菜をすべて洗って軽く茹で、小分けにしてラップで包んだ。
それを冷凍保存用のバッグにつめて、冷凍庫に収める。
万能ねぎもまとめて小口切りにし、耐熱のタッパーに入れて冷凍庫へ。
けっこうお坊ちゃん育ちらしい大西は、東京の大学に進んだ時に一人暮らしを始め、
息子の食生活を案じたご両親に、台所用品を一式揃えてもらったらしい。
それでも本人は、カップラーメン用のお湯を沸かすとか、
せいぜいが冷凍のピラフを炒めるくらいでしか使ってないんだが。
普通ならこういうのは彼女に頼むんだろうけど――まあ、それを言ってもしかたない。
と、実にタイミングよく玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けて沙姫ちゃんが顔を出した。
「たっだいまー。連れて来たよーん」
ただいま、ですか。いいけどさ。
沙姫ちゃんは、流しに向かってごぼうを洗っていた僕ににっこりと笑いかけると、
ドアの影から要をひっぱり出して来た。
僕もびっくりしたけど、要も目を丸くして固まっている。
無理もない。あれから2人でまともに話もしなかった。
会社で顔を合わせば会釈くらいはするけど、昼休みも終業後も、互いに会わないようにしていた。
「あ、あの、私やっぱり――」
初めて会ったあの店のようにうろたえながら帰ろうとする要の腕を、沙姫ちゃんが抱え込んだ。
「だーーーめ。今日はね、尚也くんの手料理を食べようの会なんだよー。
要ちゃんにも、ぜひ食べさせたいって、張り切ってたんだから」
誰か張り切ってたんですか。それより、いつの間にそんな会を作ったんですか。
要が泣き出しそうな瞳で僕を見上げる。
僕は少し迷ったあとで、苦笑して、部屋のほうへ促すように顔を向けた。
困ったような、それでも少し安心したような微笑を浮かべて、
沙姫ちゃんに続いて部屋に上がった要は、数回ためらってから小さな声で言った。
「……怒って……ない、の?」
これだから。
放ってなんておけない。気にせずになんていられない。
僕は黙って笑うと、要の額を軽くこづいた。
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