4.
長い橋を渡った向こうに、重々しい構えの城が見えてきた。秋晴れの空は眩しく、黒い瓦屋根をくっきりと縁取っている。
――十月の連休を利用して、ちょっとした小旅行に出た。
高速を使えば二、三時間で着いてしまう旅なのに、二人で旅行に来るのなんて初めてだからか、
夏菜は先月から楽しみにしてくれていた。
僕にしてみれば、結構思い切った決断だったと思う。
たまに適当な言い訳をして僕の部屋に泊まりに来ることはあるけれど
――そしてそれは、恐らく叔母さんを騙しきれてはいないだろうけれど。
もちろんというか、夏菜は一応友達に『アリバイ』を頼んできたらしい。
でも結局は僕もここに来ているわけだし、バレないという保証はない。
それならそれでいいか、という、開き直りに近い気分になっているのも確かだった。
「うわー、大きいねぇ」
「上まで上がると、結構あるな」
「人いっぱい来てるね。あ、あっちに資料館みたいなのあるよ」
一通り資料館を回って、飲み物を買って少し休むと、ようやく城の中に入った。
「なんか薄暗いね」
「そりゃ、電気なんか点いてるわけ――」
僕は上の階に続く順路を見て、足を止めた。
どう見ても『はしご』と呼ぶしかない急勾配の階段が上まで伸びている。
そしてまわりには大勢の観光客がいて、次々にそのはしごを上り下りしていた。
「てっぺんから街が見渡せるんだって。天気いいから、良く見えるよね」
「――ちょっと、待て」
楽しげに階段に向かう夏菜の腕をつかんで、引き寄せる。
「え、何?」
「いや、おまえは止めとけ」
「何で?」
「何でって……何でそんなスカート穿いて来るんだよ」
声を潜めて言った僕に、夏菜が自分の脚を見下ろした。
「変?」
「じゃなくて、短すぎ」
「そうかなぁ。このくらい普通だよ。あ、ほら」
指差すほうを見ると、夏菜より短いスカートの女の子が、何食わぬ顔で階段を上っていく。……あれは、見えるだろ。
「ケンちゃん、口開いてる」
思わず咳き込んだ僕を見て夏菜が笑い出すと、ぱっと駆け出して階段を上がった。
「あ、おい、待てって!」
「大丈夫だよー」
僕は慌てて追い付くと、夏菜の後ろをガードするように立った。
「もう、平気だってば。見えてもいいヤツ穿いてるし」
「何だそりゃ……そういう問題じゃないんだよ」
クスクス笑う夏菜の横顔が、細い窓の隙間から射す光よりも眩しくて真っ直ぐに見られない。
――このまま、僕の手をすり抜けて、蝶のように飛んで行ってしまいそうだ。
今すぐ抱きしめて、閉じ込めてしまいたい衝動に駆られて、僕は唇を噛む。
夏菜は本当に飛べるんじゃないだろうか。
窓の向こう、抜けるような高い空の上まで。僕じゃない誰かの、腕の中まで。
何か夢を見ていたような気がする。
目を開けると、白い天井が視界に入ってきた。やけに暗い。
――そうか、家じゃないんだ。
カーテンの隙間から微かに光が差し込んでいるものの、自分の部屋に比べるとずいぶん暗かった。
遮光カーテンのせいだろうな、と思い至る。
僕は右手を伸ばして手探りでフットライトを点け、隣の夏菜の寝顔をそっと見た。
ツインの部屋を取ったけれど、ベッドは結局ひとつしか使っていない。
カバーがかかったままのもうひとつのベッドを見て、一応使ったように見せておこうか、などと考えてしまう。
時間はもうすぐ夜中の一時だ。こういうところは空調を切っていても、密閉性が高いせいか空気が乾燥している。
夏菜を起こさないようにベッドから降りて、水を一杯飲んだ僕は、暗闇の中で携帯のランプが点滅しているのに気付いた。
マナーモードにしておいたけれど、メールでも届いたんだろうか。
何気なく手に取って受信をチェックすると、着信履歴に良の名前があった。
――あいつが携帯にかけてきたことなんて、あったかな。
いやそれよりも、家を出てから一度も連絡してこなかったのに、何かあったんだろうか。
着信は夜の十一時。その時はすでに半分眠っていたかも知れない。
しばらく携帯と枕元の時計とを見比べて、僕は部屋のキーを手に廊下へ出た。
突き当たりのロビーで良の携帯に電話をかける。三コール目で相手が出た。
『はい』
「――ああ、俺。電話くれた?」
『うん』
「悪い、遅くに。起きてたか?」
『仕事中だから』
「そうか。閉店までいるんだな」
『そう』
「で、何だ」
『……別に。こっちはなんとかやってるから、それだけ。報告』
相変わらずぶっきらぼうな物言いに、苦笑がこぼれる。何か冷やかすようなことを言えば、そのまま電話を切られるだろう。
「あ、そう。元気にしてんのか」
『してるから、報告』
……しょうがねぇヤツだな。
「分かった。まあ、たまには帰って来い」
『……時間あったら』
「うん。あ、仕事中だよな。……えー、体には気を付けろ」
どうしてもこういう『オヤジ的』なことばかり言ってしまう。あまり長話もできないし、うまい言葉もみつからない。
と、電話の向こうで良が笑う気配がした。やっぱり、あいつも苦笑しているんだろう。
『じゃ』
「ああ」
他にもっと、言うべきことがあったような気がする。
仕事はどうなんだとか、留学する準備は進んでるのかとか、ちゃんと食っていけるのかとか。
この前は言い過ぎたかも知れない。もっと話を聞いてやれば良かったかも知れない。
そんな弱気な言葉ばかりが浮かんで、僕は大きく息をついた。
人気のない深夜のロビーは、必要以上に明るい。どこの部屋からも何の音もしない代わりに、低く静かな曲が流れていた。
隅の自販機でビールを買おうか一瞬迷って、やめた。
そのまま部屋へ引き返し、なるべく音を立てないようにドアを開けて入る。
「……ケンちゃん……どしたの」
眠そうな声がベッドから聞こえて、僕は思わず首をすくめた。
「ごめん、起こしたか」
「ううん……どこ行ってたの?」
「ああ、ちょっと電話があって……良から」
「良くん?」
「うん」
窓ぎわのソファに座ろうかとも思ったけれど、あまりの部屋の暗さに、結局夏菜の隣にもぐり込む。
「……元気にしてた?」
「みたいだな。寝てる間に着信があってさ。さっき目が覚めたからかけたら『なんとかやってるから報告』だとさ」
伸ばした左腕の中に納まった夏菜が、小さく笑う。
「良かったね」
「……まあな」
全部見透かされている気がして、照れ隠しに枕元の灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。
「ベッドでの喫煙はご遠慮下さいー」
「昔そんな歌があったなあ」
「そうなの?」
「……いや、それはいい。一本だけ、見逃して」
「火事になったら自分だけ逃げるでしょ」
「そりゃもちろん」
そう言った僕の脇腹をつねった夏菜の頭が、僕の胸から枕へ移動する。
「良くん、そろそろ電話してくると思ってたんだ」
「ほんとかよ」
笑った僕の肩に頭をぶつけるようにして、夏菜が仰向けになる。
「……だって、良くん甘えんぼだもん」
今度は僕は吹き出した。夏菜にこう言われた時のあいつの顔が浮かぶ。
「ほんとだよー。ケンちゃんや伯母さんのこと、気になってしょうがないんだよ。そのうち謝ってくると思ってたもん」
「お兄ちゃんゴメンなさい、て?」
「それはないけど」
「……あいつのほうが、大人だからな」
「え?」
「いや最近、俺は自分がどんだけガキだか自覚し始めてるから。……俺から電話するなんて、まだできなかったと思う」
もっと、自嘲を含めた言い方になるかと思った。
けれど僕の口から出たその言葉は、不思議とすんなり胸の奥に収まった。
夏菜は、何も言わなかった。
僕が煙草を消すのを待っていたように腕の中に体を寄せて、僕を抱きしめるように腕を回す。
「……夏菜?」
小声で囁いた僕に顔を上げた夏菜が、微かに笑う気配がした。
僕も自然と微笑んで、華奢な体を抱き直す。――たぶん、さっきよりも、いい夢が見られるだろうと思った。
秋から冬にかけての僕の仕事は、イヤになるほど忙しかった。その間に小枝子は会社を辞め、
また一人愚痴を言う相手が減った僕は、なんとなくやりきれない思いを抱えて過ごしている。
――最近、夏菜にもあまり会えていない。
休みの日も半日会社に出たり、家でする仕事があったりで、どこにも連れて行ってやれなかった。
たまに部屋に遊びに来てくれるだけの夏菜は、何も言わずにいてくれたけれど。
その夏菜が、この頃少しおかしいような気がする。
まず、食欲が落ちた。
夏の間はなんでも食べていたと思うのに、普通なら食欲の増すこの季節に、食事を半分近く残すようになっていた。
一度医者に行ったらどうだ、と僕は言ったけれど、大丈夫、と笑っていた。
心配なのには違いないのに、病院に引っ張って行くような時間も取れない。
……近いうちに、叔母さんに話しておいたほうがいいのかも知れないな。
「主任ー、お客さんですよー」
帰ろうとする時になると、どうしてこいつの声がかかるんだろう。僕はドアの前に立った橋本のほうを見て、顔をしかめた。
「どうします? 応接室に通しますか?」
「誰? 業者の人?」
「いえ、なんか他の営業所の人らしいですけど」
「何だ、うちの人間か。――どこにいる?」
「中に入ってもらおうとしたんですけどね、ちょっと顔出しただけだからって、廊下で待ってます」
こいつの接客態度も、もう少し指導したほうがいいかも知れない。
とりあえず席を立ってドアに向かう間、今後のことを考えて頭が痛くなった。
「お待たせしました、野上ですが」
廊下に顔を出す一瞬で、外部向けの顔に切り替わる。――自分の造りの単純さがイヤになる瞬間だ。
エレベータホールの窓のそばに立っていた男が、こっちを振り返った。
「……課長」
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