好きな人――そりゃやっぱり、兄貴のことなんだろうな。
『田野倉尚義』と『田野倉尚也』漢字で見てもひらがなで見ても音で聞いても、
他人だとは思わないだろう。
僕が要のことを思い出すよりも、僕が兄貴の身内だと気付くほうが早かったに違いない。
3つ年上の兄貴は、建築事務所に勤めている。
帰りも遅いし、事務所に泊まることも多いんだから他に部屋でも借りればいいのに、
僕と同じでまだ実家暮らしだ。
こっちも一応は社会人だけれど、子供の頃から両親が共稼ぎで、
兄弟2人で(主に僕が)家事をやってきたので、
それぞれ適当に自分のことをやるようになっても、家賃のいらない気楽さに甘えてしまっている。
その代わり、一番先に帰宅した者が食事を作るというルールは変わらない。
で、めったなことじゃ台所に立たずに済んでいる兄貴には、彼女がいる。
もう3年くらいの付き合いになるようだし、このまま結婚するんだろうと、僕も両親も思っている。
――ちょっと待て、じゃあ、あの写真の頃にも、兄貴は桂子さんと付き合っていたんじゃないか。
二股? それとも、要の片想い?
なんとなく、後者のほうがありそうな気がしたけれど、
あの兄貴に2年も片想いするなんて、すごい根性だ。
僕と兄貴の名前は、もう親の手抜きとしか思えないほど似ているけれど、
見た目や性格は、正反対と言えるんじゃないだろうか。
いや、だから僕が見た目も性格もいいとか言うのではなくて。
僕は、顔は母親似で、どちらかと言えば女顔のようだ。
めんどくさいから、あんた妹にしとき、と母親にからかわれたことも、一度や二度ではない。
で、性格は、呑気を絵に描いたような父親に似ていると、自分でも思う。
家に家族4人が揃うと、ぽんぽん言葉を交わすのは母と兄貴で、その横で黙って新聞を読む父と、
何故か一人で食事を作る僕、ということになる。
僕が大学に入ってからはあまりそんな絵も見なくなったが、兄貴と母はとにかく口から先に出る。
で、手も出すし足も出す。はっきり言って、ガサツを絵に描いたようなヤツなのに。
いや、人の好みは分からないし、桂子さんだって、その兄貴に3年も付き合ってるんだから、
女の子から見ればそうでもないのかも知れない。
でも――要がいまだに兄貴のことを想っているのであれば、
それは、やはりまずいんじゃないんだろうか。
彼女から奪おうとか、そういうことはないにしても、およそ建設的じゃない。
「――だから、やめさせようっての?」
大西は、タバコを口の端にぶらさげたままで僕を見上げた。
昼休み。自販機とソファに囲まれた喫煙所で、人が途切れるのを待って話してみた。
どうやら要は、僕の兄貴を知っていて、想いを寄せているようだ、と。
「沙姫からそんな話は聞いてたけどな。要ちゃんには、ずっと片想いしてる人がいるって。
でもその人には決まった人がいるからって。――まさか、おまえの兄貴とは思わなかったけど」
「いや、絶対とは言わないけど――たぶん、そう。俺に似てるって言ってたし」
「おまえあんまり兄貴に似てないじゃん」
「――そうだけど、名前聞けば分かるだろ。で、そう言ったんじゃないか?」
「まあ、おまえんとこはな」
そう言って笑う。これで父親が『尚次』なんだから、これを聞いたら笑うだろう、そりゃ。
「で、どうやって止める気?」
タバコを口から離して、天井に向かって煙を吹き上げながら訊く。――それは、こっちが訊きたい。
「いや、それは――やっぱり沙姫ちゃんしかつてがないんだけどさ」
そう言いながら僕は自分のワイシャツの胸ポケットに手を入れて、
昼食後に最後の1本を吸ってしまったのを思い出した。
気がついた大西が、自分のタバコの箱を振って、1本出してくれる。
「悪い――でも、会いたくないってはっきり言われたしなあ」
こっちも真似して煙を吹き上げてみる。
「――やめとけば?」
「え?」
「いや、少なくとも2年くらい経つんだろ?
おまえが言ってやめるんなら、とっくにそうしてるんじゃないか」
「――そりゃ、そうなんだけどさ」
「それで兄貴につきまとうとか、なんか迷惑かけてるわけじゃないんだろ?」
「それはないと思う。――俺が知らないだけかも知れないけど」
「兄貴に、なんとかしてくれって言われたわけでもないんだし、こっちが動くことじゃないと思うけど?
第一、そういうのって人に言われて気が変わるもんか?
そのうち他に好きな男ができれば忘れるだろ」
他に好きな男、ね――。そう、忘れさせるのはそいつの役目だろうな。でなければ、兄貴本人か。
「そう、なんだけどさ――。できればもう一度会って話してみたいんだよな
……ああ言われたまんまだとさ」
そのまま、言葉を選ぶように黙って天井を見上げる。
どう言えばいいんだろう。自分でも、どうしたいのかよく分かっていない。
とにかく、もう一度会いたい。話がしたい。あの、揺れる瞳に追いついて、思っていることを聞きたい。
「『好きな人に似てる』ってやつか?」
僕とは逆に床に目を落として大西が訊く。
「うん、まあ――そうだな。つまり、兄貴のことをまだ好きだって言われたわけだろ?
でも俺にそんなこと言う必要はないんじゃないかと思ってさ
……なんであんなこと言ったのか、気になってる」
「――俺も、沙姫の友達ってくらいしか知らないけど、要ちゃんは結構そういうところあるんだよな」
「そういうところ?」
「なんつうか……思ったことをそのまま言っちまうところかな。似てると思ったから、似てる。
名前で気がついたってのもあるだろうけど、自分の好きな人はあの人ですって、
はっきり言っちゃえるんだよな。
それがおまえの兄貴だとしてもさ。
そうやって言うのがポリシーみたいなとこあるんだよ」
ポリシー、ね。まあつまり、それを僕に言ったことに深い意味はないってことか。
「沙姫もよく言うんだけどさ――要ちゃんは、真っ直ぐ過ぎるって。
自分で正しいと思ったことはつらぬいちゃうから、
まわりからわがままだと誤解されやすいって。本当は気を遣い過ぎるくらいなのにってさ」
沙姫ちゃんは、ボーっとしているように見えて意外とするどいことも言う。
見た目と言動のギャップに、とりあえずツバつけとこうとした男連中はひいたふしもある。
まあ、大西にはそこがいいんだろうけど。僕も、あの娘はいい娘だと思っているし。
「それでなきゃ、会って1ヶ月もたたない沙姫にそんな話するか? ……なんか、その彼氏が存在して、
初めて自分に価値があるような、そんな言い方なんだってよ。沙姫が言うには」
高校出たてでそこまで言えるってのもすごいと思う。でも――実際そんな感じだ。
『好きな人がいるんです』その一言に、すべてがこめられていた。
「やっぱ、無理かな……」
「会って、どうしたいわけ? 兄貴はやめて俺と付き合えとでも言うのか?」
「違うって。ただ――話してみたいだけだよ」
「そりゃ下の階にいるわけだし、話くらいはできるだろ? ――って、分かってるよ」
しょうがねぇなあ、というように腕時計に目を落として立ち上がる。
「まあ、個人的に会うきっかけくらいは作ってやるよ。なんか適当に理由つけて」
「いや、無理にじゃなくていいんだけどさ」
会いたいとか、話したいとか思うくせに、それからどうしたいかなんて、自分でも分からなかった。
ただ、訊いてみたかった。
何がそんなに彼女を追い詰めているのか。これが自分だ、と言い切る強さの影に、
あの揺れる瞳があるのはどうしてか。
それが――兄貴への想いだけなのか。
確かに大西はああ言ってた。『適当に理由つけて』――だったかな。
また、雨の降る日だった。土曜日の夜、僕は大西に電話で呼び出されて車を出した。
学生のうちに免許を取って、中古だけれど自分で車を買って、バイトでローンを払った。
それなりに愛着もあるけれど、そろそろ買い換えてもいいかな、とは思っている。
夜の9時を回った頃、コンサート会場の前に、大西と沙姫ちゃんと要が出てきた。
つまり、女の子2人でコンサートに行ったのを、大西が迎えに行ったらしい。
で、雨も降ってるし、電車は混むし、と僕が呼ばれたわけだ。
大西は免許がない。車は人が運転するもの、と思っているようだ。
遠慮する要を、ついでだからと助手席に乗せることには成功したけれど、
地下鉄の入り口を見つけるなり沙姫ちゃんが『止めてっ』と叫んで、
2人で降りてしまったのには参った。
『あとはこいつに送ってもらってねー』と、呆気にとられる僕らを置いて地下に消えてしまった。
自分もここから地下鉄で帰ると言うのを引き止めて、走り出した車の中は静かだった。
――イキナリなのはいつものことだけど、いったいこの先どうしろと言うんだ。
俺はおまえらが頭がいいのかバカなのか分からなくなってきたぞ。
姿の見えない2人にぼやいても始まらないので、何か話そうと試みる。
「ええと、練馬のほうでいいんだよね、自宅」
「あ、はい、そうです。すみません、私だけ……」
「いやいや。あの2人もまったく何考えてるんだかなぁ」
笑ってみせるけど、自分でもわざとらしいと思う。
僕と2人きりにするためだってのは、あきらかなのに。
「――田野倉さん」
「うん?」
ちょうど信号が赤に変わって、隣の要のほうを向く。
赤いライトに照らされた瞳が、真っ直ぐにこっちを見ている。
「……何か、私にお話があるんですか?」
……ほんとに、真っ直ぐな娘だ。疑問に思ったことは直球で来るんだな。
――俺もそうしたいよ、ほんと。
「――なんで?」
「そんな気がするから。……でなきゃ、こういうことにはなってないと思うんです」
「俺が要ちゃんを送ってくこと? 別におかしくないだろ。
あの2人は消えちゃったし、たいした距離じゃないし」
「だって、この前会ったばかりですよ。――それに私、あんなこと言ったし」
俺は、1年前に会ってるよ。――そう言いたかったけど、それを言ってもしかたない。
「でも、沙姫ちゃんの友達だし、同じ会社にいるんだし。
俺らも友達になれたらいいかな、と思ったんだけど。やっぱ、顔見るのもイヤ?」
なるべく明るく言ったつもりだった。変に警戒されるのはイヤだった。
その願いが通じたのかどうか、要のまわりの気配から緊張感がふっと緩んだような気がした。
「――変わってますね」
キミのほうがね、と言いたいのをこらえて、そうかなぁ、と笑う。
要と話していると、どうしてだろう、僕は自分がものすごくずるいような気がしてくる。
言いたいこと、思っていることを隠して、無難に収めようとしてしまう自分。
それで結局信じてもらえなかったことだってあるのに。
「友達になりたいなんて、言われたことないです」
「ま、そりゃ改まって言うことでもないよな。自分でも変かな、とは思うけど」
「でも――」
「何?」
「田野倉さんと話してると、なんだか楽かな……」
「……そう?」
「人と話すのって、難しいから……いつも、考えながら話してるけど、
そのまま受け取ってもらえることのほうが
少ないような気がするんです。
だから、もう考えるの面倒になってきちゃった」
そりゃみんながみんなそこまで真っ直ぐじゃないからね。
相手のことも真っ直ぐだと思うのには、時間がかかるんだと思うよ。
「私と話してて、疲れませんか?」
また、真っ直ぐに見据えられて、一瞬答えにつまる。
「いや、そんなことはないよ。疲れるっていうのとは違うけど、
――なんて答えたらいいのか分からなくなる
感じはするかな……。
でも、俺で答えられることは答えたいし……」
何を言ってるのか分からなくなってきた。どう答えたら納得いくのか、考えてしまう。
「……やっぱり、話しづらいですよね、私」
「そんなことないって。まだよく知らないしさ。――せっかくうちでバイトしてるんだし、
たまにメシでも行こうよ。俺は、要ちゃんといろいろ話してみたいよ」
やっと正直になれたように思う。これだけ言えたら、今日来たかいがあったってことか。
黙って前を見ていた要が、ようやく少し笑った。
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