2.
どのくらいそうやって固まっていただろう。
傍から見れば、今起きたばかりの双子の姉妹のように見えたかも知れない。
「あの……」
やっとかすれた声を出したあたしに、彼……彼か、一応。彼が顔を上げる。
「え……」
自分の声に驚いた顔をして、何度か咳払いをして、諦めたように口を開いた。
「見なくても分かる……今度は、俺が、あんたになっちまったんだな」
「そう……みたい。あたしは元に戻ってる……よね」
「どうなってんだ、これ……」
「さあ……」
「分かんないよな」
「そうね」
ゆっくりと立ち上がると、ドレッサーに向かう。
そこに映っているのは、あたしの部屋と、2人のあたし。
一応、という感じで彼が鏡を軽く叩いた。やっぱり、反応はない。
「どうすりゃいいんだ……」
「そうだ!」
思いついたあたしは、彼のそばに駆け寄る。
「さっき、あんたがあたしの手をつかんでたから反応したんじゃない?
今度は、あたしがこっちで手をつかんでるから、向こうに行ったらすぐ離せば、戻れるかも」
そうよ。きっとそうに違いない。
すごい思いつきなのに、彼はまるで期待してない顔であたしを見た。
「ま、やってみるか」
「何よ、もう! 馬鹿にしてるでしょ!」
「はいはい。とりあえず、やってみよう」
あたしは彼の左の手首をつかむ。間違って自分も飛び込まないように足を踏ん張って。
彼が右手を伸ばし、鏡に触れようとした途端――また、表面が歪んだ。
「え?」
「……なんだ今の……」
「……さっき、うちの鏡にあんたが映る前、同じようになってた」
「……マジ?」
「そっちは違った?」
「知らねぇ。俺、顔洗ってたし……」
そう言いながら、ゆっくりと手を伸ばす。鏡に触れる。軽く叩く。今度はもう少し強く。
「ぜんっぜん、お話にならないな」
「うー……どうなってるんだろう」
「今ので『閉じた』ってことか」
考えたくない。でも、そうなのかも知れない。
「どっちにしろ、今すぐ戻るのは無理ってこったな」
彼は、わざとらしく両手を広げて肩をすくめると、床にあぐらをかいて座り込んだ。
「ここ、どこ」
しばらくまた2人で座り込んで呆けていると、突然訊かれた。
「どこ……って、日本」
「あほぉ。俺が外人に見えるか? ……いや、見えたか? 日本の、どこだよ。関東だよな?」
「ああ、うん、東京。千葉に近いけど」
「そっか。昨日はこっちで――いや、あっちで、か。雨降ってたしな」
「そっちは、どこなの?」
「大阪」
「えぇ!? あんた全然標準語じゃない」
「越して来たばっかなんだよ。親父の転勤で、先週」
「あ、そう……前はこっちだったの?」
「うん。埼玉に近いけど」
「んじゃあんた、学校は?」
「行ってない」
「え、何、社会人?」
「社会のダニ」
「はぁ?」
「プータローっす。高校出てからフリーターやってました。そろそろバイト探そうと思ってたとこ」
「あ、そう」
「んで、そっちは? おツトメですか?」
「はぁ。中規模の証券会社で事務やってます。短大出て3年目です」
「そーですか」
気の抜けた会話を交わして、漸く彼の名前を訊いてないことに気付く。
「お名前は?」
先に訊かれてしまった。
「瞳子。川原瞳子。ひとみの、こ」
「へー……俺は、蓮」
「れん?」
「桐谷、蓮」
「……それ、本名? 芸名?」
「なんの芸をやれってんだよ。本名ですよ。と言っても、何も証明するものはないけどな」
そりゃそうか。
さて、どうしたものだろう。
このままここでこうしていても、彼――蓮が元に戻れる保証はない。
でも、あたしの姿になった蓮が家に帰っても――。
「あんた、家の人は?」
「親父だけ。まあ別に、俺が帰らなくてもなんともないけど」
「そんなわけないでしょ! 心配するんじゃないの?」
「しないしない。けっこうよくあることだから」
「あんたねぇ……大人なんじゃなかったの?」
「そんじゃ大人の瞳子サン、この声と姿でどうしろと?」
……確かに。変な女がいきなり上がり込んで来たと思われるでしょうね。
「で、そっちは、1人なわけ?」
「ああ、実家は――静岡。こっちで就職したから」
「ふーん。どっちにしろ、ここにいるしかなさそうだな」
なんでそんなに、のんびりしてんのよ。
こんなせまい1DKで、いきなり知らない女と暮らすことになって。
「あ、便所貸して」
「……どうぞ」
案内するまでもない。蓮はDKに続くドアを開けると、ユニットバスに消えた。
――ちょっと、待て?
「……ちょっと、あんた、ねえ、蓮くん! 待ってよ!」
ドアを叩くあたしに、水を流す音が聞こえた。
何食わぬ顔で、蓮が出てくる。
「何? 便所くらいゆっくり入らせてよ」
「いや、だから、その、もう――した?」
「はぁ?」
スタスタと部屋に戻る蓮のあとを、あたしは慌てて追いかけた。
「そんじゃなんですか? 俺は元に戻るまで出すものも出せないと?」
「いえ、あの、そうじゃないけど……それはもう、仕方ないけど……」
そう、仕方ない。いくらなんでもそれは無理だろう。……でも……。
「心配しなくても、この体じゃ何もできないから。そんな気もないし」
「あ、あのねぇ!」
なんなのよこの子は! とことん失礼なんだから。
「ああ、それと」
長い髪を揺らしてこっちを振り返った蓮が、にっこりと微笑んだ。
「あんた、ほんとに女だったんだな」
土曜日の午後のジーンズショップは、雨にも関わらず混み合っていた。
いや雨だから、か。
遠出はしないけど、買い物くらい行くか、という人が多いのかも知れない。
そろそろ梅雨に入る今の時期は、夏物を揃えようという気にもなるし。
あたしは入り口の買い物カゴを手に、奥の女物のコーナーに向かった。
ついて来ると思っていた蓮が、勝手に向きを変えて男物のシャツを手にしている。
「ちょっと! こっちでしょ」
「へ? いいじゃんこれでも」
「上に羽織るくらいならいいかも知れないけどね。とりあえず、こっちで見ようよ」
腑に落ちない顔の蓮の左の頬は、あたしが放ったビンタのおかげで薄赤くなっている。
あまりと言えばあまりの暴言にキレたけれど、こいつの立場も可哀想でその程度にしておいた。
とにかく腹減ったよ、という蓮に食事を出してやり、
今後の行き先が決まるまでうちに居候するしかない、という結論に落ち着いた。
どういうわけか、着ていたパジャマや下着まであたしと同じものだった蓮は、
何か着るものが欲しいと言い出した。
本気か冗談か、シャワー浴びていい? などと言う蓮に、夜までには心の準備をするから待ってと言って、
ジーンズとTシャツに着替えさせた。
どんなに頼んでも、ブラジャーだけは着けてくれなかったので、厚手のシャツを重ね着させた。
髪を後ろで束ねて、何かでもらったキャップをかぶって、薄い色のサングラスをかけて。
パッと見には、あたしとウリ二つには見えないだろう。
なるべく女っぽくないシャツやジーンズを選んでいると、
いつの間にか消えていた蓮がビニールの包みをいくつかカゴに放り込んだ。
アロハシャツのような原色や、シンプルなチェック柄の――トランクス。
「あ、あんたね、どうすんのよこれ!」
「俺が穿くに決まってんじゃん。瞳子サン、穿きたい?」
「バカ言わないでよ! ――今のあんたが穿くのもどうかと思うわよ?」
「やだよ俺、こんなちっちぇーパンツ。見えないとこぐらい、好きにさせてよ」
それ以上反論する気にもなれず、包みを他の服にまぎれ混ませるようにしてレジに向かった。
「――女2人でこんなもの買うのって、変だと思わない?」
「いいんじゃねぇ? どっちかの彼氏のものって感じで。あ、なんなら『彼氏』の分も買ってく?」
「……まだ殴られ足りないの?」
「あら、地雷踏んだ? 俺」
「踏んだ」
またしてもいたずらっ子の顔で笑う蓮を睨んで、ため息をつく。
――これから、いったいどうなってしまうんだろう――。