きしだ、ともか、という名前が、僕の頭の中で回り続けていた。
薄暗い教室を思い出す。古い校舎の外壁を修理するために組まれた足場のせいで、あまり陽の射さない部屋だった。
よく話をした友達の顔。付き合っていた、気の強い彼女の顔。鏡に映る、いつもどこかうんざりしていた自分の顔。
今、目の前にいる、少し照れたような笑顔は浮かんで来なかった。
「……分からない、よねぇ」
「いや……なんとなく」
さっきの、一瞬の幻のような景色は何だったんだろう。白く膨張した風景の中に立つ少女は、この女性なんだろうか。
「永峰君、生徒会長やってたよね」
「ああ、一応」
ぼんやりと返事をした僕に、彼女が声を立てて笑う。
「相変わらずだね」
「え? 何が」
「何か、人を寄せ付けないって言うのかな。本心が見えないみたいなところ」
「……は?」
こいつはどうして、僕のことをそんなに覚えているんだろう。
たいして目立つことをやったつもりはない。生徒会長と言ったって、無難に一通りの行事をこなしたくらいだ。
そう、今ここでやっている仕事と同じように。
小さく笑って僕を見上げていた彼女の瞳が、ふいに晴れた。夢から覚めたみたいにモップを持ち直し、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、仕事中に」
「あ、いや。おまえ……ええと……君も……」
「岸田でいいよ。変わってないから」
岸田、と、呼んだことがあるようなないような。
待てよ。
誰かが呼んでいた。
岸田ってさ……いちいちボケた反応するからさ……。岸田でしょ? あいつじゃ仕方ないって。
……知ってる? あいつ、出席日数ギリギリで卒業ヤバイって……。
「岸田」
「うん?」
違う。こんな顔じゃない。
つられて微笑んでしまいそうな明るい笑顔。少し赤みがかった、短い髪。
この女性は、誰だ。
「また、ここに来る?」
「うん。午前中は、他の会社で掃除してるけど。午後は時々来るよ」
「じゃ……また」
「うん。あ、書類、ほんとにごめんね」
「いや」
僕は片手を上げて、ロビーを横切ってエレベータに向かった。
ドアの開いた箱に乗り込む寸前、笑って手を振る彼女が視界に入る。
閉じたドアに息を吐いて、僕は自分の右手を広げて見た。
書類を集める時に、ほんの少しだけ触れた、乾いた冷たい手。
あの小さな手に、あの時の僕はどうして自分の手を差し伸べてやれなかったんだろう。
夏休みの校庭と言って思い出すのは、白だ。
強い陽射しが反射する古い校舎。ペンキを塗り替えたばかりの体育館の壁。ひび割れを修理した体育倉庫。
運動部員達のかけ声と、目も開けていられない白さの中で、僕は顔をしかめて日陰を選んで歩いた。
高校3年生の夏。
生徒会長としての最後の務めである文化祭のため、夏休み中のこの日に、僕は制服を着て学校までやってきた。
1学期の最後になっても必要書類を提出しなかったクラスがあって、プログラムを練り直す必要があったからだ。
他の役員達はとっくに帰って、どうにか仕事を終らせた僕は、
生徒会室の鍵を職員室に返して、帰宅するために校庭を横切っていた。
そこに、彼女がいた。
水飲み場のコンクリートに凭れるようにして立つ、制服の後姿。
最初に見た時は、練習中の運動部のマネージャーかと思った。
けれど僕の足音に気付いて振り向いた彼女の顔は、校庭に反射する光に負けないくらい白かった。
「……大丈夫か?」
思わず声をかけた僕を見上げる、真ん丸く見開かれた瞳。
「永峰君」
「え?」
知ってる子だっけ、と考えて思い出した。同じクラスの岸田だ。
いつもおとなしくて、誰かと話しているところなんて、見たことがない。
「岸田、だよな」
「……うん」
「どうした。気分悪いのか」
「あ、大丈夫。ちょっとクラっとしたかなって」
「日陰にいろよ」
僕の言った言葉に素直に従うと、校舎の影に入って息を吐く。
「おまえ、何してんだ。部活か」
「……ううん。永峰君は?」
「俺? 生徒会の仕事。もう帰るけど」
送って行こうか、という言葉が喉まで出かかった。けれど、僕の脳裏に浮かんだのは、当時付き合っていた彼女の顔だ。
あいつは確か、僕が今日学校に出て来ていることを知っている。
本気か冗談か、終る頃にここまで来るようなことを言っていた。
校庭の向こうで、歓声が上がる。大きく打ち上げられたボールを目で追うけれど、眩しくて見えない。
「野球部、がんばってるね」
「ああ。何だ、誰かの応援か」
「……そういう訳じゃないけど」
苦笑して視線を逸らした岸田が、次に顔を上げた時の瞳は、驚くほど明るかった。
「つ・い・し」
「は?」
「だから、追試。出席日数ギリギリだから、受けないといけなかったの」
「……何だ」
岸田の出席日数がギリギリな理由は、訊こうとも思わなかった。
俺には関係ない。女達の、くだらない遊びの犠牲になっているだけの話だ。
そう、あんなもの、ただの遊びだ。
やるほうも、やられるほうも、くだらない。
その時の僕には、その程度にしか思えなかった。
「もう、終ったんだろ」
「うん」
「……じゃ、帰れば」
「うん。……少し、ここにいたかったから」
「何で。暑いじゃんかよ」
「今なら、誰もいないでしょ?」
「は?」
眉を寄せて訊き返した僕に、彼女は笑った。制服のスカートを翻して、くるりと回ってみせる。
「今、あたしがここにいても、誰も、何も、言わないでしょ?」
――よく、分からない理由だった。
それでも僕は、後ろから頭をひとつ、ガツンと殴られたような気がした。
しかし、実際、その時に後ろから降ってきたのは、彼女の声だった。
「誠一朗! 何してんの、こんなとこで」
苛立ちを含んだその声に、岸田が慌てて立ち去ろうとする。
「あ、おい、岸田――」
振り向いた岸田は、困ったような顔で笑うと、僕に向かってひらひらと手を振り、走って行った。
肩で揺れる、真っ直ぐな髪。風になびく紺色のスカート。乾いた地面を蹴る、小さな靴音。
「ちょっと、正門で待ってるって言ったでしょ!」
僕はその声で襟首を掴まれたかのように振り返った。
同じクラスで話すうちに、いつの間にか付き合うようになっていた彼女――橋詰栄子のしかめ面に、片手を上げて見せる。
「悪い、遅くなった」
「もう。あたし私服なんだからね。早く行こうよ」
どうして、こいつと付き合ってるんだっけ、とぼんやり考える。
何かの用事で学校に残っている時に、付き合ってよ、と言われたことがあった。
ああ、別にいいけど。
その一言で始まった2人が終るのに、卒業までの時間は必要なかった。
ネクタイを緩めて息を吐く。
昼休みを告げるチャイムに、周りの机が一斉にガタガタと音を立てた。
「永峰、今日、メシは?」
同じようにネクタイの結び目を引っ張っている有也に訊かれて、向かいの席に目を向ける。
亜希子は、いつの間にか自分の席から消えていた。仲のいい女子社員とでも食事に出たのなら、そのほうがいい。
――あの夜の電話は、何だったんだろう。
僕の部屋から亜希子の家まで、車なら30分もかからない。迎えに行って、話を聞いてやるべきだったんだろうか。
仕事のパートナーとして。友人として。
「おい、メシだってばよ」
「ああ。――畠山は?」
「うーん。今月財布がヤバイんだよなぁ。社食で済ませようかと思ってたけど」
じゃあ俺も、と言いかけて考え直す。
午後は時々来るよ。
朋佳がそう言ってから、1週間が経っていた。
そうそう下のロビーに降りる用事ばかりもないし、何度か清掃の人は見かけたけれど、朋佳の姿はなかった。
「……俺、外行って来る」
「あん? 何だよ、1人でか?」
「まあ……うん」
「アヤシイな」
にやりと笑う有也に笑い返して、僕は席を立った。
別に何が食べたいという訳でもない。
適当に近くの蕎麦屋で昼食を済ませ、何か用事でもあるような顔で1階をブラブラと歩く。
ロビーの隅の灰皿を磨くピンクのツナギ。キャップの下から覗く明るい色の髪に、僕は足を速めた。
「――岸田」
「あ、永峰君だー。お昼?」
「うん。おまえは?」
「ここ済ませてから。今日は人少なくて、交替で行ってるの」
「そうか」
もう一度、会いたいと思っていた。
あの夏の校庭で見た少女と、今ここにいる明るい笑顔の女性の、どちらが幻なのか。
僕は、誰と、何を、話したいのか。
けれど、事あるごとに探していた朋佳の姿を見つけた途端、何を言えばいいのか分からなくなった。
高校の教室で、時折見かけた細い背中を思い出す。
それは自分の記憶の中で、友達の笑顔や教室の風景に溶け込むことなく、白く明るく僕の胸に焼き付いていた。
あの頃のおまえは、何を考えていた?
いつも誰かの影に怯えて、目立たないように、誰の気にも障らないように、息を潜めて。
8月の、自分のことを知っている人が誰もいない校庭で、何を見ていた?
「――なの?」
「えっ?」
小首を傾げて苦笑する朋佳に、僕はぎこちなく笑い返した。
「ごめん、何?」
「永峰君、時間大丈夫なの? て訊いたの」
「ああ、うん――あと10分くらい」
「仕事、忙しい?」
「俺? んー……一応営業だから、気は遣うかな」
「へえ、営業なんだ」
「見えないだろ」
笑って言う僕に、朋佳はピンクのキャップを一度外して、被り直した。
「結構意外かも。もっと、裏のほうでコツコツ仕事してそうかなって」
「当たってるな。今も、表立ったほうは相棒にまかせて、地道に基礎造りしてるほうが多いよ」
これが、時間というものなんだろうか。
あの頃、同じ教室にいても、互いの距離はまるで違っていた。
数メートルと離れていない席について、同じ教師の話を聞き、同じ教科書を広げていたのに。
僕と朋佳は、自分の周りで呼吸している酸素の種類すら、違っていたような気がした。
それが、今、笑って、当たり前のように普通の会話をしている。
同じ目の高さで。同じ空気を呼吸して。
ロビーを通る人の数が増えてきた。
たった今朋佳が磨いたばかりの灰皿に、吸殻を放り込んでエレベータに駆け込む人が通り過ぎて行く。
「あ、時間でしょ?」
「だな。……じゃ、がんばれよ」
「うん。ありがと」
手を振る笑顔。耳に残る声。
……君は、本当は、誰なんだ。
ふと隣の席を見ると、有也の手は止められたままで、パソコンの画面も当然変化がない。
珍しいな、と、皮肉のひとつも言ってやろうかと彼の視線の先を追うと、コピー機の前に立つ亜希子が見えた。
――そういうことか。
はっきり言っちまえよ、と言いたくもなる。
顧客だろうが、上司だろうが、言いたいことは黙っていない有也が、
亜希子に対しては言葉を選んでいるのが、僕にすら分かる。
確かに、最近の亜希子はおかしかった。
元々ぼんやりしてるけれど、仕事はきちんとするし、はっきりと物を言うほうだと思う。
それが、何にしてもワンテンポ遅れた受け答えをするので、
僕らだけでなしに、他の社員の間でも心配する声が聞こえてきていた。
ガシャコン、ガシャコン、と音を立てていたコピー機が、静かに動きを止める。
それに気付いた亜希子が出来上がった書類をまとめてくるのに、またさらに時間がかかっていた。
「……畠山さん、お待たせしました」
束ねた書類を持った亜希子が、有也の机の前まで歩いて来る。
すました顔でパソコンの画面に戻る有也の様子がおかしくて、僕は笑いを堪えた。
「ああ、サンキュ」
なんとなく亜希子の顔を見ないようにしながら書類を受け取り、ざっと中身を確認した有也が、顔をしかめた。
「……坂下」
「はい」
「俺の言ったこと、聞いてたか?」
「……は?」
「両面コピーで、6枚づつ、全部で20部。そう言ったよな?」
「えー、と、……はい」
左手にまとめて持った書類を、右手でパラパラと送って見せる。
どう見ても片面にしかコピーはされておらず、20部もあるようには見えなかった。
「――すみません!」
慌てて頭を下げる亜希子を、有也は黙って見つめていた。
別に気にするな。ゆっくりでいいから、やり直してきてくれるか。
そんな言葉が出てくるだろうと、僕は手元の書類を見ながら考える。
「……アコ」
昼間の事務所内で、有也が亜希子をこう呼ぶのは初めてだった。
その抑えた低い声に、亜希子が体を強張らせるのが分かる。
「おまえ、ここに何しに来てる」
「……えっ」
「ここは、どこで、何をする所だ」
「――会社、です。仕事を、する、所です」
微かに震える小さな声に、僕は席を立ちかけたけれど、有也の視線がそれを制した。
「分かってるならいい。2度は言わない。さっき俺が頼んだ内容、忘れてないな?」
「……はい。両面で、6枚。20部ですね」
「そう。何をしたらいいか分かるな?」
「はい。すぐ、やり直して来ます」
「急がなくていい。よろしく頼む」
「はい」
泣くまいと力を込めたような瞳で、亜希子がもう一度頭を下げると、足早にコピー機に向かって行った。
僕は黙ってそれを見送り、亜希子にも有也にもかける言葉が見つからず、形だけでも仕事に集中する振りをする。
「――セイ」
「え?」
有也の呟いた声を、聞き間違えたかと思った僕は顔を上げた。
「……俺、間違ってるか」
「いや。おまえの言ってることは正しいよ。
……アコちゃんが何を悩んでるのか知らないけど、今ここに持ち込むことじゃないだろ」
唇を噛む有也の横顔からは、亜希子への想いが痛いほど伝わってきていた。
本当なら、優しく慰めてやりたい。思っていることを全部、聞いてやりたい。
そんな声が、聞こえてきそうだった。
「帰りに、さ」
「あん?」
努めて明るく言った僕の声に、有也が疲れた瞳を上げる。
「食事にでも誘って、聞いてやれよ」
「……俺が、か」
「聞きたいのはおまえだろ」
苦笑した僕に、有也はひとつため息を吐いて、大きく伸びをした。
「……ダメだろうけどな」
有也らしくない言葉だと、僕はその時思った。
12月24日を過ぎると、街はあっけなくクリスマスを忘れてしまう。
25日当日なんて、おまけみたいなものになってしまったのは、いつからだろう。
あれから、とりあえず会社では明るく振舞う亜希子と、相変わらず飄々としている有也とで、無難に仕事を進めてきた。
けれど、なんとか年内にと思っていた契約は取れないまま、仕事納めの日を迎えようとしている。
クリスマスと言ったって、どういうわけか誰1人として決まった恋人のいない僕ら3人には、あまり意味のない一日だった。
僕としては気を利かせて、有也と亜希子が2人で食事にでも行くようにと1人で帰り支度をしていたけれど、
いつものように強引な有也の一言で、3人で軽く飲みに行くことになってしまった。
年明けには、決めるべき所を決めていいスタートを切ろうと、なんとも色気のない会話で終ったクリスマスだった。
明日から年末の休暇に入るという日、その『決めたい』顧客からお呼びがかかった。
ここは俺の腕の見せ処だと、妙に張り切った有也がその接待を買って出る。
あまり酒にも強くないし、ヘタなことを言ってせっかくの決意を無駄にしそうな僕は、
おとなしく有也の背中を叩いて送り出した。
いささか、情けないような気もしないでもなかったけれど。
午後の時間を使って事務所の大掃除を済ませ――僕は、最近見かけなくなった朋佳のことを思い出した。
たまに会社で会うくらいで、互いの連絡先さえ知らない。
彼女は誰と、どんな年末を過ごすのだろう。
あの瞳に、昔には見られなかった明るさを与えたのは、誰なんだろう。
会社全体での締めの挨拶が済み、僕はゆっくりと家路を辿る。
明日にでも、有也の今夜の戦果を聞いて、あとは、少し実家に顔を出して――
何ということのない休暇を過ごすことになるだろう。
駅に向かう僕の後ろから、走る足音が聞こえた。
振り向いた僕は、少しだけ驚いて、それでもどこかで納得していた。
「――アコちゃん」
「……セイ君、時間、ある?」
一瞬浮かんだのは、仕事中の亜希子を見つめる有也の視線だった。
それでも僕は、亜希子の思い詰めた瞳の色に、黙って頷くことしかできなかった。