振り返った先には、何もなかった。
初めから何も存在していなかったかのように、暗い森が広がっている。
呆然と見つめるあたし達の前を、白い影が横切った。
一瞬だけ見てとれた笑顔は優しく――いつの間にか、過ぎ去った12年の時間をその瞳に湛えていた。
「お袋……?」
吸い込まれるように消えた場所の空間が歪む。
――まだ終わっていない。
そう言っているように見えた。
「……瞳子。こいつらを頼む」
「――え?」
「俺、ちょっと行ってくるから」
「……行く……って、どこへ」
「あっち」
蓮が指差す先は――歪んだ空間。
「な、何言ってんのよ! せっかく逃げてきたのに、馬鹿言わないで!」
「いや、こいつがさ」
ジーンズのポケットから、ブローチを取り出す。
「……持ってたの」
「ああ。たぶん、あれを『閉じる』にはこいつが必要なんだと思う。ちょっと届けてくるワ」
友達に借りた本でも返しに行くみたいにあっさり言うと、あたしを振り返った。
「瞳子……」
空間の歪みは、だんだん広がっている。
蓮はそっちを気にしながら、思い切ったように口を開く。
「俺、ほんとにあっちでは――俺達のいた世界では、マイナスなのかも知れない。
軽い付き合いの友達ならいた。好きになった女の子もいた。――でも、どういうわけか、
誰とも長く続かなかった。もう、人と真剣に付き合うのなんてやめようと思ってた。だから、もし――」
そこまで言って、歪んでいく空間を振り切るようにあたしの瞳を見つめる。
「もし、おまえにとって俺がマイナスなら――このまま、忘れてくれ」
あたしにとっての蓮。
明るくて、ふざけてばかりで、どこまで本気だか分からない言葉。
真っ直ぐな瞳。笑った顔。
あたしの髪を撫でる、あたたかい指先。
「……できるわけ、ないでしょ」
唇が震えた。一度固く目をつぶって、あたしは叫んだ。
「できるわけない! あなたを忘れるなんて、あなたを失くすなんて、できない!
世界中があなたをマイナスだと言っても、あたしには――」
蓮の右手を取る
華奢な、女の手。この手に抱えてきたものは、どれほどの大きさだったのだろう。
「プラスだよ。だから、このままなんて、絶対にイヤ」
「俺も」
蓮が笑う。人懐っこい、いたずらっ子の笑顔で。
「俺も、おまえっていうプラスを失くすなんてできない。だから――心配すんな」
「……蓮?」
あたしの手をほどくと、一度だけ軽くあたしの髪を撫でた。
「じゃあ、な」
そう言って片手を上げて、駆け出す。
「蓮! 待って! ――蓮!」
一瞬で、その細い背中は闇に消え――次の瞬間、世界は光に満ちた。
遠くで、誰かが呼んでいる。
――夢? 誰があたしを呼ぶの?
ここにいる。ここで、あなたを待ってる。
だから、帰ってきて――。
「……ちゃん、……お姉ちゃん、起きてよ、ねえ」
白い光に溢れたコンクリートの中――ここは、蓮のおじいさんの病院だ。
あたしの顔を覗き込んで肩を揺さぶっているのは、由利江だった。
「由利江……」
「……大丈夫? ねえ、なんでここにいるの? ここ、どこ?」
あたしはゆっくりと体を起こした。
院長室の前の廊下。
あとの2人――哲史くんと、愛という子も、ぼんやりとした瞳であたりを見回している。
「みんな……大丈夫?」
あたしの声に、3人が顔を見合わせて頷く。
「あの……」
かすれた声を出した哲史くんが、一度咳払いをしてから続けた。
「ここ、どこですか?」
「……東京の――H市よ」
「東京!? なんで――俺、九州にいたんだけど」
「え――覚えてないの?」
「はい。自分の部屋で朝起きて、洗面所で顔洗ったとこまで――」
「……由利江は?」
「あたしは――大学のトイレで手を洗って――」
そう言って、愛さんの方に視線を向ける。
「あ、あたしは会社の更衣室で自分のロッカーを開けてから――」
結局みんな、鏡の前だったわけか。
そして、連れてこられてからの記憶は、消えてしまった。
きっと、消してくれたんだ。彼女が――蓮のお母さんが。
「ねえ、どうしてこんなところにいるの? お姉ちゃんは?」
「あたしは――」
こいつらを頼む。無事に、元の世界に帰れるように。
――蓮――。
「……3人とも、産まれた時にこの病院に関わっているって知って、
ここに来れば何か分かるかも知れないと思ったのよ。
――そしたら、あんた達がここで倒れてたから……」
苦しい。
でも、他にうまい言い訳も思いつかない。
「……それで、何でお姉ちゃんまで倒れてたの?」
相変わらずマジメな、曲がったことが嫌いな妹が、険しい顔で訊く。
「あんた達を見つけて、生きてるのが分かったら気を失っちゃったのよ。
……最近あんまり休めてなかったから……」
さらに苦しい。
でも、結局あたしは、同じ話を両親や警察に繰り返し話すことになる。
1週間が過ぎた。
しばらくは大騒ぎだったけれど、3人とも無事に帰ってきたこっちの世界は、
ゆっくりと日常を取り戻していった。
両親は元気になり、由利江も学校に通い始め、あたしも――いつも通り会社に通う。
社内の人達が、あたしを見ても戸惑ったように視線をそらさなくなった頃、
あたしは懐かしい声に呼ばれた。
「――瞳子」
その人は駅に向かう途中の道に立って、あたしを待っていた。
かすかに、瞳に戸惑いの色を留めて。
「……昌之」
駅までの道を、黙ったまま並んで歩く。
互いに、どちらかが言葉を発するのを待っていた。
「――もう、落ち着いた?」
気遣うような昌之の言葉に、あたしは小さく頷く。
「妹も、両親もすっかり元気になったから――もう大丈夫。ありがとう」
「そうか――で、おまえは?」
「え? あたし? ――あたしは別に……」
「……彼は、元気?」
「彼?」
蓮のことか。一応、男に見えたらしい。
曖昧に笑って俯いたあたしの顔を、昌之が覗き込む。
「――うまく、いってないのか?」
「どうしてそんなこと……」
「元気ないからさ。――なんか、大事なものを失くしたみたいな顔してる」
この人は、鈍いんだか鋭いんだか分からない。
「……そうね」
「俺に言ってもしょうがないかも知れないけどさ。……何か、できることがあれば力になるから」
「……ありがと」
「多分……いや、絶対信じてもらえてないと思うけど」
足元に視線を落とした彼が、自嘲気味に笑って呟く。
「この前電話で話したのは、ほんとなんだ。あの子とは――その場限りだった。
俺は、やっぱり、瞳子が好きだった」
「……」
「分かってるって。今さらこんなこと言っても意味ないってことはさ。
ただ――俺なりにおまえを大事に思ってるつもりだから――
1人で悩まないで、話してくれたらと思ったんだ」
俯いていた顔を、2人同時に上げる。
顔を見合わせて、ゆっくりと微笑を交わした。
――付き合ってる頃よりも、優しい顔で。
「――分かった。大丈夫。――ありがとう」
もう一度そう言ったあたしに笑いかけた彼が、あたしの髪に手を伸ばす。
あたしは思わず、その手を払った。
「あ……」
「……いや、ゴメン」
「ううん。――ごめんなさい」
「いいって。そりゃ、イヤだよな」
「違うの。昌之の気持ちは嬉しいの。――触れられても、いいの。
例えば、あなたに抱きしめられても、キスされても平気かも知れない。
でも――髪を撫でるのは、やめて」
俺には、これくらいしかできないから。
優しい、あたたかい指を、忘れたくなかった。消したく、なかった。
「……瞳子……」
「ごめんね」
「いや。――ガンバレよ」
そう言ってあたしの肩をひとつ叩くと、会社に向かって歩き出す。
きっと、まだ仕事が残っているんだ。
なのに、あたしを元気づけようと、待っててくれたんだ。
……ありがとう。……サヨナラ。
もう触れることのない背中に呟いて、あたしは歩き出した。
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