5.
僕が前にいた営業所の課長は、四十代の半ばだ。
もちろんというか、奥さんも子供もいて――小枝子は、それを承知で付き合っていた。
「よう、元気か」
「……はい。おかげ様で」
何のおかげだろう、と自問する。当たり前のように型どおりの返事を返して、 無難な表情を作り上げる自分に、吐き気がする。
――どうしようもなく、ガキだと、改めて思った。
「近くまで来たから、調子はどうかと思って」
「そうですね、何とか例の企画のほうも目処がついて来てますし……まだやることは多いんですが」
「そうだよなぁ。この前のK社の件はどうした」
「はい。担当の人が変わったんでちょっと手間取りましたけど、八割方は済んでます」
「そうか。うん。おまえならやると思ったけどな」
何がだよ。俺の何を、分かってるって言うんだよ。
そんな言葉が胃の底からこみ上げてきて、僕の体を一巡りして足の先から地面に吸い込まれた。
全部が消えるまでの一瞬、僕は黙って無意味な笑顔を作る。
「今は忙しいだろうけど、もう少しで落ち着くだろ」
「ええ。その予定です」
「まあ、そしたらまたこっちにも顔出せよ」
「はい」
顔を出して、笑って会話を交わすその中にいた一人が消えたことなど、言葉の端にも出さない。
エレベータのボタンを押して、下りの箱に乗り込みながら屈託なく笑う人に、僕はいつものように軽く頭を下げる。
――その自分の頭を、後ろから殴りつけたい衝動に駆られながら。
ドアが閉まって箱が下りて行っても、僕はしばらくそこに立っていた。
煙草を吸う気にもなれないし、その辺の壁を殴りつける気にもなれない。
ただ、自分の存在の無力さと、何も言わずにいる小賢しさと、それに苛立つ子供っぽさに、呆れるばかりだ。
――頭を切り替えろ。まだ退社したわけじゃない。俺は、一人でここにいるわけじゃない。
「あ、主任! お客さん帰りました?」
場違いなほど明るい橋本の声に、我に返る。
「……ああ、今」
「すいません、この資料なんですけど、どれ見て作ればいいんですか?」
半分泣きそうな言い方に、思わず苦笑する。
こんな僕でも、こんな場所でも、必要としてくれるなら。それに応えられる何かを、僕が持っていると言うのなら。
――たとえそれが、子供の僕が拒む偽善だとしても。
帰りの電車に揺られている途中で気が変わって、僕は電車を乗り継いで自分の部屋のある駅を通り過ぎた。
実家まで――夏菜の家まで、行くつもりで。
途中で携帯に電話を入れると、今バイトが終ってこれから帰るところだと言う。
夏菜は今年から喫茶店でバイトを始めた。時々帰りが遅くなるようで、それも心配の種だったけれど、
そういう経験も必要だろうと僕は自分に言い聞かせていた。
駅前でしばらく待って、ようやく夏菜の笑顔に出会う。
平日に会うなんて珍しいことをするくらい、どうしても、この笑顔に会わずにいられなかった。
十二月の風は冷たく、夏菜の頬は夜目にも青ざめて見えて、僕はどきりとする。
「……体調、悪いのか」
「う……ん、まあ」
「病院は」
「……それほどでもないよ」
「バカ。早く行って来いよ。最近おまえ食べないじゃないか」
「そうかな」
「そうだよ」
言いながらだんだんと家が近づいて来る。明日も互いに仕事や学校があるし、
顔を見たかっただけだから、家まで送って帰るつもりでいた。
「……なんかね」
「うん?」
「うまく、飲み込めない感じなの。食べるものがすごくパサパサして、味気なくて、喉に詰まるみたいで」
――何か、精神的なことじゃないのか。
まず、僕はそう思った。拒食症とまではいかなくても、一番影響するのが食事と睡眠だから。
「……何かあったのか」
「え? 別に」
「ちゃんと言えよ。あと、やっぱり医者に行ったほうがいい。内科的なことで異常がないか診てもらって……」
精神科を勧めるのは少し抵抗があった。何より、体そのものに何もないか確かめるのが先だ。
二つ並んだ家の玄関の灯りが見え始めた頃、夏菜が口を押さえた。
「……おい、大丈夫か」
「う、うん、ちょっと」
「もうすぐだから。帰って、どこか夜間でもやってる病院に行こう。俺も行くから」
「大丈夫。たいしたことないよ」
「何言ってんだよ、叔母さんだって心配してるだろ」
「……うん。具合悪いんじゃないの、て言われた」
「ほら、だから……」
ふと歩調を緩めた夏菜が、僕を見上げる。
ほんの少しどこかが崩れたら、泣き出しそうに張り詰めた顔をしていた。
「なあ、どうしたんだよ。俺に言えないようなことか?」
「……そういう、わけじゃなくて……」
しばらく迷った。夏菜は青い顔をしていて、早く休ませてやりたい。
けれど、このまま家に帰せば、何が原因なのかも聞き出せないだろう。
実家の玄関の灯りは点いていたけれど、家の中は真っ暗で人の気配がなかった。母は夜勤だろうか。
上着のポケットにあるキーホルダーには、部屋の鍵と車のキー、会社のロッカーキーの他に、実家の玄関の鍵もあった。
「……とりあえず、うちに入ろう。誰もいないみたいだし」
僕は夏菜の肩を支えて、玄関の鍵を開けた。
いったい何を悩んでいるんだろう。
それよりも、体に悪いところがないか診てもらわないといけない。
どっちにしても、近いうちに一緒に医者に行こう。土曜日なら時間が取れるだろうし。
僕がそんなことを考えている間トイレに篭っていた夏菜が、やっと出てきた。
「……落ち着いた?」
「うん。ごめんね……」
ぎこちなく笑う顔も、少し痩せた頬も、僕の胸を突き刺すのに充分だった。
「今度の土曜日、医者に行こうな。俺なんとか時間空けるから」
「え、いいよ。大丈夫。忙しいんでしょ」
「それどころじゃないだろ! じゃあおまえ一人でか叔母さんと一緒に行けるか?」
そう訊くと、少しためらった後で首を横に振る。
「……じゃあ、何も言うな。とにかく、体のほうを診てもらって、それからだよ」
「それからって?」
「だから……そういうのって、何かのストレスかも知れないだろ。そうしたら、また他の手を考えるよ」
夏菜の視線が揺れて、僕から逸らされた。
「……やっぱり、俺には言えないか?」
「そうじゃ、なくて……」
唇を噛んだ夏菜が、僕の上着の袖をつかんだ。その視線を追いかけるように、顔を覗き込む。
「……どうした」
「あの……でも……まだ何も確かめてないし……」
「うん?」
「でも……」
顔を上げた夏菜の瞳から、涙がこぼれ落ちる。僕はその頬を拭おうとして、次に発せられた言葉に手を止めた。
「……今月、ないの」
すうっと、体の脇を風が通り抜けて行ったような気がした。
まともに周りの空気を感じられる感覚が、その風に奪い取られたみたいに消えて行く。
そのくせ頭の中はすごい勢いで回っていて、僕は咄嗟に言葉が出なかった。
「それ、つまり……」
どういうこと、と訊くほど野暮じゃない。そして、身に覚えがないわけでもない。――気を付けていたつもりだけど。
「あ、だから、全然確かなことはなくて、でも、あの……自分で確かめようかとも思ったけど……怖くて……」
言葉の終わりが震えた夏菜の肩を引き寄せて、自分の胸に押し付けるように抱きしめる。
何を言えばいいんだ。どうすればいいんだ。
答えなんて決まってる。思ったより早くなっただけで、互いにいつかそこへ行くことを選んでいたんじゃないのか。
――でも、夏菜はまだ、学生で。
これからまだまだやりたいことがあって。こんなに早く、僕に縛り付けてしまうことが、正しいのかどうか。
それでも、後には引き返せない。
「――分かった」
「え?」
「明日にでも、病院に行こう。そうでも、そうでなくても、早く確かめたほうがいい」
「うん……違うとは、思うけど」
「分からないだろ。そりゃ気を付けてはいたけど――絶対とは言えないし」
「そうだけど……もし、そうだったら、ケンちゃん、どうしたらいい?」
小さく震える手を握って、僕はゆっくりと笑った。
「……何も、心配するな。そうしたらまたちゃんと相談するけど、おまえが良ければ――俺は、産んでほしいよ」
確かに僕は、そして夏菜も、自分達以外のことに対する感覚が途切れていたのかも知れない。
いつ玄関のドアが開いたのか、まるで気が付かなかった。
「――それ、本当なの」
突然かけられた声に、僕と夏菜は飛び上がるようにして離れる。
仕事帰りの服装の母が、居間の入り口で硬い表情を浮かべて立っているのに、やっと、気付いた――。
〜fin〜
あと書きはこちらです
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