DKに続くドアとユニットバスのドアを通して、派手な水音が聞こえていた。
何やら鼻歌混じりに楽しそうに聞こえるのは、あたしの被害妄想だろうか。
さっさと出て来てほしいような、二度と出て来てほしくないような。
いや、二度と出て来ないのも困るけど。
やがて水音も途切れ、あっけなくドアが開いて蓮が部屋に戻って来た。
「くはー、さっぱりした! お先ー!」
豪快にタオルで頭をがしがし拭きながら歩いて来る。
腰にバスタオルを巻いただけで。
「っぎゃーーーっ!」
「うわわわっ! な、何だよ!」
「な、な、なんてカッコしてんのよ! 上も隠して! 上!」
「上? ……ああ、別にいいじゃん、自分のなんだし」
「そういう問題じゃないっつーの! 隠せバカぁ!」
半泣きになって抗議すると、慌てて腰のタオルを外す。
「ちょっと待っ……」
トランクス1枚だし。
モタモタと脇からタオルを通して、胸の前で端を折り込む。
「よし! これでいいか?」
「……いいけど……着替え渡したでしょ? ジャージ」
「暑いじゃんかよ。このやたら長い髪も、どうすりゃいいんだか」
「なんでドライヤー使わないのよ」
「だから、暑いって。俺いつも自然乾燥だしさぁ」
胸を覆うくらいの長い髪から、ポタポタと雫が落ちてきている。
あたしは仕方なく、蓮の後ろにまわって髪を拭いてやった。
「……何コレ」
「あん? 何が。どっか変か?」
「ぎっしぎしじゃない。ちゃんとコンディショナー使ったの?」
「あー、なんかいっぱい並んでて分からんから、シャンプーだけにした」
「やだもう! 髪が傷むっていうか、絡むでしょうが!」
「んなこと言ったって、あんなにいっぱい使えるかよ! 俺はリンスイン1本でいいっての」
「いっぱいってことないでしょ? 端からシャンプー、ヘアパック、コンディショナー、トリートメント。
この順番で使えばいいんだから」
「……何ですかその、こんでぃしょなーとかなんとかぱっくってのは」
「まあ、ヘアパックは1日置きでいいし、トリートメントは週2回くらいかな」
「は?」
「……いいわもう、明日髪切ってきて。で、コンディショナー……リンスくらいはして」
「へーい」
そんな話をしながら蓮の髪にドライヤーをかけ、冷たい麦茶を出してやる。
「あれ? ビールは?」
「ない!」
調子に乗るなってのよ。
蓮は麦茶のコップを受け取って一息に飲み干すと、床にあぐらをかいて座った。
「とりあえず、少し落ち着いたかな」
どこが落ち着いたのよ、どこが。
「別に健康状態に問題はないし、メシは食えるし」
「……誰のおかげよ」
「それはもう、瞳子様のおかげで」
「でも元々は――あたしのせいでもあるわけよね」
「へ? そうなのか?」
「そうじゃないの。あたしがそっちに転がり込んで、
挙句に一緒に戻って来なきゃ、何もなかったんだから」
「それは言わない約束でしょ」
「……なんのギャグよ」
「いやいや、そんなことないでしょ。狙ったわけでもないし、瞳子サンのせいじゃないって」
……気を遣ってくれてるんだろうか。
少なくとも、この人の言い方は人を責めないし、人を絶望させない。
だから、あたしはなんとか正気でいられるんだけど。
……普通にしていられるのが正気がどうかよく分からないけど。
「んで、さて、どうしましょうかね」
「いきなり本題に入ったわね」
「このままダラダラ居候しててもしょうがないし、方向だけでも決めとかないとねぇ」
「どっちに」
「どっちでしょう」
「……とにかくあんた、家に連絡しなきゃ」
「ああ、大丈夫。バイトの都合でしばらく友達のとこに泊まり込むってメールしといた。
いいね、メールって。どんな顔でもどんな声でもバレないし」
確かに。便利な世の中で良かったわ、この場合は。……あれ?
「蓮くん、携帯持って来てたの?」
「んなわけないでしょ。瞳子サンの借りました。友達のだって書いて。ありがとう」
「あ、そう……」
勝手に使ってくれたわけね。もう責める気にもならない。
「マサユキって、元カレ?」
「……! あんた、何勝手に見てんのよ!」
「いや、さっき瞳子サンがメシ作ってる間に親父にメールしようと思ってさ。
携帯持った途端に鳴るから、思わず出ちゃったんだよね」
……なんてことをしてくれんのよ。
「いや俺『もしもし』しか言ってないよ? 向こうがどんどんしゃべって、
電車が来たとか言って切っちまいやがっただけ」
「……何話したのよ」
「さあ? 『この前は言い過ぎた』だの『彼女とは別れた』だの『話を聞いてほしい』だの
ぺらぺら言ってたぜ? 俺が黙ってたら『やっぱり怒ってるよな』とか納得してたけど」
何なのよそれは。
昌之は同じ会社の2年先輩だ。1年半付き合って、先週いきなり二股が発覚した。
彼女とは別れられない、と言うから、身を引いてやったんじゃないか。
「モトサヤ狙ってんじゃないの? 良かったじゃん」
「何が良かったってのよ! ふざけんじゃないわよ!」
「お、俺が言ったんじゃないよ。イヤならはっきり断ればー?」
それが出来るなら、ズルズル付き合ったりしてないわよ。
「とにかく、あんたには関係ないから! もう勝手に電話出ないでよね!」
「へい。すいませんでした」
「お風呂入って来る! そこのクローゼットに客用布団があるから、勝手に出して寝てて!」
なんだか怒鳴りっぱなしのまま、あたしはバスルームに消えた。
なるべく顔を合わせないようにしていたのに、水曜日の夕方、あたしは昌之につかまった。
付き合ってた頃と同じように給湯室のある一角で待ってられても、嬉しくもなんともない。
今はそれどころじゃないし。
「――この間は、ゴメン」
この人のどこが好きだったんだろう、と考えてみる。
受付の娘と付き合ってるのが分かって、ショックだった。
頭に来た。泣いた。
今と同じに『ゴメン』と言われて、それが別れの言葉だと知って、悲しかった。
――何が、悲しかったんだろう。何に、傷ついたんだろう。
「……話すこと、ないから」
「いや、電話でも言ったけど、結局俺には瞳子しかいないって言うか……ほんとに、悪かった」
なんで、そんなに簡単に謝ってばかりいられるんだろう。
あたしは、この人の何分の一を知っていたんだろう。
「……瞳子?」
返事もせずに、廊下を歩き出す。
彼に対して本当に怒っているのか、どうでもいいと呆れているのか。
――怒っている振りをして気を惹きたいのか。
自分がどの『女』の位置にいるのか、分からなかった。
夕食の支度をしていると、電話が鳴った。
携帯じゃない、普通の電話。ということは、実家からの可能性が高い。
「瞳子サーン、でん……」
「出るな、触るな、動くな!」
「……出ませんよ。ひでぇなぁ」
どっちがよ。
泣き真似をする蓮を一睨みして、受話器を上げる。
果たして、予想通りに母の声が聞こえてきた。
「で、どうしたの?」
一通り『元気』の報告をして用件を尋ねると、しばらく躊躇ったあとで答えた。
「……由利江、そっちに行ってないわよね?」
「はぁ? 来てないわよ」
由利江は3つ下の妹だ。
地元で大学に通ってる――はず。
どうにもこうにもマジメなやつで、短大から東京に出たきり帰って来ないあたしには
あまりいい感情を持ってないようなのだ。
お互い様だけど。
別に嫌いじゃないし、可愛いとも思うけれど、なんとなく合わない。
どちらも一応大人になった今、それが分かってきたので一定の距離を保っている。
『私はお姉ちゃんとは違う』そう言うのがクセになっていた由利江が、
いきなり訪ねて来ることはまずありえない。
「由利江がどうかしたの」
「……帰って来ないのよ、昨夜から」
珍しい。夜遊びなんてするタイプじゃないと思ってたのに。ついにデビューしたか?
「まあ、大学生なんだし、飲み会くらいあるんじゃないの? 連絡しないのはアレだけど」
「そんなことも言ってなかったし、携帯もつながらないのよ――どうしたのかしら」
「……警察行く?」
「もう少し心当たりを探して、それからお父さんに相談するわ。
何かあったらすぐ連絡ちょうだいね」
「分かった。そっちもね」
心当たりなんて、あたしのほうにはない。
ここ数年のあの子の友達も、行動範囲も知らない。
「――なんかあったの」
気が付くと、蓮が心配そうに見ていた。
その顔はあたしと同じなのに、浮かんだ表情は相手を気遣う男の人のもので。
あたしは笑って首を振ると、夕食の支度を再開するために台所に戻った。
――これが、始まりだとは、知らずに。
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