ブラインドを閉め切り、照明を落とした会議室のスクリーンに円グラフが浮かび上がる。
僕ら営業課の係長がその前に立って、レーザーポインタでグラフを指しながら解説をしていた。
「えー、まずはこちらのTK6401における昨年度の売上高でありますが……」
今回は企画開発課、製作課との合同会議だ。この本社ビルで一番広い会議室に、スーツ姿の男達が椅子を並べて話を聞いている。
僕は見るともなしに前方にいる野上さんの背中を見て、隣の有也の顔を伺った。
相変わらず、飄々とした顔で退屈そうに目を細めてスクリーンを眺めている。
台詞をアテレコするなら『こんなもん俺にまかしときゃバンバン売ってやるよ』てとこか。
薄暗い会議室と、半分くらいはまともに話を聞いていないような雰囲気に、僕は高校の視聴覚教室を思い出す。
いくつになっても、組織の中にいる限りは、こういう時間と付き合わなくてはならないんだな。
小1時間ほどの会議が終り、照明を点けてブラインドが開けられた部屋の眩しさに一瞬目を閉じて、大きく息を吐く。
ざわざわと部屋を片付けて出て行く人の中から、野上さんが片手を上げた。
「お疲れ」
「あ、どうも。お疲れ様です」
軽く眉を上げた有也に、大学のOBで世話になっている人だと紹介する。
――先週末、僕は野上さんと連絡を取って、一緒に食事に出かけた。
前に話したように企画の仕事の流れを聞き、やってみたいという考えを伝えた。
あとは、課長に出した異動願いが受理されるかどうかだ。
「5806、ラインに乗り出したよ」
「そうですか。おめでとうございます」
「今度また顔出すから、よろしくな」
僕の隣で会釈する有也に笑いかけると、じゃ、と言って部屋を出て行った。
「ふーん」
「何だよ、ふーん、て」
「いや、おまえが企画ねぇ、と思って」
そう言いながら有也が首を回すと、ボキボキ、と音がした。
「あー、だりー。こういう会議が一番疲れんだよな、俺は」
「はいはい。そうでしょうとも」
有也はとにかく、体で覚えるタイプだ。データやら対策やらを検討するよりは、人と接して話したほうが早い、と言う。
それでここまで実績を上げてきたわけだから、やっぱり向いているんだろう。
4月に入り、会社全体が冬眠から覚めたかのように動き始めていた。
人の異動があり、新製品の話が回り、身辺がどんどん慌しくなっていく。
そんな中で、僕ら『Bチーム』は今年度初の契約を手にした。
有也が前々から熱心に口説いていたK社の人間がようやく首を縦に振り、無事に納品も済ませたところだ。
「永峰、今日はあと何だっけ」
「製作の西本さんとTL9207の件で打ち合わせ。そのあとはM社とY社に挨拶回りだな」
「おっけー。さっさと済ませよう。んで、6時には出るぞ」
「へいへい」
K社の契約祝いと称して、亜希子と3人で打ち上げに行くことになっていた。
「今日は俺、アベ160は取るからな」
「あ、そう。がんばって」
「おまえ、少しはやる気出せよー」
「いや、やる気の出す方向が違うから」
笑って話しながら、亜希子の待つ事務所に戻って行く。
――あるいは、こういう時間も、今年限りになるのかも知れないと思いながら。
スパーン、と、小気味いい音が、ボーリング場に響き渡る。
8のスプリットからスペアを決めた有也が、どうよ、という顔で振り返った。
「はいはい。すごいすごい」
力なく拍手をする僕の頭を有也の右手がはたく。
「俺は一度言ったことは実行する男なんだよ。どうだ、ほら、今んとこアベ170近いぞ」
そう言うなら、早いとこ亜希子に言うこと言っちまえ、と思うけれど、僕は軽く肩をすくめるだけにする。
「――次、アコちゃんだよ」
「あ、うん」
亜希子はどうも調子が出ないようだ。また、家で何かあったんだろうか。
レーンに向かってボールを送り出した瞬間、亜希子の手が滑った。ごん、という音を立てて、ボールがガーターにはまる。
「あちゃー……」
思わず呟いた僕を振り返って、ちらりと舌を出して見せるけれど、やっぱり調子が悪そうだ。
「……この辺にしとくか」
しばらく黙っていた有也がそう口にする。確かに今日の亜希子の様子を見ると、そうしたほうが良さそうだった。
「ごめんねー。なんか今日、ダメみたい」
「ああ。んじゃ移動しよう。俺、ビール飲みたい」
「また決定権はおまえかよ」
「当然。この前ドイツ料理の店できたじゃん、行ってみようぜ」
「あ、いいね。ソーセージとか、おいしそう」
明るく言う亜希子に、有也が笑う。僕はそれを見て、安心している自分に気付いた。
夜9時を回った頃、僕と有也は2人で亜希子を家まで送った。
本当なら、僕はここで用事がある振りでもして抜ければいいんだろうけれど、有也は『セイ、残れ』の一言でそれを制した。
亜希子の家は相変わらず人気がなく、暗く静まり返っている。
何か言おうかと考えて有也の顔を見ると、僕と目を合わせて黙って首を傾げた。
「じゃ、おやすみなさい」
「ああ。――アコ」
「はい?」
やっぱり、僕は外したほうがいい。かと言って黙って消えるのも変だし、どう言ったものか。
「……あ、あのさ」
「俺らには、言えよ」
「え?」
僕には店の決定権だけでなく、発言権もなさそうだ。仕方なく、少し離れて様子を見ることにする。
「俺は、セイから強引に聞き出しちまったし、おまえがつらいのは分かってるから。
俺にでもセイにでもいいから、話せることは話せよ」
「……うん。ありがとう」
どうしてそこで僕を出すかな。何事にも『俺様』な有也の不器用さに、ため息が出る。
小さく笑って家に入った亜希子を見送って、2人で駅に向かって歩き出した。
「さあて、飲み直すか」
「ええ、マジかよ」
「いいから、付き合え」
「……明日仕事なんだからな。少しだぞ」
ブツブツ言いながら有也のあとに付いて歩き、駅近くの店に入る。
僕は初めて来たけれど、有也は何度か来たことがあるらしい小さなスナックだった。
「あら、畠山さーん。お久しぶり」
僕はどうもこういう店が苦手だけれど、ここは意外と小奇麗で、店の女の子もさっぱりした身なりをしている。
「よ。俺のボトル、まだある?」
「はいはい。今お出ししますね。ちょっと、栄子ちゃん」
エイコ、という名前に、僕はメニューに落としていた視線を上げた。
ただの源氏名だろうと思っていると、ボトルを手にして振り返った女性が目を丸くする。
「……やだ、ウソ」
「……」
僕は咄嗟に言葉が出なかった。カウンターの中にいる栄子と僕の顔を見比べていた有也が腰を浮かせる。
「何、知り合い?」
「え、あ、まあ」
「誠一朗、よね」
「……うん」
もともと朋佳より目鼻立ちのはっきりした顔が、化粧でより強調されている。カナリアイエローのスーツ。カールさせた長い髪。
そこにいるのは、橋詰栄子。僕が高校の時に一時期付き合っていた、彼女だった。
しばらくの間は、有也も交えて当たり障りのない話をした。
とりあえず栄子は僕の『高校時代の同級生』で、それ以外のことはない、ということになっている。
けれど、どこか引っかかっているような僕と栄子の様子に何かを察したのか、有也が途中で席を立った。
「んじゃ、俺、先帰るわ」
「え、いや、俺も帰るよ」
「おまえはもう少しいれば? 俺のボトル、飲んでいいから」
そう言われて飲めるもんなら、酒の席で苦労することもなかったわけだけれど。
有也としては気を利かせているつもりらしいのを尊重して、僕は黙って彼を見送った。
新しい水割りを作った栄子が、僕の前に静かにグラスを置く。
「……こんな所で会うなんてね」
「まあ、な」
他の客が盛り上がっているのを横目で見ながら、栄子が少しづつ自分の話を始めた。
大学生の頃に演劇に興味を持ち始め、卒業後は小さな劇団にいたこと、
収入がいいので水商売を始めて、そのうちに演劇からは遠ざかっていったこと。
「誠一朗は、やっぱりちゃんとしてたんだね」
「……ちゃんとって、何」
「普通にお勤めしてるだろうなって思ってたから。やっぱりそうだった」
「あ、そう」
僕は栄子を取り巻く環境のことを思い出していた。ずっと母子家庭で育ってきて、大学にも奨学金をもらって通うと言っていた。
演劇をやりながら自分の生計を立てるためにこの道に入ったのは、仕方のないことなのかも知れない。
それは、栄子が自分で選んだことだ。
「……あの子とか、何してんだろうね」
「誰」
「ほら、いたじゃん。ボーっとして、いつもどっか外れてた子」
それまでの栄子に浮かんでいたのは、どこか後ろめたそうな表情だった。
ここにいるのを僕に知られたことが、悔しくてたまらないような顔。
それが突然、何か奥のほうに隠していた宝物を見つけたように、明るい表情になる。
あの頃の、僕が知っている栄子と、同じ瞳の色だった。
「……それがどうした」
「別に。ちょっと変わった子だったから覚えてるだけ。何だっけ、ああそう、岸田」
たった今思い出したかのように朋佳の名前を出す栄子に、胸が悪くなった。
これ以上話す気にもなれない。会計は有也と割り勘で済んでいたから、僕はそのまま席を立とうとした。
「あ、ねえ、覚えてない? あの子。誠一朗はクラスのまとめ役だったから、覚えてるでしょ」
「……さあ」
「あー、ねえ、影薄かったもんね。でも、誠一朗くらいだよ。あの子と普通に話してあげてたのって」
話してあげていた、などという覚えはない。
かと言って、僕が朋佳に何かをしてやれたというわけでもない。――結局、栄子と僕は、たいして変わりはないんだ。
卒業が近付いた頃、朋佳は学校に来なくなった。
ギリギリの出席日数で卒業できるのを計算していたかのように、ぱったりと姿を見せなくなった。
その頃、数名の女子が担任に呼び出され、いろいろ事情を聞かれていたことがある。
その中に――その中心に栄子がいた。
残りの女子はみんな栄子の『取り巻き』で、栄子の言うなりになって朋佳をイジメていたという話が聞くともなしに聞こえていた。
僕と栄子の仲は、どちらかが言い出したわけでもなく終っていた。
放課後に待ち合わせることも、互いに電話をかけることもしなくなり、その呼び出しの一件も、僕は他人事としか思えなかった。
栄子の肩を持つわけでもないが、多感な頃にそういう行動を取ってしまったことは、もう、仕方がない。
だからと言って、朋佳に対する行動を許す気にも、なれない。
「もう、いいだろ」
「え? 何が」
「あんなガキの頃に何してたかなんて、別に。今元気でいればそれでいいんじゃないか」
そう言った僕を見た栄子の瞳が細められた。
どこか怒ったように、不満そうに、僕を見据える。
「あ、そう。誠一朗は優しいもんね、誰にでも」
「あのな」
とうとう僕は苦笑した。おまえ、いったいいくつになるんだ。
「関係ないって言ってんだよ。岸田が今どこでどうしてようと、おまえが口出すことじゃない」
「何それ」
苛立った口調で語気を強めた栄子が、仕事中なのを思い出したように声を落とした。
「……何なのよ、それ」
半分泣き出しそうな栄子の表情に、僕は戸惑った。
「いや……何だよ、どうしてそんな顔するんだ」
「いいわよもう、別に。誠一郎には、あたしなんて、何でもなかったんだ」
それは、おまえもそうだろう。
口に出す寸前で飲み込み、別の言葉を探す。
確かに、栄子ときちんと向き合えていたとは思えない。どうせどちらも、たいした感情は持っていないと思っていた。
けれど、もし、栄子が僕を見ていてくれたのだとすれば。
「――岸田が、好きだったんでしょ?」
「はあ?」
僕は口を開けて栄子の顔を見つめ、ため息を吐いた。
「何でそうなる」
「違うの?」
「……覚えてねぇよ」
それが正直なところだ。あの頃の僕が朋佳をどういう目で見ていたかなんて、はっきりと思い出せない。
ただ、視界の隅で捕らえていたこと、あの夏の校庭で見かけた時から意識のどこかに存在していたことは確かだ。
「いい年してくだらないことにこだわるなよ。今さら、こんな話してどうする」
笑うしかない。あの頃の栄子を、無神経に他人を傷付けていた自分を。
「……そうね」
ゆっくりと顔を上げた栄子の横顔には、8年という時間が刻まれていた。
僕の知らないところで、知らない時間を過ごした顔が、ここにある。
「――じゃ、俺そろそろ帰るよ。明日も仕事だし」
「あ、はい」
腰を上げた栄子の表情は、もう仕事の顔に戻っていた。
立ち上がった僕に付いて歩き、他の女性達の声に送られてドアを開ける。
「良かったら、また来て」
「……ああ」
もう来るつもりはなかった。これ以上、彼女と僕の人生に接点を見つけることはできない。
「ごめん、なんか……変なこと言って」
「いや」
ドアの外に出ると、春の夜の柔らかい空気と繁華街のざわめきがまとわりついて来る。
僕はどうにか笑顔を作って歩き出そうとした。
「まあ、岸田も、いろいろ苦労したみたいだしね」
「え?」
まだ朋佳の話があるのか、と、少しうんざりして振り返る。
「一度結婚したけど、別れたらしいわよ。どっかで聞いたんだけど。バツイチなんて、今時珍しくもないけどね」
棒を飲んだように立ち尽くす僕を見て、栄子の瞳に一瞬だけ笑みが浮かんだ。
「じゃあ、お気を付けて。どうもありがとうございました」
当たり前に目の前で閉まるドアを、黙って見つめる。
――いったい、何だったんだ。
あの頃の僕らは、何を見ていた。僕は栄子の、栄子は僕の、どこまでを知っていた。
突然スイッチが入ったかのように、街のざわめきが押し寄せて来る。
僕は一歩ずつ駅に向かって歩きながら、栄子の言葉を思い返した。
今時、珍しくもない。
久しぶりに飲んだアルコールのせいか、さっき交わした会話のせいか、頭の奥が痺れて煮詰まっていく気がする。
そのくせ頭の中にある血は全部、僕の足のほうに向けて落ちていくような感じがした。
とてもじゃないけれど、電車に乗って帰れるとは思えない。
僕はタクシー乗り場の列に並び、やがて回って来た車に乗り込んで自分の部屋の場所を告げると固く目を閉じた。
驚きと、怒りと、悲しみと情けなさと。
自分をプラスに見せていたはずの高校時代のツケは、僕にこんな形でマイナスの感情の波をぶつける。
それは、体中を締め付けるような痛みにも似ていた。