冷たいリノリウムの床から寒さが這い上がってくるような気がして、僕は足を組み替えた。
だだっ広い事務所を部署ごとに仕切った衝立の向こうは、暗く静まり返っている。
部屋の半分の照明は落とされて、暖房もついさっき切られてしまったようだ。
隣の席に座った有也のほうを向くと、相変わらず凄い勢いでキーボードを叩いている。
向かいの席の亜希子は、黙々と伝票の整理をしていた。
ため息をひとつ吐いて首を回した僕の頭を、有也の左手が、すぱん、とはたく。
「いってー」
「さぼってんなよ、セイ」
「さぼってねーよ。あと2ページで終わりだって」
「ヨシ。俺はあと……この表が完成したらだな。アコは?」
「えーと、合計出して、検算したら、終わりです」
「おっけー。凍死しないうちに帰ろう」
「シャレになんねぇよ」
僕の言葉が合図だったかのように、2人ともそれぞれの仕事に戻る。
僕も改めて手元の顧客リストに目を落とし、必要箇所をマーカーでチェックしていった。
入社して、この営業課に配属されて、4年。
2年前からコンビを組んで動いている畠山有也とも、それだけの付き合いになる。
去年入社してきた坂下亜希子が僕らの補助について、だいぶ動き易くなってきた。
けれども営業の成績はまだまだで、こうして時折残業をする羽目になる。
「セイ、先月のリスト、どこに入れた?」
「あ、俺のファイルに一覧入ってる」
有也は何故か僕を『セイ』と呼ぶ。
フルネームの永峰誠一朗というのを聞いて『長い』と文句を言ってきたのはこいつくらいだ。
なんか政治家みてぇな名前のヤツ、とか、名前に10文字も使ってんじゃねぇ、とか、散々言ったあとで、
面倒くさい、セイでいいや、と勝手に決めた。
学生じゃあるまいし、と苦笑した僕に、仕事中は永峰って呼んでやるよ、
俺のことは有也でもユウでも好きに呼べ、と言った。
補助についた亜希子のことを『アコ』と呼んだのも、もちろん有也だった。
「ぐあー、さみぃ。ビール飲みてぇ」
「おまえそれ、どういう発想だよ」
言いながらもキーを打つ手を止めない有也に、感心しながら呆れる。
年末の押し迫った12月の事務所は、コンクリートの壁からじわじわと冷えが忍び込んでくるみたいだった。
「終わり、っと!」
大きく息を吐いてファイルを閉じた僕に、有也が舌打ちをする。
「ちょっと待てって、これ保存するから」
「何を待つんだよ」
笑って言う僕の前に、湯気の立つカップが置かれた。
「お疲れ様」
「おー、気が利く。さすがアコちゃん」
有也の机にもコーヒーのカップを置いた亜希子が、僕を見て小さく笑う。
伝票の整理は終っていて、亜希子の机の上は綺麗に片付いていた。
「おまえその『アコちゃん』てやめろよ」
「何で」
データを保存して、パソコンの電源を落とした有也が、椅子を回して僕の顔に人差し指を突きつけた。
「なんか、オヤジくせぇ。おっさんなのは名前だけでいいだろ」
「何だそりゃ」
「永峰さん、これ戻してきますね」
「あ、悪い」
亜希子が僕の使ったファイルを棚にしまうのを見送っていた有也が、僕と目が合うと、すっと視線を逸らした。
「コーヒーもいいけど、腹減ったな」
「あー、減り過ぎ。アコちゃん、何か食ってく?」
「なんでアコに訊くよ? 俺の意見は?」
「おまえは、ほっといても自分の意見出しまくりだろ」
そう言って2人分のカップを持って廊下に出ると、給湯室でカップを洗って戻る。
事務所を閉めた2人が廊下の端に立っていて、僕に気付いた有也がコートを投げてよこした。
「イタリアン、決定」
床に置かれた自分の鞄を手にした僕に、有也が言い切った。
「俺、和食な気分だな」
「却下」
やっぱり、とため息を吐いて歩き出した僕に、亜希子が追いついて小声で訊いた。
「和食にします?」
「いや、いいよ。実は別に何でもいい」
顔を見合わせて笑った僕らに気付かない振りで、有也が事務所の鍵を警備室に返す。
けれど、こっちに意識を向けていることは、その背中から伝わっていた。
「ほんとにビール飲むんだな」
「だからそう言ったじゃんか」
会社近くのイタリアンの店は、クリスマス一色に染められていた。
木目を基調にした店内に、赤や金のリボン。窓際に置かれたツリーやキャンドル。静かに流れるクリスマスソング。
「なんとか来週には一件取りたいよなぁ」
煙草に火を点けながらぼやく有也に、僕は黙って頷いた。
一応仕事納めの前に、うちのチームの名前を残しておきたいというのはある。ただの『Bチーム』だけれど。
「大丈夫ですよ。この前のD社の中村さん、いい感じだったじゃないですか」
「アコ、敬語終わり」
「あ、はい」
「終わり」
「……うん」
ちょっと困った顔で頷く亜希子と目が合って、互いに苦笑する。
僕は会社での人間関係なんて、トラブルにさえならなければいいと思っていた。
休日に会ったり、必要以上にベタベタした付き合いなんて、面倒だったから。
けれど有也にかかると、そんなものはあっさりと乗り越えられてしまう。
亜希子も含めた3人でいることが当たり前になり、こうして仕事帰りに食事に行ったり、休日に遊びに行くことも少なくない。
「んじゃ、D社が取れたらぱーっと投げに行くか」
有也が腕を振って、ボールを送り出す仕草をした。
「ぱーっと、ね」
「何だよ、行かねぇの?」
僕ら3人の共通の趣味は、ボーリングだった。
有也は学生の頃から好きで、僕も嫌いじゃなかったから何度か付き合って、
亜希子が入ったばかりの頃、一緒にやろうと誘ってみた。
意外なことに、亜希子はかなりの腕だった。
150アップもざらだから、女の子にしたらうまいほうだと思う。
ヘタをすると僕が負けることも少なくない。調子がいいと200台を叩き出す有也も、亜希子に対してはムキになる。
「でもなぁ」
僕は有也の煙草を1本取って、勝手に火を点けた。自分で買って持ち歩くほどではないけれど、たまに吸いたくなる。
「こう、世間が華やかにクリスマスで浮かれてる時にさ、ボーリングって地味だよな。しかも契約祝いがそれかよ」
「そういう周りの意見に流され易いのが、おまえの最大の弱点だな」
有也の言うことはいちいち当たっていて、時々本気でムッとさせられる。
「悪かったな」
「好きなことやって何が悪いんだよ。俺らが楽しければおっけー。チガイマスカー?」
変なアクセントをつけて言う有也に、亜希子が吹き出した。
「結局セイ君も、契約取れる気でいるんだね」
「おう。こいつが取れるっつったら、もう決まったようなもんだろ」
「……有也が言っても、怪しいからな」
「俺は何でも取れると思ってるから」
「ユウ君らしいけど」
ころころと笑う亜希子を見て、有也が目を細めた。
――何にしても、いい年末を迎えたいものだと言いかけて、やめる。
やっぱりオヤジくせぇと言われるのは目に見えていたから。
僕のいる会社は、簡単に言えば商品を作って売るのが仕事だ。
顧客である企業を回って、売り込み、契約を取って来るのが僕ら営業のすることで、
企画や製作に関わる部署との連携も大事になってくる。
今、どんな商品に需要があって、それを正しく提供することができるか。
――つくづく、自分に向いてないと何度も思った。
いくらこっちがいいと思っても、それが相手に伝わらなければ買ってはもらえない。
製作する側がどんなにいいものを作っても、僕らが広めていかなければ会社の利益にはならない。
そのプレッシャーと、相手より下手に出てうまく話を運ぶことの難しさに、入社した頃の僕は振り回されていた。
先輩社員に付いて得意先を回っていた頃が、一番つらかったと思う。
それなりに人脈もでき、だいたいの流れもつかめてきた頃、有也と組まされた。
口がうまく人を乗せるのが得意な有也と、データを集めて処理をするのが得意な僕とで、なんとかここまでやってきた。
僕は集計を終えた一覧表の画面をチェックしながら、右隣の席で書類を読む有也の横顔に視線を移す。
有也は、いいヤツだ。
かけがえのないパートナーで、何でも話せる友人で――僕には無いものを、たくさん持っている。
僕より高い4cmの身長分、遠くまで見通せているような気さえする。
「永峰」
「――えっ」
いつの間にこっちを向いたのか分からなかった。
気付けば、有也が眉をひそめて僕を睨んでいる。
「K社との打ち合わせ、いつだったかって訊いてんだよ。何ぼけっと人の顔見てんだ」
「ああ、うん、何でもない。……K社ね」
スケジュールを確認する僕に、有也がにやりと笑う。
「ついに、俺に惚れたか?」
「ついにって何だ。別に何でもねぇよ。考え事してたら、目がそっちに向いてただけ」
「惚れんなよ」
「気を付けるよ」
ため息を吐いて打ち合わせの予定をメモすると、有也の机に投げた。
おまえには、アコがいるだろ。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。悪い話じゃない。この2人は結局、お似合いなんじゃないかとは思う。
でも僕は。
「あー面倒くせぇ。買うって決めたらまかせてくれりゃいいじゃねーかよ。何度も何度も打ち合わせやら説明やらよー」
「しょうがないだろ。スーパーで大根買うのとは違うんだぞ」
「出たな、オヤジな喩えが」
有也と亜希子が付き合うことになったら、僕ら3人はどうなるんだろう。
別に、僕が口を出すことじゃない。どう見ても有也は亜希子が好きなんだし、亜希子は――。
向かいの席で電卓を叩く亜希子に目を向ける。
最近少し元気がないみたいで、有也がそれを気にしているのがビシビシ伝わってきていた。
亜希子は、気付いているんだろうか。有也が行動を起こしたら、どうする気なんだろうか。
そんな考えを振り切るように手元の書類に目を落とす瞬間、有也と視線が合った。
何か言われるかと思ったが、黙って目を逸らす。
――僕と亜希子が話しているのを見る時の有也は、いつもそんな瞳をしていた。
アパートの階段を上る足が、やけに重い。
たかが2階まで上るくらいで吐き出す息は、白い塊になって闇に吸い込まれて行った。
仕事納めまで、あと10日。僕の持ち場は専らデータ処理だと自認しているから、
役に立ちそうな資料を持ち帰って家でまとめることにしていた。
一日中火の気がなかった部屋は、空気が音を立てそうに冷たい。
慌てて暖房のスイッチを入れ、お湯を沸かし、部屋着に着替える。
風呂に入ったらそのまま寝てしまいそうだから、仕事を済ませるまではお預けだ。
何でここまでしなきゃいけないんだよ、とも思う。
――高校生の頃、行事の前に学校に居残って作業をしていた気分を思い出した。
僕は、どういうわけか生徒会の役員なんてものになってしまい、3年生の春には会長の任に就いていた。
どうしてだろう。
未だに良く分からない、というのが正直なところだ。
これと言って、リーダーシップを取るタイプでもないと思う。
周りに流され易いのは認めるが、それにしても、もう少しマシなヤツがいたんじゃないだろうか。
確か、部活で世話になっていた先輩が会長に立候補したのがきっかけだった。
2年生の時に『永峰、手伝ってくれよ』と言われ『いいスよ』と軽く返事をした結果、副会長にされていた。
で、そのままの流れで、次期生徒会長になったというわけだ。
いい加減な話だ。
こんな男が会長をやって、よくうちの生徒会が運営されていたもんだと思う。
淡々とデータを入力しながら、そんな余計なことを考える。
明日はこのデータを会社のパソコンに入れて、それを元に有也と打ち合わせして、課長にお伺いを立てて――。
「おわっ!」
いきなり携帯の着信メロディが鳴って、僕は思わず声を上げた。
別に誰に聞かれているわけでもないのに咳払いをしてごまかし、携帯の受話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あ、あの……』
「アコちゃん?」
『うん。ごめんね、遅くに』
遅く? と思ってテレビの上の時計に目をやると、夜10時を過ぎていた。いつの間にか、作業に没頭していたらしい。
あとどのくらいだっけ、と考える。未入力の顧客データの束は、5分の1くらいを残していた。
これを入れて、FDに落とせば終わりだな。
その間ずっと黙っていた亜希子の向こうで、車の音がした。
「アコちゃん、どこにいるの?」
『え? あ、家の近く。ちょっと――買い物』
こんな時間にか? まあ、コンビニくらい行くかも知れないけど。
「で、何」
我ながら冷たい言い方になってしまったかも知れない。
けれど、何が言いたいのか分からない亜希子に、少し苛立ち始めていた。
『ううん。ちょっと、外に出たんだけど……声、聞きたくなって』
一瞬、亜希子は僕の何だっけ、という疑問が浮かぶ。
これが僕の『彼女』なら、何の不思議もない。声が聞きたい、なんて理由で電話が来るのも当然だろう。
「……俺の?」
『え、あ……うん……』
カマを掛けるような僕の言い方に、亜希子が口篭る。どう受け取ればいいのか、理解に苦しむ声だった。
「何かあった?」
『って言うか……セイ君、今、何してる?』
「一応仕事。ほら、D社のさ。いい加減詰めとかないと今週キツイだろ」
『あ、そうか。そうだね。ごめんね。うん、別に用事じゃないから』
慌てて電話を切ろうとする亜希子の声が、微かに揺れていた。
まだ切りたくない、誰かと話していたい、そんな声が聞こえるような気がする。
「……大丈夫か?」
有也に掛けろよ、と言いたいのを堪えてそう訊く。
それで本当に亜希子からこんな電話が行けば、あいつは全部放り出して飛んで行くはずだ。
そうさせればいいのは分かっていた。けれど、亜希子が自分で選べばいいことだというのも、事実だ。
『うん。平気。ごめんね……誰かと話したかっただけだから』
多分、それが本音だろう。僕でなきゃいけないというわけでも、ないんだろう。
「そう。早く帰ったほうがいいよ」
『はい。じゃあ、邪魔してごめんね』
「いやもう終わりだから。気を付けて」
『はい』
しばらく黙っていたが、向こうから電話を切る様子はなかった。僕はもう一言何か言おうかと考えて――そのまま切った。
いつもより時間が掛かってしまった外回りを終えて会社に戻ると、会議の時間にギリギリだった。
「やっべぇ。セイ、今日の資料持ってるか?」
「ああ。企画課と合同のヤツだろ?」
僕は1階のロビーで自分の鞄を開けると、資料を取り出した。
「んじゃ、俺行って来る。おまえはアコと報告書作っといてくれ」
「分かった」
有也が慌しくエレベータに駆け込むのを見送って、手にした書類を抱え直す。
もうあと一息で目当ての契約が取れそうな感じで、思いつく限りの材料を持って出かけていた。
これがボツったら、今年の成績はここまでだな。
去年に比べると、亜希子のサポートが入った分、上がっていないこともない。
事務処理のほとんどを彼女に任せることができるし、連絡もすぐに取れるから、だいぶ楽になったと思う。
だったらもう一声、と思ってしまうのも人の常というヤツで。
けれど有也の営業トークを持ってしても首を縦に振らない顧客に、正直疲れ始めていた。
「……行くか」
誰にともなく呟いて顔を上げた途端、後ろから何かがぶつかって来て、僕の足はタタラを踏んだ。
書類の束がずり落ちて、床に散らばる。
「あーっ! すみません!」
背中から掛けられた女性の声にため息を吐いて、床にしゃがんで書類を拾い集めた。
仕事に慣れていない新人の女子社員か何かが、前も見ないで歩いていたのか。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「――ああ」
一緒になって書類を拾おうと屈み込むのは、見慣れたグレーの制服じゃない。
明るいピンクのツナギを着て、揃いのキャップをかぶった彼女は、手に持ったモップを置いて僕を見上げた。
――清掃の人か。
なんとなく、掃除をしているのはオバちゃんだと思っていた僕は、思いがけず若い彼女の顔を見下ろして、固まった。
「……永峰、君?」
誰だっけ。
どこかで見た覚えはある。この顔じゃない。もっと地味で、あどけなくて――。
ふいに僕の目の前が、白くフラッシュした。
校庭の土に反射する、夏の陽射し。砂埃に目を細めて、額にかざした白い手。
水色のブラウス。紺色のスカート。胸元で風に揺れる、青いリボン。
「おまえ……えー、と」
「覚えてないよね。岸田です。岸田朋佳。……高校、一緒だったよね」