「もしもし、お母さん? あたし。瞳子。ねえ、由利江の母子手帳持って来て! いいから早く!」
あたしは着替えもせずに、電話に飛びつくと実家の番号を押していた。
やはり、熟睡できていないのだろう。すぐに電話に出た母に、叫ぶように言った。
「――持って来た? 産科の住所書いてあるでしょ? 教えて。……え? 今はもうないって?
そんなこと知ってるわよ! とにかく、急用なの!」
どうにかこうにか、うろたえる母から病院の住所を訊き出すと、あたしはそのメモを掴んで
着替えと洗面を済ませ、部屋を飛び出した。
タクシーが拾える大通りまで走る。
化粧をしていないことなど、もうどうでも良かった。
――他に、思いつかない。
なんの確証もないけれど、あたしはそこへ向かった。
4階建ての古い建物は、そこにあった。
残っていてくれて良かった。他に手がかりがないんだもの。
元は白かったらしいコンクリートの塊は、夜中に1人で入るのはとても無理な雰囲気だった。
……朝で良かった。
そう思いながら入り口の扉を押してみるけれど、開かない。
鍵がかかっている――そりゃそうか。
でも、蓮はどこから入ったんだろう。それとも、別の所に行ったのかしら。
あたしはその考えを振り切るように足を速め、建物の周囲を探した。
――2階へ通じる、錆びた鉄の外階段がある。
手すりに触れないようにゆっくりと上って、細長いアルミのドアを引いてみた。
……開いた。
「――蓮?」
薄暗い廊下に、あたしの声が響くだけ。
あたしは思い切って、その中に滑り込んだ。
……怖い。
外から光が射しているとはいえ、全体に薄暗く、お化け屋敷になりそうだ。
ここは産婦人科。子供を産む人や、婦人科の病気の人が来るところだから、
ここで亡くなった人は少ないはず。
あたしは自分にそう言い聞かせながら歩く。……全然いないこともないかも知れないけど。
「蓮! れーーーん!」
もう周りの家のことなんて気にしてられなくて、蓮の名前を叫びながら階段を駆け上がった。
最上階に上がると、他の階よりグンとせまくなった感じがする。
廊下の突き当たりにドアが見える。……院長室。蓮のおじいさんの部屋。
その手前の壁に、妙なものがあった。
黄ばんだ布を釘で打ちつけてある。
今は、その端が破られ、上の方だけが壁にくっついていた。
――蓮だ。
あたしは夢中でその布をめくる――大きな鏡が、現れた。
そこにあるのは、青い顔をして立ち尽くすあたしの姿だけ。普通の鏡にしか見えない。
「蓮……ここにいるの?」
鏡の表面を撫でてみる。叩いてみる。……反応は、ない。
「蓮、蓮! いるなら返事して! どうやって入ればいいの!?」
叫びながら鏡を叩き続ける。手が痛くなってきた。
――もうやめろ、ケガするぞ!
蓮の声が頭に響く。
――思い出せるよ、蓮。
あなたの本当の声も、本当の顔も、忘れてないよ。
あたしはポケットに入れたペンダントを取り出した。
その石を握り締めた手で、鏡を思い切り叩く。――途端、あたしは『向こう』に転がり込んでいた。
別世界、だ。
そこは夜だった。
あたしが倒れた所は土の上で、湿った草の匂いが広がっている。
周りに目が慣れてくると、鬱蒼と茂った森の中らしいことが分かった。
……病院より、怖いかも知れない。
それでもあたしは恐る恐る立ち上がり、歩き出した。
――何だか、変だ。
しばらく歩くうちに、あたしは気分が悪くなってきた。
貧血でも起こしたみたいに、すうっと体中の血がどこかに持っていかれるような感じがする。
冷や汗が背中を伝った。
……あたしの血は、Rh+だ。
この世界には適さない。
その考えに思い至った時、あたしは黒い地面の上に崩れてしまった。
「……しっかりして……分かりますか?」
細い声が聞こえた。
ここはどこ……? あたしは……何が……そうだ……蓮!
「……れ……ん……」
口が重い。叫びたいのに、思うように声が出ない。
「蓮? あなた、蓮を知っているの?」
「……え……?」
重い瞼を開けると、若い女の人が顔を覗き込んでいた。
「あの……?」
「この世界の人じゃないわね? あなた、どこから来たの?」
「あたしは……」
「『向こう』ね。蓮とあの人の暮らす世界ね? そうでしょう?」
蓮。あの人。
……この人は……まさか……。
「蓮の……お母さん?」
「ええ。そうです。……大丈夫? 少しすれば体が慣れて楽になると思うわ」
そうです……って、この人、あたしとあんまり変わらない年に見えるんだけど。
さっき倒れた森の中に、あたしは横たわったままだった。
暗い森が広がり、どこかでフクロウか何かの声が聞こえる。
しばらくすると、確かに少しづつ楽になってきた。
あたしは彼女の手を借りて、ゆっくりと体を起こす。
「……蓮を、知ってるんですか?」
「え、ええ。……あの……ええと……」
どう説明したらいいんだ。
「あの子に何かあったの?」
「え、あの、こっちに来てるはずなんですけど……会いませんでしたか?」
「こっちに? ……あの子1人で? ――まだ小さいのに……」
「いえ、あの、20歳……のはずですけど」
「20歳!?」
彼女は目を丸くして、口元を押さえた。
「あら、やだ。そんなに経ってるの……じゃあ、あの人も心配してるかしら」
「って……こっちは違うんですか」
「ええ。時間の流れが違うのね。どのくらいのズレか分からないけど、
私はここに来て3日しか経っていないつもりなのよ」
3日。12年。……どうなってんの。
あたしはとにかく、蓮と知り合ってここに来たいきさつを話した。
「……そう、あの女の子があなたの妹さんなのね」
「由利江を知ってるんですか!? あの子、無事なんですか?」
「無事よ。3人とも。私は反対したのに、強引に連れて来てしまったみたい。
……蓮からペンダントが離れた隙を狙って、空間を歪めたのね」
「あの、哲史さんて人は――」
「そう。そうね、あの子はやっぱり哲史くんだったのね。――あの人達は、別に後継者を見つけて
来たようなことを言っていたし、私もあの子がこんなに大きくなっていると思わなかったから。
――そう。あの子が哲史くんなら、蓮もあのくらいになってるはずよね」
8歳だった息子が突然20歳になってしまったら、どんな気持ちなんだろう。
しかも、今はあたしの姿だし。
ほら、あんなふうに。
「――瞳子!?」
「蓮!」
やっと見つけた蓮に、あたしは駆け寄って飛びついた。
「馬鹿、おまえ、なんで来たんだよ!」
「ちょっと待ってって言ったでしょう!? いきなりいなくなることないじゃない!」
「んなこと言ったって、のんびりしてる場合じゃないっつうの! 俺が来るしか……」
そこまで言って蓮は、呆然と地面に座り込んでいる人に気付いた。
「……ここにいたのか」
「蓮……蓮なのね?」
「ああ。って言っても、今はこっちのヤンチャじじいどものおかげで、こいつと同じ姿だけどな」
「……あなたいつの間にそんなに口が悪くなって」
「うるせぇな! 今はそんなこと言ってる時じゃないだろ! 首謀者はどこなんだよ。
で、捕まってるやつらは無事なのか? こいつの妹は!?」
「無事よ。大丈夫。あなた、ここで迷っていたのね? この森でいくら探しても無駄よ。
――結界の向こうに、この世界の人達はいるの。私は、ちょっと向こうの――
あなた達のいる世界が心配になって、様子を見に一度戻ろうと思ってきたのよ」
「……12年ぶりに心配になったわけか」
「だって、そんなに経ってると思わなかったんだもの」
「――時間の流れが、違うんだって。お母さんには、3日しか経ってないはずなのよ」
あたしの説明に、蓮が顔を歪めた。
「……そう言や、あんた若すぎるな」
「なんですか、お母さんに向かって『あんた』なんて」
「だから、それどころじゃねぇっての! いいから早くその結界とやらの所へ連れて行けよ」
「……行ってどうするの」
「決まってんだろ、あの3人を連れて帰るんだよ。……お袋も、オヤジが待ってる。帰ろう」
「まあ、おフクロ……」
「それはいいから! こっちじゃ3日でも、俺達の世界じゃあの3人は1ヶ月行方不明になってんだ。
のんびりしてられねぇんだよ!」
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