その朝、あたしは夢を見た。
誰かが呼んでいる――違う、あたしが、呼んでいるんだ。
白い光の中を、彼の名前を呼んで走り続けている。
目を覚ましたあたしは、自分が泣いているのに気付いた。
――行こう。
蓮を、探そう。
いろいろあったせいだろうか。突然欠勤の電話を入れても、あまり迷惑そうな反応はなかった。
まあ、あたし1人休んでもどうってことはないのかも知れないけど。
あたしは身の回りのものを詰めたバッグを持って駅に向かうと、大阪行きの新幹線に飛び乗った。
あの日――黙って目を閉じていた蓮。
何を思って、この道を走っていたのだろう。
――仕事を抜け出して、蓮のお父さんは時間を作ってくれた。
半月ぶりに、オフィスビルの中の喫茶店で向かい合う。
……夏が、終わろうとしていた。
「お元気でしたか?」
穏やかな顔で話しかける人を、あたしは複雑な思いで見上げる。
こっちに戻ってすぐ、蓮のお父さんにもらった名刺を頼りに連絡をつけた。
向こうで起きたことを電話越しに伝えると、彼は小さくため息をついた。
――きっと、帰って来ますよ。家内が――あの子をこのままにするはずはないですから。
努めて明るくしているような声に、反論することはできなかった。
あたしも、そう思っていたから。
でもそれなら、蓮のお母さんは。あの悲しく優しい笑顔の人は――。
「……何か、連絡は……」
「いえ、ないですね」
さらりと言って、コーヒーを飲む。
「家よりも、あなたのところに先に連絡するでしょう。あいつは」
「……そうでしょうか」
「そうですよ。やっと――見つけた場所ですからね」
見つけた場所。あたしは、蓮にとってその場所になれるのだろか。
「向こうで聞いた話ですけど……」
蓮が『マイナス』だという話を、あたしはお父さんに伝えてみた。
今までの蓮の生活で、本当にそんなことがあったのかどうか。
「……そうですか。確かに、あいつはそういうところがありました。
人当たりのいい明るい子ですから、すぐに友達はできるんです。でも、数ヶ月で離れてしまう感じで」
窓の外を、風が音を立てて通り抜ける。
台風が近づいているようなことを、確かニュースで言っていた。
「もっと真剣に人と付き合えと、説教したこともありましたね。
……あいつはその度に笑ってごまかして……一度、本気で怒った時はびっくりしましたが」
「怒ったんですか」
「ええ。めったに感情的になるやつじゃないと思ってたんですが、好きで嫌われてるんじゃねぇ、って
怒鳴りつけられましたよ――こっちに来てすぐのことでしたが」
――あの娘だ、きっと。
あんなことを言っても、彼なりに、真剣だったんだろう。
「もし――向こうで聞いた話が本当なら、可哀想なことをしましたね……」
「でも」
あたしは紅茶のカップを受け皿に戻して、顔を上げる。
「きっと、蓮はお母さんと一緒に向こうを『閉じた』と思うんです。そうしたら――
こっちに帰ってきた時には、もうプラスの存在になってるはずですよね」
気休めかも知れない。
何も、保証できるものなどない。
――いや、たったひとつ。あたしが蓮を待っているということ。
あたしにとって、まぎれもなく、蓮がプラスであるということ。
蓮のお父さんは、静かに微笑んで頷いてくれた。
結局、大阪では何も得られなかった。
蓮のお父さんが元気でいることを知っただけでも、良かったけれど。
病院の跡にも、何度も足を運んだ。
その度に、手が痛くなるほど鏡を叩いて叫んだ。
――そして、いつも、蓮の声が頭に蘇った。
蓮。
どこにいるの。どうしているの。
忘れるなんてできない。あなたの顔も、声も、あたたかい手も――。
会社の帰り道、アパートまでもうすぐのところで、あたしは足を止めた。
今、誰かとすれ違った。
振り返るあたしの目に映るのは、背の高い男の人――。
「……蓮……?」
その人は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「正解」
目を細めて笑う。いたずらっ子の笑顔。
駆け出したあたしを、抱き止める腕。
「蓮!」
「良く分かったな」
「当たり前でしょう!? 覚えてるって言ったじゃない。忘れないって、約束、した」
「……そうだったな」
抱きしめる腕を緩めて、あたしの頬を両手ではさむ。
「俺は、さっき鏡見て驚いたよ。自分がこんな顔してたって、忘れかけてた」
「何、それ――」
「いやマジで。だから――怖かった」
「……え……?」
「怖かった。おまえに分かるか――俺を、受け入れてくれるか。
このまま気付いてもらえなかったら、諦めようと思ってた」
あたしを見つめる蓮の瞳が揺れる。
「……バカね」
「ああ。ほんと、バカだ」
ここにいる。
今、ここに、この温もりは存在している。
何度も互いの体温を確かめるように触れ合って、あたしは蓮の胸の鼓動に耳をすます。
――生きてる。生きて、ここにいる。
「……蓮……あの……」
「……消えたよ、全部」
「全部――?」
「全部。向こうの世界も――お袋も」
口から飛び出しそうになった叫び声を飲み込んで、蓮の瞳を見上げる。
――同じだ。
あの時のお母さんと同じ瞳の色をして、蓮は静かに首を横に振った。
「初めから、こうなるしかなかった。――そう、言ってた。
ただ消えるだけのはずが、親父と出会えて、俺が生まれて――幸せだったって。
おまえの他にもいたよ。俺を――プラスだと思ってくれる人が」
「……もっと、たくさんいるよ」
背中に回した腕に、ゆっくりと力をこめる。
「これから、増えるよ。蓮を好きになる人が。蓮を必要とする人が。
いっぱい――友達も、……恋人、も……」
「それは、1人で充分」
笑ってそう言うと、あたしの髪をゆっくりと撫でる。
「約束したよな。本当の俺に戻って、ちゃんと言うって」
「……蓮……」
「瞳子……俺……」
あたしは微笑んで、蓮の首に腕を回した。
照れたように笑い返した蓮が、顔を寄せる。
あたしにとってのマイナス、そしてプラス。
結局は、初めから同じ数しかこの手には入らない。
いつか、すべてをゼロにする時が来るまで。
2人にとって互いがプラスでいられるように。
願いを込めて、あたしは瞳を閉じる。
――重ね合う唇の温もりが、すべてを包み込んでいった。
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