待ち合わせは、雨の週末。
仕事帰りのあなたは、笑って手を振った。
自分の傘を閉じた私に、大きな傘を差しかけて。
人混みの中で、肩を並べて歩く。
もうずっと一緒にいたみたいに、笑い合って。
―――恋人でいたのは5年前。
さよならの代わりにあなたが言った。
『23歳のおまえは、絶対いい女になってる』
誕生日を過ぎて、その時が来たから。
会っておこうよなんて、明るく電話をかけてしまった。
私には恋人がいて。
あなたには追いかける夢があって。
何の駆け引きもない、穏やかな時間。
小さなテーブルに向かい合って。
優しい会話を交わして。
席を立つ一瞬の瞳の色には、気付かぬふりで。
駅までの道を歩くあなたが、足を止めた。
『―――もう一度、マイナスから始めてみようか』
笑って言う声に顔を上げると、その瞳から笑みが消えた。
『……ずるい』
あなたはいつも。
そうやって私を高い所へと放り投げる。
無理に決まってるよ。私はきっとまた、あなたを苦しめる。
いつかプラスになる日なんか、来るはずがないでしょう。
『やっぱり、彼が大事だよな』
分からない。
失くせない。
私が独りでいたなら。
もう一度同じことを繰り返して、これ以上傷付け合うつもりなの。
いつも、あなたは、ずるいよ。
駅に向かって歩き出す。
言うべき言葉を捜して。
地下への入り口で、私は立ち止まる。
『ここでいい』
『…送るよ』
『ううん。ここで』
さよなら。
声に出さずに。
階段を下りる。改札に向かう。
大勢の人に紛れて、切符売り場に並ぶ。
突然、腕をつかまれて振り返る。
怒った顔のあなたが、私の腕を引いて歩く。
『…どうして…』
掠れる声は、届かない。
柱の影で、あなたは私を睨むように見下ろした。
『帰したくない』
帰りたくない、と、言うのはいつも私だった。
どうして。
どうして、今なの。
18の私に、その言葉を与えてはくれないの。
私の肩をつかむあなたの腕に、しがみつく。
今だけ。一瞬だけ。
5年前の私に、その瞳を下さい。
黙って、首を横に振る。
小さく苦笑したあなたが、私の背中を引き寄せた。
まるで何かの儀式のように、唇が触れ合う。
あなたの口は、やっぱり、冷たい。
『……俺が負けたのは、初めてだな』
嘘つきだね。
そんな優しい嘘を信じられたら、あなたの思うような大人になれたと言えるのかな。
改札に向かう私に、あなたは1枚のカードをくれた。
『これ使えよ』
『平気。切符買うから』
『いいから。持ってけ』
ありがとう。
笑い合って、手を振り合って。
私は改札を抜ける。
たくさんの人の流れの中に、立ち止まったあなたがいる。
私の姿が消えるまで、きっと見ていてくれる。
振り返らない。決して。
手の中のカードを握り締めて、ホームへと上がる。
もう、振り向いても、あなたはいない。
カードの裏に目を留める。
あなたの住む町の駅と、仕事先の駅とを往復する記録。
この日は帰りが遅かったのね。
この日は途中で降りて、寄り道したのかな。
この日は遅刻ギリギリだね。寝坊でもしたの?
この日は―――。
てのひらの中に、私の知らない、今のあなたがいる。
その向こうに、あの頃の、あなたの姿が見える。
おはようの声に、眩しそうに細めた目。
疲れた顔をして、電車の窓から投げた視線。
見つめる私の瞳を、拒む横顔。
あなたは、どこまでも、ずるいよ。
人気のないホームの端に、崩れるようにしゃがみ込む。
下りの電車を2台見送る間、声を殺して泣いた。
―――春の夜が見せた、一瞬だけの、夢の、話―――。
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