霧のような雨が降っていた。
ガラスの向こうをぼんやりと見ていた僕は、ふと赤い傘に目が止まった。
ベージュの薄いコートを羽織った長い髪に、見覚えがあるような気がしたからだ。
誰だったろう、と考えていると、連れらしい背の高い女性と一緒に僕のいる店に入ってきた。
「大西」
「あん?」
僕の向かいの席に座って食後のコーヒーを飲んでいた大西は、
読んでいた雑誌から顔も上げずに返事をした。
「あれ、おまえの彼女じゃないのか?」
「ああ、もう来た? 結構早かったな」
「なんだよ、待ち合わせてんなら早く言えって。したら俺、もう帰るぞ」
「まあ、いいじゃん。沙姫に会うのも久しぶりだろ?」
「ひとの彼女に会ってどうしろって…」
「あれー? 尚也くんー。久しぶりー」
大西の彼女の沙姫ちゃんが、にこにこ手を振りながら近づいて来た。
沙姫ちゃんは今年入社した新人の女の子で、可愛いというよりも綺麗、という感じの外見と、
そのスタイルの良さでたちまち独身の男達のターゲットに入った娘だった。
それがどういうわけで、この入社3年目の僕の同僚とくっついたのかは分からない。
この2人、身長はほとんど一緒だから、沙姫ちゃんがヒールのある靴でもはけば
大西を見下ろす形になる。
下手したらこっちが後輩に見えるんじゃないかと思う雰囲気があるけど、不思議と憎めない。
一緒に飲みに行ったりしているうちに僕らに対する敬語はどこかに消えて行き、僕は「尚也くん」、
大西は「彰くん」と呼ばれるようになり――いつの間にか「彰」と呼ぶようになっていた。
もちろん会社で会えばそんなことはないのだけど。
「もう、急に降ってくるんだもんー。今日は降らないって言ってたのになー」
「おまえさ、6月と言えば梅雨だろ。折りたたみの傘くらい持って歩けって」
「それは会社に置いてあるのー。彰が持ってるからいいかと思ったし」
「で、要ちゃんに入れてもらったわけ。悪かったね」
さっさと大西の隣に座った沙姫ちゃん越しに、大西がテーブルの横に立った女の子に目を向ける。
所在なげに困った顔をしていた彼女が、ようやく笑った。
「いえ、通り道ですから。じゃあ沙姫ちゃん、私帰るわね」
「えー? お茶くらい飲んで行きなよー。尚也くんもいるし」
いきなり尚也くんも、とか言われてもなあ。第一、この娘誰なんだ?
――どこかで見たことがある。そんな気はずっとしていた。でも、思い出せない。
「沙姫ちゃんの友達?」
「うん。先月からうちの課にバイトに入ってもらってるの。
夜は専門学校に行ってるんだよ。長谷川要ちゃんでーす」
名前にも覚えがない。どこかで会ったんだろうか。
「はじめまして。大西の同期で、田野倉です」
座ったままもどうかと思って、軽く腰を浮かせて会釈すると、彼女も慌てて頭を下げた。
「とりあえず座んなよー。何飲む? あったかいのがいいよね」
沙姫ちゃんに言われてますます困った顔になる。
僕は自分の横にあった荷物を反対側に置いて、座る位置を少しずらした。
「どうぞ」
と言って笑いかける。小さく、すみません、とつぶやいて僕の隣に座る彼女から、
かすかに花のような香りがした。
「で、一緒にどっか行ってたのか?」
大西に訊かれて沙姫ちゃんが嬉しそうにバッグからチラシを出す。
「これこれー。ここのランチバイキングに行こうって約束してたの。
彰は午前中尚也くんと会うって言ってたし、
ちょっとブラブラしてから食べに行ってきたんだー。おいしかったよねー」
その『ちょとブラブラ』の結果が、足元に積まれた買い物袋なわけね。
こっちは、そんなに楽しいもんじゃない。昨日の金曜日、僕の仕事のデータが入ったフロッピーを、
大西が間違えて持って帰ってしまい、月曜日までに修正したいところがあったので、
せっかくの休日にこうして会っているわけだ。昼飯をおごらせてチャラにしたけど。
「じゃあ、買い物はもう済んだんだな?」
「ううん、それは別。彰に会ってから行こうと思ってたんだもん」
まだ買うのか、という顔で足元を見る大西と、ご機嫌でチョコレートパフェに取り組む沙姫ちゃんは
やっぱりいいコンビなんだろうな。
ふと隣を見ると、彼女も微笑ましいものを見るような瞳をしていた。
でも、その中に寂しげに揺れる光を見つけて、また、どこかで会ってる、という気がしてくる。
「――ええと、長谷川さんは、今年から専門学校行ってるの?」
「あ、はい、そうです。高校を卒業して――会計のほうなんですけど」
「じゃあ、経理課の仕事が向いてるわけだね」
「いえ、まだ勉強中ですし……」
「『かったーーーい!』」
いきなり向かいの席からハモられた。
「かたいよおまえらぁ。若いんだからもっとフレンドリーにいけよー」
「彰、その言い方のがオヤジくさい。いーじゃん、会社じゃないんだし、そんなにかたくなんないでよー」
そんなこと言われても、これが初対面だぞ、多分。それに、会社で会う可能性も高いし。
「よし、んじゃこれからどっか遊びに行こう」
「は?」
よくあることだが、この2人の行動はいつも読めない。というか、イキナリだ。
「おまえこのあと予定ないんだろ?」
「……俺にそれを訊くか?」
こいつらはいいけど、僕はひとり身だ。
先月までは一応彼女がいたんだけど――まあ、いろいろあって。
週末がこんなに長いもんだと、思い知っているところだ。
「要ちゃんも、ヒマだって言ってたよねー。そーだ、買い物あとにして遊ぼー」
「……買い物はやっぱ行くんだな」
「あ、あの、でも」
うろたえたように彼女――要が僕のほうを見る。僕がイヤがるかどうかってことか。
「いいじゃない、行こうよ」
と僕が言うと、困ったようなあの笑顔を見せた。
「わーい、カラオケカラオケー」
早速立ち上がった沙姫ちゃんを、大西が伝票を手にして追いかける。
おごる約束は忘れていないらしい。
「――ほんとに行くのかしら」
まだ半分ほど残ったミルクティのカップを持って、僕を見上げる。
――どこかで会った? ――という、おきまりのナンパのような言葉も言えず、苦笑する。
「言い出したら聞かないからな――なんか予定ある?」
「そういうわけじゃないですけど……お邪魔じゃないかしら」
「それはないだろ。まだ早いし、少し付き合わない?」
「……じゃあ、少し」
笑って立ち上がると、すでに店を出た沙姫ちゃんがピョンピョン飛び跳ねながら手招きしていた。
いきなりカラオケは勘弁してくれ、という僕と要に、あひるのような口をしながらも
沙姫ちゃんがうなずいたので、結局ボーリングに行くことになった。
男女4人でボーリングというのも、なんとなく照れくさいもんだ。
そう言えば、『ダブルデート』なんて言葉もあったな。もう死語か?
「何してんだよ。おまえの番だぞ、田野倉」
あやうく、ボールで頭をこづかれそうになった。それは痛すぎる。
投げる前にふと振り返ると、要と目があった。
とりあえず小さく笑ってくれたのに安心して、レーンに向かう。
あの笑顔だ。
自分の居場所に困っているような、戸惑いを隠せない笑顔。記憶のどこかにひっかかっている。
なのに、彼女の声や、隣に座ったときに流れてきた軽い香水のような香りには、覚えがない。
助走からボールを送り出す瞬間、彼女の顔が浮かんだ。
どこかの河原で、数人の男女に混じってあの笑顔を見せている。
写真だ。アルバムに貼ってあった、一枚のスナップ。そこに彼女がいた。
あれは――あの写真は――。
がごん、と音を立てて、ボールがガーターにはまる。
大西のスコアをわずかに上回っていたので、後ろのお気楽カップルが手を叩いて喜んでいる。
振り返った僕は、思わず真顔で要を見た。
口元に浮かべていた微笑を引っ込めて、僕を見上げる視線。
――彼女だ。
あのアルバムは、家にあったものだ。隣には、尚義――僕の兄貴が写っていた。
兄貴のアルバムなんて、そう見る機会があるものじゃない。
1年くらい前だったと思う。従姉の結婚式があって、一番ヒマそうな僕がカメラ係に任命された。
礼服姿の兄貴も一応フィルムに納めたので、一緒にプリントして渡そうとすると、
代わりにアルバムを渡された。
貼っておけってことね、としかたなく開いたページにいたのが彼女だ。
キャンプか、バーベキューか、
河原に集まった兄貴と同じ年頃の仲間の中に、僕より年下と見える女の子が写っていた。
年のせいばかりでなく、なんとなく居心地悪そうに、それでも精一杯楽しそうな笑顔を向けている。
――どうして、こんな顔で笑うんだろう。
僕はその笑顔からしばらく目が離せなかった。
その所在なげな絵に割り込むように、身を乗り出してVサインを出し、
こちらはなんの迷いもない満面の笑顔で写っているのが、あのバカ兄貴だった。
なんとなく、兄貴の彼女かな、と思ったが訊かなかった。
人見知りでおとなしい娘が、彼氏の仲間に馴染むための精一杯の笑顔に見えた。
騙してんじゃねぇだろうな、とつぶやいて、忘れることにしたのだった。
あれは――目の前にいる要が、17くらいの頃の写真か。
当然、僕がその姿を目にしていたことなど、知る由もない。
今なら、訊けるだろうか。あの消えそうな笑顔の訳を。
本棚の奥に閉じられた瞳に、近づくことはできるだろうか。
いつの間にか、雨は上がっていた。
今度こそ買い物! と張り切る沙姫ちゃんが大西を引っ張って行ってしまうと、
僕と要は駅前に残された。
「えーと……まだ夕飯には早いか。お茶でも飲む?」
「いえ、いいです。もう帰りますから」
一緒に遊んでいるときにはタメ口と敬語が混ざったような話し方をしていたが、
はっきり敬語になってしまった。
「……そう? じゃあ、送ってくよ」
なんだか自分がものすごくナンパなヤツになった気がしてきた。
でも、このままにはしたくない。好きだとか、付き合いたいとかじゃもちろんないけど、
この、いつも揺れているような瞳に、問いかけたいと思う僕がいた。
「まだ明るいですから、大丈夫です。じゃあ」
そう言って、歩き出そうとする。――僕はその腕を掴んだことに、自分でびっくりした。
「――何ですか?」
「あ、ごめん――なんか、怒らすようなことしたかな」
「……どうしてそう思うんですか」
「いや、どうしてかな……あいつらが帰ったら、急に冷たくなった気がするからさ」
単に自分が嫌われてるとは思わないのか、と、確かに思う。でも。
「そんなこと……私は、沙姫ちゃんに付き合ってただけですから。それに――」
「それに?」
言いかけて口ごもった彼女が、顔を上げて僕を見る。それは、驚くほど強い瞳。
「変なことだけど、言ったら納得してくれますか」
「――変なこと? ……あ、いや、うん。言ってみて」
「似てるんです」
ギクっと、一瞬体が強張るのが分かった。
「私、好きな人がいるんです。その人に――田野倉さん、似てるんです。
だから、一緒にいたくありません」
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