ほろ苦い甘さと、オレンジの爽やかな香りが口の中に広がっていく。
駅前の洋菓子店「楡の木」のオランジュ・ショコラ。
夏季限定販売だとは知ってたけど、まさか今日までとはねー。
帰る途中で見つけて、速攻ショーケースを覗いたら、最後の1個しか残ってないんだもん。
買うしかないでしょ。
彰は残業だって聞いてたから、終わるのを待って半分つして食べようと、会社まで戻って来たのよね。
そしたら尚也くんも一緒にいるじゃない。
しょーがない、3人で分けるのはさすがにアレだし、他のケーキも買って来てないから
1人で食べるしかないわよね、と自販機でコーヒーを買って、隣の会議室でこっそりおやつタイム。
給湯室にあったティースプーンですくって食べてることとか、どうせなら紙コップのコーヒーより
フォションの紅茶でも一緒のほうがいいとか、不満はあるけどしかたない。
でもやっぱり、うまー。
彰も初めは、オレンジとチョコぉ? なんて嫌な顔してたけど、一口あげたらすっかりハマってたし。
結構甘党なのよね、あの人。
『おまえらさー、どうなってんの、一体』
ドアを細めに開けておいたせいか、壁を通して聞こえるのか、彰の声が聞こえてきた。
もしかして、やっと問い詰める気になってくれたのかしら!?
あたしはアルミ皿に乗ったケーキを左手に、スプーンを右手に持ったまま、
会議室のドアの脇まで中腰で移動する。
こっちの音も聞こえるってことだもんね。用心しないと。
隣の部屋からは、要ちゃんのことを訊く彰の声と、『あぁ』とか『うん』とか適当に相槌を打つ尚也くんの声。
時々紙を仕分ける音とか、ホチキスを使うような音も聞こえてくる。
尚也くんと要ちゃんは、あたしと彰の会社の仲間だ。
尚也くんは彰の同僚で、要ちゃんはあたしが勤める経理課にバイトに来てる娘。
それぞれ同じ年だし、たまたま4人で会うことがあってから
尚也くんと要ちゃんも2人で会ったりしてるようだし、
なんとな〜く、カップル2組仲良しグループみたいになってきてたのに。
なんか今ひとつ煮えきらないのよねー、あの2人。
一緒に映画を観に行った後も、今度こそカラオケに連れて行こうと張り切っていたのに、
何か深刻そうな顔で2人で別行動を取られてしまった。何があったんだろうと心配していたら、
彰は『俺らでできることがあれば、言ってくるだろ。ほっとけ』と冷たいし。
でもそのあとなんだかぎくしゃくしてて、会社で会ってもあまり話もしないのに業を煮やして、
ちょっと強引に2人が会うように仕向けさせてもらったのよね。
まあ、それがきっかけでだいぶ穏やかな感じにはなってたんだけど、相変わらずはっきりしない。
好きなんでしょ? 付き合ってるんでしょ? と問い詰めたいとこなんだけど、
やっぱり『ほっとけ』と言われるし。
でもでも、なんか心配だよー。2人ともお互い好きなのは見てて分かるんだから、
あとはやっぱ尚也くんがはっきり要ちゃんに『好き』って言えばいいんじゃないのよー。
彰、ハッパかけてやってよー。と、最近しつこくお願いしてたのよね。
よしよし、覚えていたようじゃない。がんばってよ、彰くん。
『まあ、俺があんまり偉そうなこと言えないけどよ。――あいつをちゃんと守れてる自信はないし』
それまでと違って、言いにくそうな彰のセリフ。
え? それって、あたしのこと? いや〜ん、もう、あたし達のことは別に言うことないじゃないのよー。
でも、なんとか尚也くんをその気にさせようとしてるのは分かる。
結局、お人よしなのよね、彰は。
彰と初めて会ったのは、うちの会社の新歓コンパだった。
て言うと学生みたいだけど、女子の少ないこの会社では、経理や総務の新入社員の女の子が、
他の課の飲み会になんだかんだと理由をつけて呼ばれることが多い。
その『飲み会めぐり』の最後に呼ばれたのが彰のいる企画課だった。
それまで経理や営業の人達に『背高いねー』『スタイルいいねー』『モデルかなんかやってたの?』と
つきまとわれていたあたしは、隣に座ろうとした時の彰の
『げ。おまえここ座んのか?』と言う嫌そうな顔に面くらった。
すまして『いけませんか?』と言い返すと、『いいけどさ……
席立ってから並んで立つなよ』と言われて納得した。
あたしの身長は171cm。まあ、驚くほどじゃないけど、女にしては高いほうかな。
で、彰の身長は『自称』170cm。だけど、2〜3cmサバ読んでるんじゃないかというウワサ。
あたしは別にそんなのどうでもいいんだけど、彰のほうはやっぱり気になるみたい。
ふ〜ん、並んで立たれると嫌なのね。んじゃ、ずっとくっついててやろ。ぴた。
『なになに、加藤さん大西狙い?』なんてからかわれて『そうでーす』と答えてみたり。
なんか口悪いし、あまり性格良さそうじゃないけど、結構顔は好みだから、送ってもらうくらいならいいかな。
そう、その程度だったのに。
2次会に行く話が出始める頃、そろそろあたしは彰に
『これからどうする?』とか訊かれるかな、と考えていた。
三々五々席を立ち始めて、あたしのまわりにも離れた席にいた男の人達が
声をかけたそうな顔で集まり始める。
と、彰が席を立って、あたしに何も言わずに他の女の子の近くにいった。
その娘はあたしと同じ課に入った娘だけど、すごくおとなしくて、ほとんど誰とも話さない。
今日の飲み会に来たのも意外なくらいで、黙ってにこにこしていた彼女の存在をすっかり忘れていた。
彰が彼女に何か話しかけている。その彼女の顔色が悪いことに気付いて、あたしも近くに行ってみた。
『どうしたんですか?』『いや、黙って呑んでるな、とは思ってたけど、無理してたみたいだ。
気分悪いって言うから』
『え、ほんと? 大丈夫?』
『……はい』うつむいて口を押さえる彼女。あらら、ヤバそう。
『俺このコ送っていくから。おまえは……田野倉にでも送ってもらって』田野倉ってダレ?
彰はそばに立っていた背の高い男の人の襟をつかんで、『こいつ』と言った。
『他のやつらはすぐ調子に乗るから……んじゃ、気ぃつけて』と言うと、彼女を促して店を出てしまった。
もしかして、結構いい奴?
あたしのことも、一応気にしてくれてるとか?
帰り道、とりあえず『安全』と認定された尚也くんに送ってもらいながら、そんなことを考えていた。
思えばあれからあたしは彰が気になって、何かしら理由をつけては企画課の集まりに顔を出していた。
女っ気のない課だから、あたしが経理課のコを連れて混ざればみんな喜んでくれるし、
彰ともいろいろ話ができるようになっていった。
でもある日――。
『他の男には譲れねーから、これだけは』
そう言う彰の声が聞こえてきた。
……どうしよう。いくら尚也くん相手だって、彰が人前でこんなこと言うなんて。
そうとう苦戦してる? 尚也くんも、素直じゃないからなー。
じゃなくて。
いやー! どうせならあたしに直接言ってよ、もー。
そう、あの時も。
『おまえ、もうあんまりうちの課の集まりに来んなよ』
苦虫を噛み潰したような。そんな顔で彰はあたしに言った。
もう、会社の外でも尚也くんやうちの課のコを混ぜて遊んだりするようになってたし、
仕事以外では敬語もあまり使わなくなっていた。
『どうして?』『――おまえ、自分の見た目がいいこと自覚してんだろ?』『皮肉ですか? それは』
『そうじゃなくて。うちの課のやつら、独りもんが多いからさ……ヘタに期待させてもなんだし』
『どういうこと? はっきり言って下さい』『はっきり?』『そう』
彰は一度大きくため息をついてから、深く息を吸い込んだ。そして。
『じゃあ言うけどな、俺が嫌なんだよ。おまえが他の男と楽しそうに話したりしてんのが。
おまえ落ち込んでても、人前じゃそんな顔しないじゃんか。俺の前でも無理に笑ってんのが、嫌なんだよ』
そう一息に言うと、同じ目の高さであたしを見た。
『……だったら、早くそう言ってくれれば良かったのよ』
『あん?』
『あたしは、はっきり言うからね。好きよ、彰』
バン、と音を立てて隣の部屋のドアが開いた。
あたしは慌てて、咄嗟に机の下にしゃがみこむ。
廊下を駆け抜け、エレベータのボタンを叩き、駆け込む音がした。
あれは――尚也くん?
いつも落ち着いてて、と言えば聞こえがいいけど、
ようするにボーっとしてて、走ってるとこなんて見たことがない。
見とけば良かったかな。そう思いながら廊下に顔を出し、誰もいないことを確かめて、
隣の部屋を覗いてみた。
彰が1人で、疲れた顔をして肩のコリをほぐすしぐさをしてる。
ふと顔を上げてあたしに気付くと、やっぱり嫌そうな顔をした。
「へへへー」
「へへへじゃねぇよ。おまえいつからいたんだ」
「えー、ついさっき。どしたの? 尚也くん、どこ行ったの?」
そう訊くと、彰は黙って窓のほうに行き、外を見下ろした。
「なに? なんかあるの?」
「要ちゃんが待ってたんだよ。で、あいつは飛んでったわけ」
「えー、マジで?」
あたしも窓の近くに行ってみるけど、誰の姿も見えなかった。
「まあ、あいつが本気で走れば追いつくだろ。一応、言ってはみたからな。あとは知らねぇ」
「うん。ありがと」
そう言って、彰の背中から抱きついてみる。
「ね、どうなったかな。ラブラブ? ラブラブ?」
「知らねーって。なるようになるんじゃねぇの?」
もう、冷たいんだから。
そう思ってフクレると、彰が首をひねって顔を寄せてきた。
いち、にぃ、さん、と数えるくらいの間。慣れたリズムで唇を合わせて。
顔を離して目が合った彰に、ん? と、とびきり優しく笑いかけてみた。のに。
「――おまえ、ケーキ食ったろ」
うぇ? そう来ますか?
思わず口を押さえたあたしを、彰の冷たい視線が見下ろしていた。
あたしがちょっと腰をかがめ気味にしてしまったせいなんだけど。
「やっぱりな。アレだろ。夏季限定のオレンジショコラ」
「ち、違うもーん。オランジュ・ショコラ」
「どっちでもええわ。確か今日までだったよな」
なんで知ってんのよー!
「うろたえてるとこ見ると、最後の1コ、1人で食ったな」
……鋭い男ってイヤ。
「んじゃ、ペナルティ。これ手伝え」
見ると机の上には、やりかけのプリントの山。
「仕分けるのは俺がやる。おまえ番号順に並べて、綴じろよ」
「なんであたしが企画の仕事やるのよー」
「田野倉をけしかけるように言ったのはおまえだろ。んで、あいつは飛び出して行っちまったし。
最後のケーキは1人で食うし。早く仕事終わらせねーと帰れないし」
「……分かりましたよ、やりますよ」
ぶーぶー言いながら仕事にかかる。
今頃あの2人は会えたのかしら。今度こそちゃんとくっついたかしら。
見えない窓の外に視線を向けていると、まるめたコピー用紙が飛んできて頭に当たった。
「ほれ、真面目にやれ」
思い切り口をとがらせたあたしを、彰が笑いながら見返す。
それは、あたしの一番好きな笑顔。
そう、とりあえずは、幸せなんだと思う。
この雨の中で、おそらくは想いを伝え合っている2人に負けないくらい――。
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