僕のアパートの部屋に入るなり、有也は大きく息を吐いた。
接待に行っていた割りに、あまり酒の匂いはしない。
板張りの狭い台所の先にある6畳一間の和室の真ん中にあぐらをかいて座った有也を見ながら、僕は冷蔵庫に手をかけた。
「……何か、飲むか?」
「うん。あ、酒はもういい。なんか、水とかお茶とか、そういうもん」
言われなくても、コーヒー以外は水かお茶しかない。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を出してグラスに注ぐと、有也の向かいに座ってそれを渡した。
一息でグラスの半分くらいを空にした有也が、もう一度息を吐く。
僕はお茶を一口飲んで、なんとなく壁にかかったカレンダーを見上げていた。
もうすぐ、4月か。
そろそろ歓送迎会やら、得意先の担当者の変更やらと、慌しくなる。
それが済んで異動願いを出したとして、実際に動けるのはいつになるだろう。
あと一年くらいは営業に籍を置いて、きちんと引継ぎをしておかなければならない。
考え込んだ表情の有也の顔を一瞬見て、引継ぎ、という言葉が胸の奥にひっかかった。
そうだ。本気で企画に移動するとなったら、有也とのコンビは解消だ。誰か他の人間に、僕の仕事を引き継いでもらうことになる。
とにかく話の糸口を見つけたような気がして口を開きかけると、有也が顔を上げた。
「やっぱ、ダメだわ」
「は?」
いきなり言われた言葉と、何か吹っ切れたような有也の顔に、間の抜けた返事を返す。
「俺、どうもこういう、溜め込んでるのって合わねぇ」
「……ああ、うん、そうだろうな」
「納得すんなよ」
「いや、するよ」
顔を見合わせて苦笑する。こんなやりとりも、久しぶりだと思った。
「……なんつうか、直情径行型だからよ、俺は」
「うん」
「いや、少しは否定しろって」
「だから、できないって。ほんとにそうだろうが」
「まあ、な」
残りのお茶を一口飲んで、座っている位置を少しずらした有也が、僕の顔を真っ直ぐに見据えた。
「じゃ、訊くけど、おまえ、アコのことどう思ってる」
「どうって……」
「好きか、嫌いか」
「白か黒か、て感じだな」
「いいから、答えろ。黒なら、俺も考える」
黒と言われると、僕が亜希子を好きだとしたら悪いような感じだ。まあ実際、有也にしたらそうなんだろうとは思う。
「はっきり言えば、白だな」
「……あ、そう」
「嫌いじゃないよ、もちろん。可愛いとも思う。けどおまえが言うのは、恋愛感情があるかどうか、だろ」
「まあ、そうだな」
時刻は夜11時を回っていた。有也は泊って行くつもりだろうか。押入れの奥の客用の布団を出してこないとならない。
僕は自分の部屋着の中で、有也が着られそうなサイズのものがあったかどうかを考えた。
「……正直に言えば、ちょっと考えたことはあるよ」
「何を」
「いや、アコちゃんのことをさ。どうなるのかな、と。でも――やっぱ、仲間で、後輩で、放っとけない妹みたいなもん、かな」
「正直に言えよ?」
「今、正直に言えば、っつったの、聞いてなかったか?」
どうもおかしい。
いつもなら余裕に溢れている有也がこうして僕に突っ込む役なのに、今は却って僕のほうが落ち着いて話している。
少し、先が見えたからかも知れない。
まだ野上さんの話を聞いてもいないし、企画に移れるかどうかも分からない。朋佳と僕が、どうなるのかも分からない。
けれど、僕は企画に行けるものなら行こうと思った。朋佳を、もっと、知りたいと思った。
亜希子を大切だと思う気持ちはある。放っておけないし、大事な仲間で、友達だ。
8年ぶりに会った朋佳に、自分の気持ちがどう動いているのか分からないけれど、また会いたい、もっと話がしたい、と思う。
それは、亜希子に対する気持ちとは、別のものだということは、分かる。
「――で、そっちは」
「あん?」
僕の気持ちを聞いたことで気が抜けたのか、後ろに手をついて足を投げ出した格好の有也が僕に視線を向ける。
「有也は、アコちゃんが好きなんだろ?」
「――おまえやっぱ、マジメで気弱そうに見えて、人が悪いよな」
「口の悪さでは、おまえに勝てねぇよ」
「勝たなくてヨシ。……まあ、訊くまでもねぇだろ」
「あ、そう。んじゃま、がんばれや」
普段と立場が逆転したような会話が悔しいのか、体を起こして座り直すと、僕の顔を覗き込んだ。
「おまえは、いないのかよ」
「……何が」
「彼女は、いなさそうだよな」
「ほっとけ」
「好きな子とかさ、いないのか?」
ほんとにどうやっても、直行なヤツだ。僕はこみ上げてくる笑みにまかせて、しばらく声を抑えて笑った。
「笑ってごまかすなっての」
「いやいや、違うよ。……うん、まあ、気になってる子はいる」
「この前、昼に会ってた子か」
「……うん」
26にもなって、この会話は何なんだろう。高校生か、中学生か。
戻ってみれば、いいのかも知れない。制服を着ていた頃の自分に、あの頃、朋佳の存在を視界の隅で捕らえていた自分に。
少し小さめだったけれど、シャワーを浴びてきた有也に僕のTシャツとトレパンを貸して、
どうにかこうにか予備の布団を引っ張り出してくる。
すっかり寝る体制になって寛いでいる有也の隣に自分の布団を敷き、僕は肘を付いた腕を枕に横になった。
「セイ」
「うん?」
「……アコのこと、教えてくれないか」
「アコちゃんの……何を」
「何か今、問題抱えてんだろ? で、おまえはそれを知ってんだろ?」
仰向けになって天井を見ながら、少し逡巡した。――亜希子の許可なしに、その話をしてもいいものかどうか。
けれど僕は、これ以上有也に黙っている必要もない、と判断して、僕が聞いている範囲のことを話した。
「……そうか」
「まあ、家を出ちまえばいいんだろうけど、家族ってのはな――そう簡単に、縁が切れるもんじゃないし」
「誰か、いないのかな」
「誰かって」
「だから、こういうのは身内の問題だろ。セイに話したって、踏み込める範囲は限られてる。
誰か、親戚とかさ、間に入れねぇのかな」
ああ、そうか、と思った。
社内の人間関係ならともかく、確かに家族の問題に、僕はあまり関われない。それは有也もそうだ。
「……そうだな。やっぱ、そっちだよな」
「だろ。――そうか。それをアコは、おまえに話したわけか」
なんとなく、再び不穏な空気が流れてきそうで、僕は天井の木目から視線を外すことができなくなった。
「一度、訊いてみろよ」
「何を」
「アコに、どうしておまえに話すのか」
「いや、それは――」
「おまえにその気がないなら、はっきりさせてやれ」
「ちょっと待てよ」
僕は起き上がって、布団の上の有也を見下ろした。
「それじゃ、アコちゃんが俺のことを好きみたいじゃないか」
「違うって言えるのか?」
一瞬言葉に詰まった。
大体の事情は話したけれど、亜希子が帰り際に僕に抱きついたこと、社員旅行の夜に交わした会話については、言えずにいる。
「いや……そういうんじゃないと思うけど」
「俺だってよ」
有也も起き上がって、僕と向かい合うように座った。
「そこまでバカじゃねぇから、何でもかんでもぶちまけりゃいいとは思ってねぇよ。
でも、中途半端に優しくされて、困るのはアコだろ」
「……そんなつもりはないけど」
「それは、分かった。とにかく、一度訊いてみろ。アコがおまえをどう思ってるのか」
やっぱりまた立場が逆転した。今までと同じように有也に断言されて、僕は少し懐かしいような気持ちで苦笑する。
「――ああ、んじゃ、機会があれば」
「作れ」
「簡単に言うなよ。いきなり、おまえ、俺のこと好きか?て訊くわけか」
「アホかおまえは。ガキじゃねぇんだから、うまいこと訊き出せよ」
「おまえはそんな器用な真似できんのかよ」
2人で顔を見合わせて、ため息を吐く。
なるほど。正反対の性格だと思っていたが、どっちも不器用なことには変わりない。亜希子だってそうだ。
よく、この3人で組んで仕事ができたもんだとつくづく思う。
「……考えとくよ」
「よろしく」
「そっちこそ、さっさとアコちゃんに好きだって言っちまえ」
「……考えとく」
仕事のほうがよっぽど楽だ、と思った。それは有也も同じようで、互いに困った顔をして布団に戻る。
「……なあ」
「まだ何かあるのかよ」
「いや、おまえのその、同級生だっていう子さ、高校の時は、どうだったわけ」
「どうって」
「付き合ってたりとか、なかったのか?」
「全然。でも……実は今日、一緒に食事に行って少し話して……」
僕は、朋佳がなんとなくクラスで浮いていた事、自分が生徒会長をやっていて、
互いに違う視点から高校時代を見ていた事などを話した。
「生徒会長ぉ?」
「……悪かったな」
「似合わねぇ。絶対、似合わねぇ」
首を振る有也の頭にチョップを入れて、ひとしきり笑う。
有也は、東北の出身だ。東京の大学に入って、そのままこっちで就職した。
僕は4年間コンビを組んできて初めて、有也の高校までの話を聞いた。
意外な事にというか、彼はクラスではあまり目立たないほうだったと言う。
部活はテニス部というから少し派手な感じがしたが、団体でやる競技をやろうとは思わなかったそうだ。
「面倒くせぇじゃん。チームで動くのってさ。まあ、テニスも団体と言えないこともないけど」
「……へえ。おまえのことだから、野球とかサッカーとかバスケとか、バリバリやってそうだと思った」
「そんで、部長でもやってたって言うんだろ」
「うん。そう見える」
「だろうな」
だとしたら、今の有也は、彼が自覚して作っている顔なのか。それとも、僕やまわりの人間にはそう見えるだけなのか。
僕は、コンビを解消しようと思った今になって、この明るくて前向きな男と初めて向かい合っているような気がした。
「……有也」
「あ?」
「俺、営業辞めようと思う」
暗闇の中で、有也が半身を起こした。
「――何だって?」
「企画開発にさ、俺の先輩がいるんだ。まだ何も話してないけど、そっちに行けそうだったら、異動願いを出す」
「……いつ」
「多分、近いうちに。いろいろやることはあるだろうから、うまく行っても来年かな」
しばらく、どちらも口を開かなかった。
繁華街から離れた僕の部屋は、時折外の道を通る車の音や冷蔵庫のモーターの音が聞こえるくらいで、夜の静けさの中に沈んでいる。
「やっぱ、そうか」
ぽつりと呟く有也の声が落ちて来た。
「分かった」
ごめん、と言おうかと思った。有也と組めたのは楽しかった。1人ではできないような仕事も、一緒にがんばって来られた。
亜希子と3人で仕事を進めて行くことから、逃げるような形になってしまった。
けれど、僕は、違う言葉を選んで口にする。
「……サンキュ」
仕事が単調なのには変わりがない。
外に出ることも多いし、朋佳の言うように会社の『顔』として他社の人間と関わっていく。
最初のうちはそれがプレッシャーだった。僕の言葉ひとつ、態度ひとつ、ミスひとつで、会社全体に影響が出る。
営業に配属されて、常にそれは頭の中にあったけれど、どこの課に行っても、それは同じじゃないだろうか。
僕という個人の後ろに、有也や亜希子がいて、営業課の仲間がいて、課長がいて、会社があって。
僕が動くことで回る歯車がある以上、その動きに責任を持つのが当然だ。
毎日の、単調な繰り返しの中でそれを自覚していくこと、それに見合う動きができるように努力することが僕の『分別』だ。
会議を終えて出て来ると、給湯室に見慣れた背中を見つけた。
流しに向かって湯呑みを洗っている亜希子の作業が一通り終るのを待って、声をかける。
「――アコちゃん」
「え? あ、セイ君」
使い終わった布巾を干しながら浮かべるぎこちない笑顔に、僕は言葉を探した。
ここにもひとつ、有也に話せずにいることがある。けれど、それを言う必要は、ない。
「……この前はごめん」
「この前、って……」
「いや、俺の部屋で、さ」
どう答えたものかと考えているような亜希子の視線を追って、言葉を繋ぐ。
「ちょっと、いろいろ迷ってたけど……俺なりに答えは出たから」
「答え?」
「うん。まだ分からないけど、できたら企画に移ろうと思う」
「え、営業、辞めるの?」
「うん。その方向で行こうと思ってる」
もうすぐ昼休みだ。有也は会議室から真っ直ぐ事務所に戻って、姿は見えない。給湯室の前の廊下を通る人も少なかった。
「……そうなんだ」
「有也には、話したよ」
「そう。……セイ君が、決めたんだったら、仕方ないね」
「あと……ごめん、アコちゃんの家のことも少し、有也に話した」
「え」
目を丸くして僕を見上げる亜希子に、軽く頭を下げる。
「悪かった、勝手に」
「……ううん。ユウ君に黙ってるのは、やっぱり変だもんね」
「大体のことだけど、な。あとは、アコちゃんの判断で、有也に話せるなら話してやってくれよ」
「うん……」
昼休みのチャイムが鳴った。亜希子を食事に誘おうかと迷っていると、事務所のドアが開いて人のざわめきが流れてくる。
「あ、じゃあ、また……」
「セイ!」
事務所のドアに凭れて立つ有也の声が響く。何人かの人が振り返って見ていたが、おかまいなしに僕と亜希子のほうへ歩いて来た。
「ああ、アコも一緒か」
「あ、うん」
「んじゃ、メシ行こうぜ。夜はK社の高橋さんと打ち合わせ兼ねた食事な。アコ、午後イチで資料揃えといてくれ」
「はい」
笑って僕の肩を叩くと、先に立って歩いて行く。僕は亜希子と顔を見合わせて苦笑した。
「今日の気分は、蕎麦。てことで、向かいの長寿庵に決定。行くぞ」
「またかよおまえは。少しは人の意見を聞こうって気は」
「ない」
振り返らずに歩く有也の背中を見て、僕は肩をすくめて亜希子を振り返った。
そこにある笑顔に、こちらも自然と頬が緩む。すでにエレベータの前で僕達を待っている有也のほうへ、並んで歩き出した。