7月も終わりに近づいて、スーツでの通勤がつらい季節になってきた。
会社の中はまだいい。上着を脱いでシャツ1枚でいればちょうどいいくらいで、
むしろ半袖の制服を着てる女子社員が気の毒なくらい冷房が効いている。
だから、試験が終わってバイトに戻ってきた要が長袖を着てるのも冷房対策だろうと思っていた。
あの日までは。
僕と要は相変わらず時々一緒に食事をしたり、週末に遊びに行くくらいの付き合いだった。
読む本や音楽の趣味は違うけれど、共通しているのは『広いところが好き』というところだ。
だから僕の車で少々遠出をしたり、電車を乗り継いだりして、
見晴らしのいい所へ行くことが多かった。
乗り物の中や山の上は冷えることもあるから、
要がジャケットやカーディガンを着ているのも気にならなかった。
けれどその日は珍しく映画を見に行こうということになり、久しぶりに大西達と4人で出かけた。
見終わった映画の話をしながら、大西と沙姫ちゃんのあとに続いて映画館を出る。
地下から上がる階段を登る途中で、要がつまずいた。
咄嗟に腕を伸ばして支えた時、その左腕に気がついた。
白い手首の内側に走る薄赤い傷痕。2、3本平行してそこにある赤に、僕は思わず息を呑んだ。
階段の途中なのも忘れて、細い腕を掴んで袖を引く。要が青ざめた顔で僕を見上げた。
「――どうしたんだ、これ」
新しい傷じゃない。よく見ると、他にもうっすらと赤い線が切れ切れに走っている。
うつむいて小さく震える唇は、答えない。
後ろから階段を登ってくる人達が、迷惑そうに振り返りながら追い越して行く。
「おーい。なーにしてんのー?」
階段の上から沙姫ちゃんが呼んでいる。大西も、怪訝そうな顔で待っている。
僕はうつむいたままの要の腕を引いて地上に出た。
「ごめん、俺らちょっと寄るとこあるから」
「え? どしたの急に」
目を丸くする沙姫ちゃんは、この傷のことを知っているんだろうか。
「いや、……前から行こうと思ってた店が近くにあったの思い出してさ。俺の知り合いとかいるから」
言い訳にもなってない。
「え、それじゃあ」
あたし達も行こうかな、と、おそらくはそう言いそうだった沙姫ちゃんを、大西が制した。
「分かった。んじゃ、またな」
「ああ、悪い」
僕はそのまま、要の腕を引いて踵を返す。
多分大西は何かあったことに気付いているだろうこととか、
あとでどういう言い訳をするかなんて、考えられなかった。
とにかく駅のまわりの雑踏から逃れるように歩き続けて、
ようやく静かな通りに面した喫茶店に落ち着いた。
「コーヒーと……あとアイスティ」
黙ったままの要に代わって勝手に注文し、それぞれの飲み物が届いたあとで重い口を開く。
「その腕――どうしたんだ」
「……ちょっと……切っちゃったの」
「どうやって」
「……紙を使ってて、うっかり……だったかな」
「嘘をつくな」
自分でも少し驚くくらい、低い声で呟いていた。
その声に要の体が強張り、ますますうつむいてしまう。
責めているわけじゃない、と言いたかった。でも多分、僕は責めている。
どうして、こんなことをするんだ。どうして、言い訳しようとするんだ。
一緒にいて、笑っていてくれるのが嬉しかった。
他愛もないことを話して、休日の短い時間の中で、一緒に空を見上げているのが好きだった。
恋人じゃない。友達という言葉で表せるのか分からない。
それでも、少しづつ近くなった距離にいられると思っていた。
あの『呼び捨て』の話のあと、要は僕を名前で呼ばなかった。『ねえ』とか『あの』で済ませていた。
――僕はやっぱり『田野倉さん』のままか。
「――ごめんなさい」
「……なんで謝るんだ」
「だって、なんか……怒ってる」
「俺が怒ってたら謝るのか? 悪いことしてると思ってるのか?」
「……思ってない」
まただ。
だんだんと薄らいでいた要のまわりの壁が、また閉じようとしていた。
僕は間違っているのだろうか。気付かない振りをして、放っておけば良かったんだろうか。
「だって、――あなたには関係ないもの」
「自分で、切ってるんだろ?」
「そうよ。それがどうしたの」
「どうしたの、じゃないだろ。なんでそんなことするんだ。死にたいのか?」
「違う」
顔を上げた要の真っ直ぐな瞳に見据えられる。
あの瞳だ。『好きな人に似ている』そう言った時の強い瞳。
「死にたいんじゃない。生きたいからよ」
「――どういうこと」
「だから、あなたには分からないわよ。こうせずにいられない気持ちなんて」
「何も話さないうちから決め付けるな。俺に分からないと思うなら説明してみろよ」
生きたいから自分を傷つける。
そんなことがあるか。なんの意味があるんだ。
説明しろ、と言った僕に答えないまま、要は黙ってうつむいている。
駄目だ。
ここでいくら要を責めても、たとえばちゃんと話してくれと頼んでも、本当のことは聞けない。
僕は伝票を手に立ち上がった。
「行こう――送ってく」
弾かれたように顔を上げた要の瞳が揺れていた。
それが、何も訊かないことに決めた僕に対する失望なら、いいのに。
一言も口をきかずに電車に乗り、要の家まで送る。
途中で何度か要が僕のほうを見上げて口を開きかけたけど、僕は黙って目をそらした。
要の家の前に着いた時には、すっかり日が暮れていた。
そのまま帰るのもあまりにも子供じみている気がして、やっとのことで目を合わせる。
「――じゃあ」
またな、と言えばいいんだろうけど、それ以上言えなかった。
体の向きを変えて、駅に向かって歩けばいいのに、足が動かない。
僕はその時初めて、要を抱きしめたいと思った。
どうしてだろう。抱きしめて、何を言えば、この瞳は僕に応えると言うんだろう。
「俺――分かりたいと思った。だから、訊いたんだ。でも――駄目みたいだな」
搾り出すようにそれだけ言って、僕は歩き出した。
「――尚也!」
要が初めて僕を呼び捨てにした声にも、振り返らずに。
『尚也!』――要が呼ぶ声が、耳の中で回っていた。
どこにも寄る気になれず、真っ直ぐ家に帰り、
顔を出した母に『メシ食ってきた』とだけ言って部屋に入る。
いろんな言葉が頭のまわりで回っているのに、何をどうしたいのか分からない。
生きたいから、と要は言った。
こうせずにいられない、と言っていた。
――それが、その行為が救いになるって言うのか。――何から。
要は、何から救われたがっているんだろう。
兄貴への、報われない想いか。思い出してももらえないほどの付き合いで、要は何を得たんだろう。
それを失うことのつらさに、耐えられないほどの大きさの。
――僕は、それほどの存在にはなれないのか。
当たり前だ。『友達』が『恋人』に敵うものか。
そんなふうに短絡したくはなかった。僕にだって、気の合う女友達くらいはいる。
彼氏のようにはなれなくても、何かあれば力になりたいと思う気持ちはある。
だったら、それでいいじゃないか。
何かあったら言えよ、というだけで充分じゃないかよ。友達なんだろ。
――どうして、あの時僕を呼び捨てにした。
先に立って店を出る僕を、あんな瞳で見上げたのは何故だ。
深く考える間もなく、僕は自分の携帯を取り出して、めったにかけることのない番号を呼び出した。
まだ仕事中だろうか。そろそろ帰る気になっているところだといいけど。
『もしもーし』
数回呼び出し音が鳴ったあとで、明るく応える声が聞こえた。
「俺」
『おう、どうした。珍しいな』
よっぽどの急用でもない限り、兄貴の携帯になんてかけない。
イヤでもそのうち顔を合わすし、メモでも残しておけば済む。
「悪い。今忙しい?」
『いんや、もうちょいであがるとこだ。なんだ、なんかあったのか?』
「――ちょっと、話があるんだけど」
『あ? 話? おまえが?』
「他に誰がいるんだよ」
『なんだよー。俺なんか悪いことしたかー?』
……半泣きの声を出すな、いい年して。
「じゃなくて、ちょっと。何時頃帰れる?」
『あぁんじゃ、すぐ出るわ。1時間くらいで着くだろ。家でいいのか?』
「いいよ。すぐ済むから」
『……なーんだろなー。いい話じゃねーよなー』
でかい図体して情けないことを言わないでほしい。意外と気が小さいのは知ってるが。
とにかく帰ってから、と言って電話を切る。
もうあとに引くわけにはいかなかった。
実際には47分後、僕の部屋のドアがひとつ、ゴン、と音をたてた。
どうやらノックのつもりらしいな、と思っていると、兄貴が顔を覗かせた。
黙って軽く廊下のほうにあごをしゃくる。
両親のいる部屋に近い僕の部屋より、兄貴の部屋で話そうと言うのだろう。
僕も黙って部屋を出た。
「――んで?」
この性格にしては結構片付いている部屋で、テーブル代わりのコタツに向かい合って座り
タバコに火をつけてから兄貴は僕の目を見た。
「……単刀直入に言うけど」
「おまえ『たんとうちょくにゅう』って漢字で書ける?」
「書ける」
いちいち突っ込んでいられない。
「要のことなんだ」
「……この前も言ってたよな。誰だ? それ」
「……ほんっとーに、覚えてないんだな」
「と、思う。どっかで聞いたような気もするけど」
このニワトリ頭が、と思ってもしかたない。
「2年くらい前だと思うけど、兄貴、友達とどっか河原に行ったろ」
「河原? ――行ったっけか」
「写真に残ってるよ。俺たまたま見かけて――そこに、兄貴と2人で写ってた」
「2年前――河原――ああ、あれか。大学ん時のやつらと、奥多摩行ったやつだ」
「知らないけど」
と、僕はひとつ息を吸い込んだ。
「とにかく、あの時一緒に写ってたろ? 髪の長い、おとなしそうな娘」
「……」
どうしても思い出せないらしい。こいつはどうやって大学まで出て就職できたんだろう。
兄貴が黙って本棚に歩みより、アルバムを取り出す。
僕が、1年前にあの写真を見つけて、そのあと何度も開くことを堪えたクリーム色の表紙。
「ああ、この娘か! そうそう、なんか変わった名前だったんで覚えてるわ。要ちゃんね」
「――思い出した?」
「おう。おとなしかったけど、可愛い娘だよな。で?」
「……会ってやってほしいんだ」
「へ?」
「そいつ……兄貴のことが好きなんだよ」
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