頭の中が真っ白になるとか、目の前が真っ暗になるとか。
そういうことなのかも知れないけれど、あたしはそのまま動けずにいた。
向かいの席にいる蓮のお父さんも、黙ってテーブルの上を睨んだままだ。
隣に座った蓮に意識を向けることができずにいると、ふいに店内のBGMが耳につく。
夏の浜辺を思わせる、ゆったりとしたインストゥルメンタルが流れていた。
背後に波の音が聞こえそうな、どこか切ないメロディには聞き覚えがある。
――君といた最後の夏――あたしは何故かサブタイトルの方だけを思い出した自分に苦笑した。
「……ダメだ」
視線を上げないままで、蓮のお父さんが呻くように呟く。
「ダメって、何が」
「何がじゃないだろう。馬鹿なことを言うな。おまえが行ってどうするんだ」
「じゃ、親父が行くか? どっちにしろ、このままほっといたってしょうがねぇだろ。
あの3人は、無事に帰さなきゃならない。――こいつの妹だって、いるんだ」
蓮があたしの方を向いた途端に、あたしは雷に打たれたように体を震わせた。
――何を、どうすればいいのだろう。
由利江を助けたい。蓮を失いたくない。
あたしは、何をすればいいんだろう。
「――瞳子サン?」
何か言おうと思った。大丈夫よ。なんとかなる。そんな危ないことしないで。
……あなたが、帰って来られなくなるじゃない。
笑おうとした。少しでも。
それでもあたしの頬には、笑顔の代わりに涙がこぼれた。
「……瞳子……」
行かないで。
でも、あなたが行かないと、由利江は帰って来られないかも知れない。
どうすればいいの。
堪えきれずに両手で顔を覆ったあたしの背中を、宥めるように蓮が叩く。
「大丈夫だって。俺が行ったら、向こうの連中がっかりするよ。こんな跡継ぎいらねぇってさ」
「……蓮」
たしなめるようなお父さんの声に、蓮があたしの背中から手を離した。
「何が起こるか、こっちの人間には分からないんだ。軽率なことはするな。
――もう少し、待ってくれ。何か……手がかりを探すから。病院関係者だとか、当たってみるから」
「……そんな悠長なこと言ってられんのかよ」
「何も掴めなかったら、私が行く。私じゃ跡継ぎにはなれんからな。追い返されるさ」
「それこそ馬鹿だろ。Rh+の人間が行く方が危険じゃないのかよ」
「長くいなければいいだけのことだろう。……とにかく、少し時間をくれ」
あたしはようやく顔を上げ、蓮の目を見て頷いた。
黙ってあたしの目を見つめていた蓮が、大きくため息をつく。
「……分かったよ」
明日には大阪に帰って、仕事をひとつ片付けたらしばらく休みを取るからと言う
お父さんと別れて、あたしの部屋まで帰ってきた。
簡単な夕食を作って、向かい合って食べる。
――最後の夏。最初で最後の、君がいた夏。
そんなのイヤ。
向こうの世界に行ったら、蓮はきっと帰れない。
でも、他に方法があるの? ――病院関係者を当たって、何が分かるの?
「そんな顔すんなって」
とっくに食べ終わった蓮が、ほとんど減っていないあたしのお皿にフォークを持った手を伸ばす。
勝手にあたしの分のパスタを一口取って食べると、いたずらっぽく笑った。
「俺が全部食っちまうぞ。なんなら、食わせてやろうか?」
「い、いいわよ」
慌ててフォークを取るあたしに、また笑う。
「……蓮くん」
「ん?」
「……なんでもない」
それ以上は互いに何も話せず、黙って食事を終えた。
カーテンを通して入ってくる外の灯りに、暗い天井がぼんやりと浮かび上がる。
あたしは眠れずに、何度目かの寝返りを打った。
そちらを見るまいと思っていたのだけれど、とうとうあたしは目を開けて
蓮の寝ている布団の方を向いた。
――いない。
思わず飛び起きると、ベランダに面した窓際に座った人影が顔を上げた。
「――どうした」
「……え? ……あ……そこにいたの」
小さく笑った蓮が、また窓の外に視線を投げる。
遠くを見るような横顔に引き込まれるように、あたしはベッドから降りて隣に座った。
「眠れないのか?」
「蓮くんも、でしょ?」
「……まあ、な」
こっちを見ない横顔を、黙って見つめる。
息が詰まるような時間が過ぎて、ようやく蓮が振り返った。
「なんだよ?」
「……ううん」
「――心配、すんなって」
「うん」
「絶対、なんとかするから」
「うん」
「……ごめんな」
「え?」
「巻き込んじまって。妹も、おまえも――」
「そんなことない。蓮くんが悪いんじゃないもん」
「いや、でもさ」
「悪くない――誰も、悪くないよ」
そう。
自分達の世界を守ろうとした人達。
故郷と家族の間で揺れて、家族を守る決心をしたお母さん。
何も知らずにいて、突然起きた変化に戸惑いながら、解決しようと必死になっている蓮。
誰も、悪くないのに。
「――泣くなって」
どうしてあたしはこんなに、何もできないんだろう。
ただ、蓮のあとについて行って、こうして泣いているだけ。
もっと、強いはずだった。
1人で東京に出て来て、就職を決めて。
昌之と別れたって、1人だって何も怖くなかった。
やってらんない、て、ため息でもついて、醒めた顔して会社に通っていれば良かった。
誰を失うことも怖くなかったはずなのに。
あたしは、こんなにも、あなたを失うことが怖い。
「……」
泣き続けるあたしの髪を、蓮がゆっくりと撫でた。
静かで優しい瞳をして。
「……俺、さ」
あたしの髪を撫でながら、小声で囁くように言う。
「今は……これくらいしかしてやれないけど……いつか、全部、支えてやるから」
「……え……?」
「本当の俺に戻ったら……ちゃんと言うから」
驚いて顔を上げたあたしの瞳を、蓮が見つめていた。
――どうして、こんなに、真っ直ぐな瞳をしているんだろう。
「……蓮くん……」
「あの、さぁ」
それまでの張り詰めた空気を振り払うように笑う。
「その、蓮くんっての、いい加減やめてくんねぇ? なんかすっごく子供扱いされてるっぽいんだよな」
「そう?」
「うん」
「……じゃあ、あたしの『瞳子サン』だって、オバさん扱いみたいでヤダよ」
フクレた顔のあたしと目を合わせた蓮が、思い切り吹き出す。あたしもつられて笑い出した。
笑い転げるついでの振りをして、あたしは蓮の肩にもたれた。
あたしの肩に腕をまわした蓮が、また、静かに髪を撫でてくれる。
「……瞳子」
「なぁに?」
「俺の顔、覚えてる?」
「顔?」
「俺の、本当の顔。本当の声。思い出せる?」
蓮の本当の顔。本当の声――。
鏡の向こうで、驚いたように立ち尽くす顔。
あたしをからかう、低い声。
「……うん。覚えてるよ」
「ほんとに?」
あたしは顔を上げて、蓮の瞳を見つめた。
……覚えてる。思い出せる。
不思議と、今の蓮の顔に、重なる。
「――うん」
「……そっか。――忘れんなよ。俺、絶対元に戻るから。戻って――迎えに来るから……」
君がいた、夏。
終わらない。終わらせない。きっと。
あたしは黙って微笑むと、小さく頷いた。
いつの間にか、眠っていたらしい。
外はすっかり明るくなって、鳥の鳴く声が聞こえる。
蓮のためにしいた布団の上で、あたしは起き上がった。
「……蓮……?」
バスルームのドアをノックする。返事はない。
「蓮? どこ?」
いなかった。どこにも。
玄関のタタキにあった、かかとを潰したスニーカーが、消えていた。
「――蓮!」
――絶対、元に戻るから――戻って――迎えに来るから――。
ドレッサーの上でペンダントの青い石が、朝の陽射しを受けて光を放っていた。
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