駅から真っ直ぐに歩いて来ると、大きな川にぶつかった。
夕闇が迫る土手で、子供達が遊んでいるのが見える。
右手には鉄橋が架かり、時折轟音を響かせながら電車が通り過ぎた。
川沿いの道を歩く蓮に遅れないように、少し足を速める。
平井哲史――蓮の幼馴染の実家は、この近くにあるらしい。
どうやって話を聞くつもりなのかと訊くあたしに、俺の名前を出すしかないだろ、と答えた。
ようするに、蓮も同じく行方不明になっていることを心配した従姉――あたしと蓮が姉妹ということにして
――が、話を聞きに来たということにするらしい。
つまり、蓮は女の振りをすることになるわけだ。
といって、いきなりスカートなんか穿く気にはなれないらしく、
いつも通り『どっちとも取れる』ジーンズ姿だったけれど。
「――はい」
わりと大きなタイル貼りの家。インタホンから聞こえてきたのは、心細げな女の人の声だった。
蓮は咳払いをひとつすると、
「……先日お電話しました桐谷と申します。哲史さんのことで――」
普段より2オクターブくらい高い声で言うものだから、あたしは思わず吹き出しそうになった。
そのあたしの頭を蓮が黙って小突いたけれど、そんなやりとりはインタホンの向こうに届くはずもなく
「お待ちしてました。どうぞ。今開けます」
とさっきの声が答え、しばらくして玄関のドアが開いて細身の中年の女性が現れた。
玄関先で挨拶をしたあたし達は、応接間に通される。
フローリングの床に、ベージュのラグマットが敷かれた8畳くらいの部屋。
同じベージュのカバーが掛けられたソファに、蓮と並んで腰を下ろした。
「――まさか、蓮ちゃんまでいなくなるなんて」
蓮と従姉弟同士だという証拠はどこにもなかったけれど、蓮のお母さんを知ってる事と、
あたしと蓮がそっくりなことでとりあえずは信じてもらえたようだ。
「……哲史さんは、福岡の大学に行かれてるんですよね?」
と、蓮が訊く。
哲史くんという子は、蓮と同じ中学に2年まで通っていたらしい。
家族で杉並のほうへ引越して、その後福岡の大学に進んで一人暮らしをしていたということだ。
蓮と哲史くんとは、小学校の途中からあまり付き合いがなくなり、
中学校では同じクラスになったこともない。
そこでこの前大阪に帰った時に中学の卒業名簿を引っ張り出してきて、
哲史くんと同じクラスにいた友達に連絡を取り、そこから哲史くんと今でも親しくしている
友達を捜してもらい――やっと、辿り着いた。
そのすべてを女の声で、蓮の従姉ということにしてやっていたようだから、結構大変だったろう。
「ええ。どうしても教わりたい教授がいるとかで――こんなことなら、
目の届くところに置いておくんでした」
20歳になった息子に目が届くことのほうがどうかと思うけど。
そう思ってヘンな顔をしたあたしの脇腹を、蓮がつついた。
分かってますよ。余計なことは言いませんよ。
「――まあ、蓮のことですから無事だとは思うんですけど、
何か哲史さんのほうでご存知じゃないかと思いまして」
すましてそう言ったあたしに、蓮が不満そうな顔をする。
「……と、おっしゃられましても……あの子が中学生の時にこちらに越して来てから、
蓮ちゃんのことは全然聞いていなくて……」
そりゃそうだろう、という顔をして蓮が頷く。
しばらく『蓮ちゃん』で楽しめそうだということは出さずに、あたしも頷いてみたりする。
「……蓮の母親とは親しくしていらしたんですよね」
そう訊いた蓮の言葉に、哲史くんのお母さんの表情がようやく少し和んだものになる。
「年も近かったですし……同じ男の子の1人っ子同士ということで、
よく一緒に遊んだり、相談に乗ってもらったりしました。
――あんなふうに突然、出て行かれるなんて――」
「出て行く?」
蓮とあたしの声がハモった。
何かまずいことを言ったのかというように、彼女が口元を押さえる。
「……そう聞いてましたけど……何か事情があって、蓮ちゃんを置いて出て行かれたって。
……違うんですか?」
思わず2人で顔を見合わせた。
当時8歳の蓮は知らないのだろうけれど、表向きはそういうことにしておいたということか。
「え、ええ、まあ……いろいろありまして」
フォローにならないフォローをするあたしに、彼女も困った顔で頷いた。
「――ところで、同じ産院にいらしたと聞いてるんですが、その時に
何か変わった事はありませんでしたか?」
「変わった事……ですか?」
蓮にいきなり20年前のことを思い出せと言われて、それが息子の行方不明と
どう関わってくるのかも分からず、逡巡したように瞳が揺れる。
何かごまかせる言い訳をしようとあたしが必死になって考えていると、ふいにその瞳が晴れた。
「変わった事と言えるのかどうか分かりませんけど、蓮ちゃんのところと仲良くなったのは
血液型がきっかけなんですよ」
「血液型?」
またハモった。仲の良い姉妹だと思ったのか、彼女が小さく笑みをもらす。
「普通、生まれたばかりの赤ちゃんの血液型なんて、調べないものなんです。
あまりはっきりしたデータは取れないし、後で調べると違っていたりするので……。
でも、あの病院では、何かあった時のためにということで入院中に検査していたんです」
何のために。
生まれたばかりの赤ん坊の血液型が何の役に立つのだろう。
そんな小さな赤ちゃんの腕に針を刺すより『何か』あった時にだけ調べるほうがいいのじゃないだろうか。
「もちろん検査を拒否することもできたんですけど、私はやってもらったんです。
軽い気持ちでしたけど……大事なことが分かって、良かったと思ってます」
「大事なこと?」
今度はハモらなかった。そう訊いたのはあたしだけで、蓮は黙っていたから。
――少し、青い顔をして。
「はい。あの子の血液型はAで、蓮ちゃんはB型だったらしいんですけど、
2人とも、Rh−(マイナス)だったんです」
川沿いの道を歩いて駅に戻り、空いた電車のシートに並んで座っても、蓮はずっと黙っていた。
夜7時を過ぎていた。『お夕食でも』という哲史くんのお母さんの気遣いを辞退し、
暗くなった窓に映る2つ並んだ顔を眺めながら電車に揺られる。
同じ顔。同じ声。同じ体。――いつまで、続くんだろう。いつかは、戻れるんだろうか。
「言えよ」
「え?」
「おまえの妹も――Rh−、なんだろ?」
あたしは、向かいの窓の中で床に目を落としたままでいる蓮を見つめながら、ゆっくり頷いた。
あの子も生まれてすぐに検査を受けたんだろう。
あたしは中学に入った頃に、母からそのことを聞いた。
――由利江はちょっと特殊な血だからね。A型なんだけど、Rh−って言って、
あまり多くないタイプなんだよ。
……だから、万が一あの子が急に大きな病気や怪我で手術が必要になったりしたら――
その時お父さんもお母さんも近くにいなかったら、おまえ、ちゃんと病院に言ってちょうだいね。
――幸い、この年になるまでそんな事態にはならなかったけれど、
『万が一の時』を頭の隅に置くようにはしていた。
「て、ことは、最後の彼女も――そうなんだろうな」
最後の彼女――中野に住んでいる森田愛という子は、実家住まいの社会人だ。
哲史くんのお母さんに訊いたところ、同じ病院にいた人の中に心当たりはないようだった。
もちろん全員のことを覚えているはずもないのだけれど。
ただ、その病院に勤めていた看護婦さんが1人結婚して退職し、蓮のお母さんとは親しくしていたようで、
彼女もその頃子供が生まれていたはずだと話していたらしい。
その看護婦さんが、森田愛の母親なら。
やっぱり、蓮のおじいさんの病院に、すべてはつながっていることになる。
「結局――俺の方でなんとかするしかねぇな」
「……どういうこと?」
「じいさんはもう死んでる。病院もない。けど、じいさん一人で病院やってたわけじゃないだろ。
――他の関係者を当たる」
どうやって、と訊く前に、蓮は苦笑して顔を上げた。
「親父に連絡を取る。近いうちに東京の本社に来るはずだから。
会って――今の俺のままで会って、全部話す」
息を呑むあたしの瞳を、蓮が真っ直ぐに見つめる。
あたしと同じ顔、同じ声――でも、そこにある瞳は20歳の男の――蓮の、ものだった。
その瞳がふっと和らいで
「それしか、ねぇだろ」
と呟く。
あたしは頷くこともできずに、黙って蓮のシャツの裾をつかんだだけだった。
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