夢の中で、誰かが呼ぶ声を聞いた。
声のする方へ行きたいのに、足が動かない。
こんな夢を見た朝は、決まって雨が降ってる。
――やっぱり、ね。
あたしはベッドの右側から聞こえるサーっという音にため息をついた。
目を閉じたままカーテンをからげて、曇ったガラス窓の向こうを伺う。
午前8時。
せっかく会社が休みの土曜日に、洗濯物も干せないっていうのはどういうわけよ。
起きる気にもなれないし、もう一度眠る気もしない。
週末なんて、来なければいいのに。
のろのろとベッドから這い出すと、ユニットバスの洗面台で顔を洗ってドレッサーに向かう。
つい習慣で動いてきたけど、別に今日は化粧なんかしなくていいんだ。
でも近所のコンビニに行くのすら、すっぴんだと抵抗がある。
まだ23歳。けど23歳。
彼氏と別れて1週間の独身OLは、どのくらい見た目を気にすればいいもんなのかしらね。
何度目かのため息をついて顔を上げたあたしは、一瞬鏡が歪むのを見た。
「……え……?」
気のせいか。
ぼんやりとブラシを片手に持ったあたしが映っているだけ。
苦笑して、試しににっこりと微笑んでみる。
――馬鹿馬鹿しい。1人で笑ってどうすんの。
「きゃぁっ!?」
今度はほんとに歪んだ。というより、水に油を垂らしたみたいに鏡の表面に奇妙な虹彩が蠢く。
ほんの2、3秒で歪みは消え、もとの普通の鏡に戻った――と思ったら。
目の前に、タオルを片手に口をぽかんと開けた男の子がいた。
「きゃあぁぁっっ!!」
「うわぁっ!!」
2人同時に叫ぶ。
あたしは思わず椅子をひいて立ち上がり、鏡の向こうの彼は、すぐ後ろの壁に縋り付くようにした。
「な、なんだあんた、誰だ!」
「あんたこそ誰よ! なんでうちの鏡に映ってんの!」
「そりゃこっちの台詞だ。どうなってんだよいったい!」
「分かんないわよ――なんなのこれ」
パニックになりながら、姿見兼用のドレッサーになんかするんじゃなかった、と考えていた。
立ち上がっても後ずさっても見える物は変わらない。
「おまえ、アレか、幽霊かなんかか?」
「はぁ!? 何言ってんのよ、人間よ。ちゃんと生きてる――はず」
「はず、ってなんだよ。死んでるのか?」
「生きてるわよ! これが――夢でなければ」
「……夢か。ああそうか、夢かもな」
さっき確かに目が覚めた気がする。
起き出して、顔を洗って、歯を磨いて、ドレッサーに座った。
あたしは自分の頬をつねった。軽く叩いてもみた。――痛い。
脈をとってみる。確かに生きてるようだ。
ふと見ると、向こうの彼も同じしぐさをしている。
「――夢にしちゃリアルよね」
「あんた、女?」
「な、何!? 失礼な子ね!」
「子!? どっちが失礼だよ、大人だぞ俺は!」
「大人ぁ!? 高校生じゃないの?」
「20歳だよ! 悪かったな! あんたこそ、オカマかと思ったぞ」
しばらく言われた言葉が飲み込めずに、あたしは口を開けて彼を見ていた。
そりゃ確かに、背は高いけど。好きで170cmもあるわけじゃないけど。
ついでにいうと、体質なのかなかなか太れなくて、胸だってあんまりあるとは言えない……けど。
自分の体を見下ろしたあたしに、彼はにやりといたずらっ子の笑顔を見せた。
それの……どこが……大人の男のすることだって言うのよ!
「あんたねぇ! 人を馬鹿にするのもいい加減に……」
頭に来たあたしは、鏡を叩いた。つもりだった。
どん、という衝撃の代わりに、あたしの右手が鏡にめり込み、肩が、頭が、めり込んでいく。
そしてあたしは、冷たい床の上に転がった。
「いったぁ〜……腰打った……」
古い木造の家、という感じの洗面所。
ピカピカに磨かれた板張りの床に手をついて起き上がると、ぎしっと床が軋んだ。
小さな洗面台。風呂屋の脱衣所にあるような四角い鏡は、端のほうが錆びていた。
すぐ横の曇りガラスの引き戸は、風呂場に通じているらしい。
顔を上げたあたしを、さっきの男の子が青い顔で見下ろして立っている。
「……何よ」
あれ?
声が変だ。
低すぎる。いくらなんでも、女の声じゃない。
「お、おい……」
ああそう、この声だわ。……って、……え……?
「鏡、見てみろ」
微かに震える唇が紡ぐ言葉に、あたしは痛む腰を押さえて立ち上がり、鏡を覗いた。
そこにいたのは――後ろで立ち尽くす彼と同じ顔をした男。
「きゃぁぁぁーっ! いやあぁっっ!」
「おい、待て、落ち着け!」
叫ぶあたしを後ろから抱きかかえるように、彼が押さえつける。
「なんかの間違いだ! もう1回叩いてみろ、きっと戻れるから!」
「きゃ……あ……? ……もう、1回……?」
「そう。多分、戻れる」
多分、て……。
あたしは他にやることも思いつかず、恐る恐る鏡を叩いてみた。
どん。
振り返ってみる。首を傾げた彼が、目顔でもう一度叩くように促す。
どん。どん。
――戻れない。
「ちょっと! ダメじゃないのよ! どうなってんのこれ!」
何度叩いても、びくともしない。手が痛いだけ。
「分かった、もうやめろ、ケガするぞ!」
「何が分かったのよ!」
手首を押さえつけられて、彼の顔を振り返る。
同じ目の高さ。うっすらと生えた髭。……ひげ?
とてもじゃないけど、自分のあごに触ってみる気にはなれない。
この子と同じ顔をしてるってことは、そしてどうやら男だっていうことは……体も……。
「いやあーーーっ!」
「うわ、ちょ、待てって! 叫んだってしょうがないだろ、なんか戻る方法考えるしか……」
「考えてどうなるのよ! 戻れるんなら考えるわよ! なんで叩いても……」
振り回した手が、また鏡を叩いた。
と、思った瞬間には、あたしはまた自分の体が傾ぐのを感じていた。
「うわあぁっ!」
どすん、という音をたてて、今度はパールグレイのカーペットの床に転がる。
見慣れた床。雨の音。肌で感じる空気。
慌てて起き上がったあたしの目に、並んで横たわる人が映った。
「いってぇ……なんだよ、どうなってんだ」
長い髪。シャンパンページュのシルクのパジャマ。
去年の誕生日にもらった、あたしのお気に入りのパジャマ。
床にあぐらをかいて座っているのは、まさに、あたしだった。
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