「……あのさ」
僕が口を開くと、手すりにもたれていた要が振り返った。
車で2時間くらい走った山の中腹にある展望台。昼食のあとの陽射しには、
少し夏の匂いが混じっていた。
「何?」
小首をかしげる要は、やっと敬語が抜けてきたところだ。
あれから僕は、何度か会社の昼休みに社員食堂で顔を合わせたり、
たまに大西達と外に食事に出たりして、
やがて携帯の番号を交換し、
自分が残業の時に要の授業が終わるのを待って送って行ったりと
我ながらマメなやつだと感心するくらいだった。
それでも相変わらずその瞳には寂しげな色が残っていたし、ですます調はなくなったものの、
なんとなく距離を置く癖は変わらなかった。
で、僕のこともいまだに『田野倉さん』なのだ。
その呼び方の向こうに兄貴の影が見える気がして、
僕はそろそろ名前で呼んでくれないものかと考え始めていた。
「要ちゃんと会って、もう1ヶ月近く経つよね」
「そうね。もうすぐ7月だものね」
それがどうしたの、という顔をされると、切り出しにくい。
「いや、だからってわけでもないけど――『田野倉さん』はやめないか?」
「じゃ、『田野倉』」
と言って、僕の肩をぽん、と叩く。唐突にこういう冗談を言う癖があることも、最近分かってきた。
「違うだろ」
お約束な突っ込みを入れて、僕はなるべく軽く聞こえるように気をつけることを忘れなかった。
「俺も『要ちゃん』より『要』のほうが呼びやすいし、『尚也』でいいんだけどな」
分かってた。要のような娘には、いくら軽く言ったところで簡単に受け取れる言葉ではないと。
だから僕は、目の前に広がる初夏のパノラマに目を向けたまま、要のほうを見ることができなかった。
それまでのくつろいでいた空気が、ほんの少し凍りついた。
黙ったままの僕らの後ろで、家族連れやカップルのはしゃぐ声がやけに響く。
「――沙姫ちゃんは、『尚也くん』て呼ぶよね」
そうきたか。彼氏の大西のことは呼び捨てだから、
僕を呼び捨てにしろというのはそういう意味かということか?
「沙姫ちゃんはああいう娘だしね。誰とでも友達になれるし」
「そうね。……本音で話す人は選んでるみたいだけど」
「ああ、そうだな。そんな感じ」
じゃなくて。今は沙姫ちゃんのことは別にどうでもいい。
「でも、俺と要――ちゃんも、友達なんだから、いいんじゃないかと思ったんだけどさ」
友達、という言葉がものすごく白けて聞こえるのは何故だろう。
少なくとも、僕は要と恋人になれるとは思っていない。
ただ、その瞳の色から消えない影を消したいだけだ。
――兄貴のことを想っているのも知っているし、無理にやめさせるつもりもない。
一緒にいて楽しくて、互いに楽に呼吸ができれば、
それを『友達』と呼ぶことも許されるのじゃないかと思った。
「友達って……そんな簡単になれるものなの?」
「……ておまえ、俺とは友達じゃなかったのか?」
『おまえ』その呼称も、僕にしたらけっこう思い切ったものだった。
それに関しては何も言われなかったけど。
「……友達……なのかな」
「ひでーなー。じゃなんで一緒に遊んでんのさ」
これも我ながら大胆な質問だ。どういうわけか、要に対しては強気になっている気がする。
他の人間になら、わりと流されるほうだと思うのに。
「……そう言われるとそうなんだけど……男と女で友達って、あり?」
「ありでしょう、そりゃ。俺は要と一緒にいて楽しいけどな」
思わず呼び捨てにしていた。動揺が顔に出ないようにタバコに火をつける。
「禁煙」
と、横にある看板を指差された。
「あ、はい」
素直に一口しか吸ってないタバコを携帯灰皿に捨てる。
「タバコっておいしいの?」
「……おいしいと言うか……なんとなく落ち着くからかな」
「ふーん。どんな味?」
「吸うか?」
「だから、ここ禁煙」
「じゃ訊くなよ」
話がそれてる。ああもう、めんどくさい。
「とにかく、呼び捨て決定。命令。以上」
と言って駐車場に向かう。
「えー? 何それ。命令って何よー」
抗議する要の声にも振り返らずに歩く。
振り返って、何を言えばいいのか分からない。
僕は、自分が笑っているのか困っているのかも分からなかった。
『ブルーマンデー』なんて言葉もあったよな。
これも死語かも知れないけど、やっぱり月曜日は憂鬱だ。特に朝から雨ともなれば。
そろそろ蒸し暑い日も多くなって薄い肌掛け布団にしていたのだが、
少し肌寒い気がして頭までもぐってみる。
珍しく、目覚ましが鳴るより前に目が覚めた。
というよりも、よく眠れなかった。うとうとして何度も目が覚めて、
その何度目かで雨の音が聞こえてきた。
あの『呼び捨て宣言』から一週間。たまに会社で顔を合わせて、無難な話題に終始して、
さすがに毎週末に遊びに誘うのもどうかと思って、この週末は連絡を取っていない。
要の『呼び捨て』の件はどうなったかというと、なにせ会うのが会社で、
しかも違う部署のバイトの娘だから互いに『長谷川さん』『田野倉さん』だ。
僕はなんであんなことを言ったんだろう。
兄貴のことが好きならそれでいい。別に僕には関係ない。同僚の彼女の友達で、
だからたまに一緒に遊んだりして、寂しげなあの瞳よりも、
明るい顔で笑ってくれたらいいと思うだけだ。
それだけだ。
呼び方だとか、兄貴とは違うとか、どうでもいいことだ。
『友達』なんだから、呼び捨てでいいよ、と言っただけだ。
――眠れなかったのは、要のせいじゃない。
「くぉら! 起きろ、『やー』! 朝だぞ!」
空の雨雲も吹き飛ばしそうないきおいで、怒号とともに布団がはがされた。同時に目覚ましが鳴り響く。
兄貴は僕の時計をきちんと手に持って目覚ましのスイッチを切り、再び怒鳴った。
「おーきーろっての! 月曜だぞ、サラリーマン! 会社行け会社!」
自分はどうなんだ。――昨日は休日出勤だったようだから休みなのか。
それでも早く起きるんだよな、こいつは。
「うりゃ、いつまで寝てやがる。遅くまでAVでも見てたか、ああ?」
「……自分と一緒にすんな、高血圧」
「俺は見ててもちゃんと起きるぞ。ほれ、起きてメシ食え」
ぺし、と頭をはたかれて、しぶしぶ起き上がる。素晴らしい一週間が始まりそうだよ、兄さん。
僕は朝が苦手だ。できるだけ寝ていたい。だから学生の頃も、朝食だけは兄貴の担当だった。
あれを朝食と呼べるなら、だけど。
両親はとっくに出かけたらしい。もたもたと着替えていると、兄貴が僕の顔を覗き込んだ。
「あん? 目が赤いぞ『やー』。マジでビデオ鑑賞か?」
「……その呼び方は……やめろって……」
あくびとため息の合間に反論しても無駄なのは分かっている。
兄貴と僕の名前は『ひさよし』と『ひさや』だから違うのは『ひさ』より下だけだ。
それで子供の頃、親や親戚には『よしくん』『やーくん』と呼ばれていた。
これだけは要に言うまい。嬉々として『やーくん』と呼ぶのは目に見えている。大西と沙姫ちゃんもだな。
事実昔の彼女に『ちゃーくん』と呼ばれてうっかりこの話をしてしまった失敗もある。
いっそのこと素直に『なおや』にしてくれりゃ良かったんだ。いつも間違えられんだから。
顔を洗って食卓に着くと並んでいるのは、焦げる寸前のトースト、完全に焦げている目玉焼き、
丸ごとのトマトとキュウリは、塩が添えられているのを見るとサラダのつもりか。
コーヒーだけはコーヒーメーカーというありがたい物のおかげで飲めそうだ。
「しっかり、食ってけ、よー。働けねー、ぞー」
言いながらリビングの床で腕立て伏せはやめてくれ、朝から。
「……そっちは休みなのか?」
「あー、最近、休んで、ないから、なー、午後からに、した」
ほんとに、なんでこいつがいいんだろう。桂子さんも要も。
忙しいのは分かるけど、ちゃんと桂子さんと会ってるんだろうか。
まあ、余計なお世話だな。――要の想いにしても、僕には関係ない。
ネクタイを締めて玄関で靴を履いていると、ご丁寧に兄貴がお見送りに来た。
「おい尚也、サラダ残ってるぞ? 腹の具合でも悪いのか?」
『サラダ』言うな、あれを。
「……いや別に。んじゃ行ってくる」
「おー」
ガサツっぷりはともかく、兄貴はまあ、いいやつだ。
要のような考え過ぎの娘には、このいい加減さが魅力なのかも知れない。
「兄貴」
「ん?」
「要のこと――」
「かなめ?」
眉を寄せて首をかしげてる。……もしやとは思ったが、やっぱりそうか。
「――覚えてないならいい」
返事を待たずにドアを開ける。
どうして、自分を忘れてしまえる男をいまだに想っているんだろう。
僕の名前に気付いていながら、何も言わないのはどうしてだろう。
訊きたいことはたくさんある。
そんなに兄貴が好きなのか。それで君は幸せなのか。
何にこだわって、虚勢をはるほど自分を追い詰めているのか。
これから、どうしたいのか。
それは自分にも訊きたい問いかけだった。
僕はどうしたいんだろう。
要に、自分に、何を望んでいるんだろう。
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